第二章 冒険家エスレイ
1.
「ジョシュア・ローレ。出ろ」
ジョシュアは
狭い覗き窓をつけただけの扉が開いていて、肩幅のある衛兵が二人立っている。
水の浮いた石壁に背中を預けたまま、ジョシュアは動かない。この五日間、出された粥に手をつけず、体は衰弱するにまかせた。
どうせ処刑される。
断頭台に首を伸ばすだけの力だけ残っていればいい。
衛兵は舌打ちすると、ジョシュアの腕をつかみ、荒々しく立ち上がらせた。だが、膝に力が入らないので、手を離されたら、その場に崩れるように倒れてしまう。
「手間のかかるガキだ」
衛兵がもう一度ジョシュアを立たせると、そのまま引きずるようにして、牢屋を出た。
光が目に染みる。塩の塔は内部まで白い。
それに初夏を控えた陽気がガラス窓を通して伝わってくる。
しばらく廊下を引きずられ、階段を下り、中庭に面した中二階のような部屋に放り込まれた。
古い書物の匂いがする部屋だった。そこには髪に白いものが目立ち始めた文官が一人、書き物用の石のテーブルについて、革装丁の本のページを繰っていた。
文官が視線を上げて、ジョシュアを見るなり、いたんだ野菜を見たように顔をしかめた。
「ここに来るまでに衣服を改めさせようとは思わなかったのか?」
衛兵たちは困った様子でこたえた。
「おれたちはただ連れてこいと言われただけですから」
「じゃあ、お前たちはその垢まみれのボロを着た小僧を皇帝陛下に謁見させることが理にかなってると思うわけか? 少し考えれば分かるだろうが」
「考えるのは偉いさんの仕事で、おれたちはただ――」
「ただ言われたことだけやればいい時代は終わった。これからはもっと合理的に物事を進めるんだ。ゴウリテキって意味は分かるか?」
純粋に質問しているようにも思えたが、馬鹿にしているようにも思えた。
それからたっぷり三十分間、ジョシュアは二人の衛兵に水をかけられ、ザラザラした布で乱暴に拭かれ、きれいなシャツとレギンスを投げつけられ、着ろ、と命じられた。
そのあいだ、ジョシュアはされるがままになっていた。頭のなかには皇帝陛下と謁見、という文官の言葉が何度も繰り返し響いていた。
アンゼルムに会うことができる。言葉をかけてもらえる。
抱えた疑問を全て解消して死ねる人間の運の良さについては分かっているつもりだ。自分が手にかけた連中はどうして自分が死ぬのか理解できないまま、なぜ?と苦痛混じりに問いかけるような顔をして死んでいった。
文官の執務室へ戻ると、衛兵はジョシュアを置いて、さっさと退散した。
「靴は?」
「ありませんでした」
「あいつらは靴も都合できないほどのろまなのか」
「必要な仕事はきちんとやっていると思います」
「看守の肩をもつ囚人を見るのは初めてじゃない。ところで、きみにはわたしがいけすかない役人に見えていると思うが、どうかね?」
「そう見えてます」
「その通り。わたしはいけすかない役人だ。監獄に務めるものはみなそうなる。囚人は刑期を終えれば、ここから出ていける。死刑囚だって刑を執行されれば、ここではないどこかへ行く。少なくともそう信じている。かくいうわたしはどうだ? わたしはここ以外に行き場がない。自分でここを選んだのだから。養う家族がいて、それなりの格式を整えなければいけない下級貴族には職業を選ぶ自由はない」
「どうして、そんな話をおれにするんです?」
「それは簡単だ。そこのドアの向こうに陛下がいる。そこに行けば、生死は分からないが、とにかくきみは別の場所に行ける。ただ裸足というのが気に入らないが、これ以上を陛下を待たせるわけにはいかない。さあ、行きなさい」
そこは小さなテラスだった。白い手すりに手をかけて、中庭を見下ろすアンゼルムは父親の喪に服して、黒い外套に黒の手袋をつけ、騎士剣を佩びている。
振り向いて、ジョシュアを見るアンゼルムの目は冷たい。
「いろいろとたずねたいことがあるようだな」
「はい。なぜ、エスレイさまを処刑しようとしたのです?」
「賛同が得られないなら、最初からないものと考えたほうがよい」
「では、質問を少し変えます。なぜ、ベルンハルトさまをご自分で殺害したわけではないことをエスレイさまに隠したのです?」
「……」
「あのとき、おれは庭にいました。あなたはベルンハルトさまに剣を向けた。でも、下ろした。殺すことができなかった。だから、ベルンハルトさまは自らあなたの剣に飛び込んだ。贖罪のために」
「……そのことを他に知っているものは?」
「おれだけです。話も全てききました。騎士の腐敗は皇妃さまがご存命のころから始まっていました。そして、皇妃である前に勇敢な騎士であられた皇妃さまは自ら、それに取り組もうとされた。数人の有力貴族が追放されるだけで済むはずだった。でも、宰相と大公によって皇妃さまは毒殺された。ベルンハルトさまは知っておられた。それでも、それを声を大にして糾弾ができなかった。それは内戦をまねくから」
「母の仇を討つためにわたしが今度のことをたくらんだと思っているのか?」
「ええ」
アンゼルムは苦笑した。
「わたしはそこまでロマンチックではないよ。ただ、ヴィルブレフを強い国家にしたい。世界を統べるほどに強く。父ではそれができない。そう思っただけだ」
「そうですか。では、このことをエスレイさまに隠したのはなぜですか?」
「……」
「本当にただヴィルブレフを強国にと求めるなら、軍事に天賦の才を持つエスレイさまを部下にすることは現実的です。そして、それを実現するにはベルンハルトさまと皇妃さまの死の真相を教えるだけでいい。でも、しなかった。アンゼルムさま。あなたはエスレイさまの気持ちを試すようなことをしたくなかった。いや、違う。父を事実上死に追いやり、たとえ母の仇とはいえ、流血の巷をつくったあなたをエスレイさまが赦すのが怖かったんだ」
「……」
「エスレイさまを疵一つつけずにおくことがあなたに残された最後の希望なんですか?」
アンゼルムは立ち上がると、白い花を植えた一角にある
「薬剤入りの砂糖水だ。腹を満たすわけではないが、断食からくる意識の朦朧はある程度払える。五日間食を断ったにしては、きみはかなり明晰な推察をしてみせた。だから、これからする提案は意識がはっきりしている状態できいてもらいたい」
「――はい」
砂糖水を飲み干すと、舌に甘ったるさが絡んだ。ジョシュアが空になったゴブレットを手すりに置くと、アンゼルムは淡々とした調子で〈提案〉を行った。
「我々は腐敗と堕落から帝国を救うべく、行動を起こした。改革は順調に進んでいる。虐殺はあったが、比較的短期間で終息させることができた。だが、まだ一枚岩と言えるほどの万全な状態ではない。偽りの服従で目くらましを行おうとしている宰相派の生き残りがいる。彼らは自治権を与えられた都市や治外法権を与えられた荘園など、帝国政府の目の届かない場所を策源地にして、いずれ反撃を開始する。外交でも問題は山積している。ルーハイム王国はわたしを簒奪者と呼び、一切の外交関係を断っている。南大陸諸国は様子見だ。残念ながら
ああ。やはりそうだったか。
ジョシュアは高い空に飛ぶ鷲の孤独を見た。
本当に欲しいのは恐怖のために従うものではなく、純粋な好意から慕い、役に立ちたいと思ってくれるもの――エスレイなのだ。
自分がエスレイのかわりになれるとは思えない。
それでも、おれはこの方に仕えよう。
癒されることのない孤独を抱えてまでも、この国を率いようとした人に。
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