12.

 エスレイの考えていた〈蒼風の回廊〉は断崖絶壁であり、登るには相当の根性と握力、そして、雲よりも高い崖に三点で体を保持する器用さが必要に違いないと思っていた。

「でも、こうして見てみると、結構植物がありますね」

〈蒼風の回廊〉の足元には古く頑丈な蔦が絡みつき、自然の洞穴をさらに穿って登り道をつなげたらしいものまでがあちこちに入口を開けていた。

 火種になるものと日持ちのする食料を詰め込んだ雑嚢を肩にかけ、入口に垂れ下がった蔓を避ける。洞窟は暗いが、カンテラが必要なほどではない。どこか小さな穴から白々と明けた朝の空が小さく見えることもある。

 三人は〈蒼風の回廊〉を登る道を取った。エスレイとシンザ、それにウルバの三人で。

 ウルバ――それが落ちてきた女の子の名前だった。エスレイよりも頭一つ背が低いウルバはおそらく十歳か十一歳くらい、だが、立派な狩猟槍を携え、羽のマントをまとい、干し肉を入れた袋、それに急降下するときに風を通してブワーン!と甲高いわめき声を上げる共鳴箱を腰から下げていた。

「よろしくお願いしますね、ウルバさん」

 ウルバはぷいっと顔をそむけた。名前を名乗った以外は口を利かないのだ。

「こちらの言葉が通じないんでしょうか?」シンザがたずねた。

「でも、ルズリンから魔法書を持っていくこともあるそうですから、たぶん話は通じるんだと思いますよ」

「じゃあ、口も利きたくないほど怒ってるってことですか?」

「たぶん……」

「うーん……」

 エスレイとシンザはウルバをハーシュ人たちのもとに返す。そのあいだ、コルネリスが人質として残される。それがエスレイたちと三人の判事が交わした約束だった。

「参考までにたずねますが」出発前、シンザは巨大な鳥かごのなかで宙ぶらりんになっているコルネリスを見上げながら、くすりと笑った。「もし、おれたちが逃げたら、コルネリスはどうなるんです?」

 判事は肩をすくめた。「さあな。そんなこと考えもしなかった」

「なぜですか?」

「これまで人質が仲間から見捨てられたことは一度もなかった」

「それは不用心ですね。逃げられたときのことをあらかじめ考えておいたほうがよくありませんか」

「そうかもしれん」

「おれの生まれたギ国では人質を差し出した側が約定にたがうことがあったら、人質を逆さ磔にするのが決まりです」

「参考にきくが、それはどうやるのだ?」

「十字に組んだ木材に足を揃えて逆さまに縛りつけるんです。それから槍で――」

「こらぁ! シンザ!」コルネリスが鳥かごから怒鳴った。「てめー、なに縁起でもねえこと話してんだ!」

「いえ、ほんの冗談です」

 と、言ったシンザの目は笑っていなかった、かもしれない。

「シンザさんって、コルネリスさんには対応が塩辛いですよね」

「そうですか? おれは普通に接しているつもりですが。まあ、付き合いの長さからくるやり取りの気楽さと思ってもらえれば」

「コルネリスさんのこと、信頼してるんですね」

「とんでもない。お金を預けるとか、ここでじっとしていてくれとか、そういうことでは全く信用できません。ただ、武器を持った男たちに囲まれたとき、コルネリスがいれば、背後からの攻撃は気にせず戦えますね」

「それが信頼なんですよ」

 シンザは苦笑した。「どうでしょう。そういう事態に落ち込む原因はたいていコルネリスの放った余計な一言なんですから」

 休憩のあいだ、そんな話をした。健脚を頼みに岩山をかなり登り、もう高さも半ばまで来ている。来る途中で見かけた地形を思い出す――風が唸る十字路、岩棚へ張り出した階段、鋼の縄よりも固い蔦の回廊、大魚の影がさまよう地底湖。

 光る苔、光るキノコ、光るトカゲの目で岩山の内部はそれなりに明るい。砂が流れ落ち、水がくぼみに固まるのを見ると、なかなかあまのじゃくな洞窟のようだ。

 エスレイたちが休憩しているのは小さな岩窟寺院だった。その忘れ去られた礼拝堂には天窓のような三つの穴から光が斜めに差し込み、水をにじませる苔の祭壇がきらめいている。その祭壇の脇には白骨と成り果てた骸が一つ、身につけている鉄の鎧と逆涙型の盾、剣の重みに押しつぶされそうになっていた。

「おれたちと同業のようです」

「そうですか」

 エスレイはうつむきこうべを垂れて、ロツェの印を切り、死者の魂の安寧を祈った。自分と同じように〈虹の王〉の羽根を求めてきたのか、あるいは別の何か目的があったのか。死んだとき仲間はいたのだろうか。それとも一人で死んでいったのだろうか。しゃれこうべは考え込むエスレイをこう笑っているかもしれない――仲間、正義、理由、そんなもの結局関係ない、人はみな死ねば骨になるだけなんだぜ。

「エスレイ、これを見てください」

 シンザに呼びかけられ、目線を上げる。そこには様々な鉱石をはめ込んだ壁画があった。

 その内容は創造神話らしいが、それはエスレイが信仰する創造神ロツェとは違う、巨大な鳥による世界の創造だった。その鳥を描くのに特に細かく砕いた三十種類以上の鉱石が使われていて、その姿はまるで――、

「――虹のようですね」

「それはウィツルアクリだ」

 幼いが堅い言葉にエスレイが振り向くと、ウルバが槍を石のベンチに置いて、祭壇の前まで歩いていくところだった。

「神の国の虹の王。風の崖の主。最初の一飛びで、神の国より星と大空を運び、次の一飛びで山と大地を運び、最後の一飛びで全ての生き物と植物をこの世界に運んだ」

 祭壇の前に立つと、共鳴箱から土器の塊を取り出した。それは心臓に似た形でいくつも穴が開いていた。その土の心臓が苔の盛り上がった祭壇の上に置かれた途端、風が湧き、不思議な音楽が奏でられた。きいたことがないのに懐かしさを覚える不思議な音階。重なり合う音。これは神話というものに触れる際に鳴る音楽、教会のパイプオルガンなのだ。

「この世界のもの全てはウィツルアクリによって神の国より持ち出され、その役目を終えたときにはウィツルアクリによって神の国へ帰る。それはグェレカとて例外ではない」

 そう言いながら、ウルバの小さな顎が白骨の骸を指し示す。

「グェレカ?」

「われらの古語で〈地の人〉を意味する。ウィツルアクリの羽根を求めんとする、愚かな汝ら、グェレカであっても、ウィツルアクリは神の国へと運ぶのだ」

「おれたちが〈虹の王〉の羽根を求めてここに来たことはまだ誰にも話してない。他に誰かが、ここに来ているんですか?」

 シンザの問いかけに、ウルバは明らかに激高した。

「しらじらしい! やつらは薄気味悪い〈二つ顔の白いテスケノ〉を描いた空飛ぶ船に乗り、火を吹き稲妻を飛ばす杖で我らを傷つけた。ウィツルアクリの羽根が欲しいという大それた目的のために。ウィツルアクリは一本でも羽根を取られれば死んでしまう。そうなれば、誰が神の国との行き来をするのだ? お前たち、グェレカは大たわけだ」

 空飛ぶ船――蒸気機関と魔法装置の二つで空を飛ぶ船があることはきいたことがある。ただ、大型化が難しく、軍事利用も偵察に限られる。もっともそれ以上に事故が大きすぎ、運用が難しい。火を吹く杖は手撃ち砲ハンドガンのことだ。何者かがこの少女の住む里を襲撃しているらしい。それも、自分たちと同じ目的――〈虹の王〉の羽根を求めて。

 分からないのは〈二つ顔の白いテスケノ〉だ。テスケノとはウルバたちの言葉で、翼のある人を意味するから、〈二つ顔の白いテスケノ〉は二つの顔をもつ白い翼ある人ということだ。

「まるで神聖ハルフォール帝国の双天使ジェミニス・アンゼルみたいですね」

 幼いころに見たシュヴァリアガルドのハルフォール大使館を飾るステンドグラスを思い出す。

 二つの顔を持つ白い天使。右の顔は目を開けていて、左の顔は目を閉じている。右の手に剣を、左の手に世界樹の杖を、その冠に知恵の炎を――って、あれ? 逆だったっけ?

「〈天使のギルド〉が来ているんですか?」

 シンザが言った。

 その口調と表情は、コルネリスがふらりと入ったラーデ=クートの酒場で与太者の顔に火酒を口にふくんでブッと吹きかけて、乱闘を引き起こし、その後、手斧をもった三十人の男たちに追いかけられたことを地元の官憲から教えられたときのものに似ていた。

 投げナイフの手入れをしながら心を静めていたときにいきなり現れたコルネリスが「おれは天啓を得た」とか言いだして、絶対に捕まらない詐欺の手口を披露しだしたときのものにも似ていた。

 そして、それを三歳の女の子相手に実施したらさっそくしょっぴかれ、保釈金を積んでくれと、やはり地元官憲を通じて教えられたときのものにも似ていた。

 そんなわけで、きっとろくなものではないのだろうと思いつつ、エスレイはたずねた。

「あの、シンザさん。〈天使のギルド〉というのは何なのですか?」

「教えるのもいいですが、その前に、そこの壁に背をつけて立ってもらえますか?」

「壁?」

「入口の右わきの壁です」

「ええと、――こうですか?」

「はい。あと、ウルバどの。あなたもできれば、同じようにしてもらいたいんですが――」

「グェレカの指図は受けぬ」

「さもあらん、ですね」

 シンザは苦笑しつつ、入口の左わきの壁にぴたりと背をつけた。

「あの、シンザさん?」

「待ってください。いいですか。おれが合図をしたら、入口へ足を伸ばしてください。ちょうど、ここに入ろうとする連中に足を引っかけるみたいに」

 まもなく、バタバタと騒がしい足音がきこえてきた。声を聴く限り、女が一人に男が二人、女は二人の男から姐さんと呼ばれていて、その姐さんが二人の男の尻にたいまつでも突っ込んでいるのか、やけに急いだ様子でやってくる。

「姐さん、いやした! あのガキです!」

「ようし、とっととふんじばっちまいな!」

「へい!」

 そんなやりとりがはっきり聞こえる位置まで近づいたのは間違いない。

 だが、シンザはまだ合図を送らない。たいていの人間は足音を過大評価しがちだが、シンザは幼年のころから裸足、長靴、柔らかいサンダルなどの足音から距離を割り出す訓練を受けていた。もうすぐそばまできていると思っても、それは洞窟の反響がもたらした錯覚に過ぎないこともよく知っていた。

「今です!」

 そう言われて、エスレイはさっと足を入り口へ伸ばした。すると。アンクレットで裾を止めたらしい足が見事にひっかかり、男が二人と女が一人、次々と前のめりになってうつ伏せに倒れた。

 転んだ三人が炎の神イフリートをさんざん罵り、こんな扉に段差をつけようとした馬鹿野郎はどこのどいつだとぶつくさこぼしながら、立とうとした。

 だが、できなかった。

 エスレイとシンザとウルバの突きつける刃の切っ先が三人の目の前にピタリとあてられていたからだ。

「これが〈天使のギルド〉です。といっても、ここまでマヌケな下っ端を見るのは初めてですが」

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