17.

 武装商船〈海奔うみはしる山椒魚〉号は半日かけてスロイス湾を出て、南エディル海へと出た。

 波のうねりで帆綱が軋む。海鳥はとっくに船を離れ、地平を覆っていた北大陸も空と海のあいだに消え、今は船乗りの目に焼きついた記憶に残るのみ。

 太陽は西へ傾き、船の引く泡の尾を朱に染め始め、雑用係の少年たちは甲板に出て、夕まずめの魚を狙って釣り糸を垂らしている。

 エスレイはゆっくり東へ舵を切った船から北を臨んでいた。船べりに手を置き、もう見えなくなったヴィルブレフの地を記憶から呼び起こしていた。

 その隣にクレセンシアはいない。

 西へ西へと沈んでいく太陽が春の風を薔薇色に染めた。東の彼方からは明礬みょうばんを噛みつかせた染め物壺のような藍が空へと滲み、夜の到来を告げている。

 二つの相反する色が混じり合う不思議な時間。

 少女の記憶は北の港へと舞い戻る。

 エスレイは約束を破るつもりでいた。もし、船が出発するまでにクレセンシアが来なかったら、自分も船を降りる。

 出港まで十分を切ると、エスレイは紐で手すりをつくっただけの船のタラップを駆け下りて、桟橋を陸へと走った。

 そのとき、立ちはだかったのはジョシュアだった。

 少女は剣を抜いた。

 大切な人を助けるために。

 それを見て、ジョシュアは苦笑した。

「強いな、きみは」

「どいてください。二度はいいません」

「クレセンシアを助けに戻るのか?」

「むろんです」

「なら、どくことはできない。きみは船に乗る。ここから脱出するんだ」

「何を言っているんですか? こんなときに……」

「ふざけているわけじゃない。おれにも分からないんだ。きみを捕らえるよう命令を受けた。生死は問わず。でも、おれにはできそうもない。腐った貴族やアンゼルムさまに仇をなすやつらなら、いくらでも殺せるし、実際殺してきた。でも、きみは違う。きみは本物の騎士だ。おれにはきみが死ななきゃいけない理由が分からない。きみはアンゼルムさまを心から慕っている。きみを失えば、アンゼルムさまは一人だ。おれにはアンゼルムさまの本当の気持ちが分からない。それに今、やっていることが正しいのかも自信がないんだ。笑っちまうだろ? おれはひょっとすると、逮捕されるかもしれない。それもいい。処刑されるかもしれない。上等だ。でも、最後に一度でいい。アンゼルムさまに会いたい。そして、たずねたい。本当におれたちがしたことは正しかったのか?」

「……」

「だから、きみは戻っちゃいけないんだ。もし、おれたちが――おれたちが間違っていたとき、それを正すために」

「……」

「次に会うときはおれも変わっているかもしれない。きみを殺すよう命令を受け、そして、それを遂行できるだけの強さを手に入れているかもしれない。できることなら、もう二度と会わないほうがいいんだろうな」

「でも、わたしは忘れません」

「おれたちがした仕打ちを」

「足の裏の水の冷たさですよ」

「……そうか」

「わかりました。あなたの言う通りにします。クレセンシアとも約束しました。騎士が約束を違えたらおしまいです。それにクレセンシアだったら、大丈夫です。牛三頭までなら片手で倒せるし」

「相手をせずに済んでよかった」

「そうかもしれませんね」

「じゃあな、お姫さま」

「さようならです、ジョシュア。兄さまを頼みます」

 過去を記憶にしまい、夜空を見上げる。

 しばらくはこの星々を見ることもないだろう。

 南の風が空にかける星は北のものとは異なる。占星術を信じるなら、運命ががらりと変転するタイミングだ。

 何がこれから起こるのかは分からない。

 盾の姫騎士は盾を持たず、姫でもない。

 だが、騎士だ。

 剣を抜き、星を映す刀身を立てて、柄を顔の前へ寄せる。

 「わたし、エスレイ・ヴィルブレフは誓う。弱きを助け、強きに屈さない誇り高き騎士であり続けることを。困難にあって道を見失わず、虐げられた人々の運命の灯となることを。わたしは――わたしは絶対に負けない!」

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