16.

 鑑定人は注意深く、その盾を手に取った。明り取りの窓からテーブルの上に豊富な光が入るようになっている。こうして鑑定すれば、持ち込まれる品のどんな小さな瑕疵も見逃さないものだが、鑑定人はほんの少し見ただけで、この品から疵を探すのは無駄どころか冒涜的ですらあることを知った。

 これはロスクエット家に伝わる盾だ。普通の盾は鉄板の上に固めた革を張り、そこから彩色したり、浮彫にしたりして、装飾をつける。だが、この盾は藍に染まった鋼の下地に直接、包み蔦の銀の紋章を刻み込んでいる。もう失われてしまった秘術が装飾を守り、いかなる疵も受けつけない。

 これと同じ細工は三十年前に一度見たきりだ。あのときはもっと小さな銀細工のブローチでこれよりも仕上げも甘かった。

 鑑定人はもったいぶってテーブルに両手をついたまま、ちらりと見上げた。

 美しい女だ。色の地味なマントをつけて、美しい金髪を隠すようにフードをかぶっている。凛とした眼を見ると、しつけの厳しかった母を思い出す。鑑定人はもう六十過ぎで、彼の母は四十六歳で死んだ。大昔の記憶を呼び起こすこの女性は騎士だとあたりをつけた。もし、この盾を持ち込んだのが、粗野な男なら盗品を疑った。

 おそらく卑しい鑑定人が声をかけることも許されない高位の騎士だ。それにロスクエット家は代々、親衛隊騎士を輩出する家柄だ。そして、盾に刻まれた意味を読み取れば、間違いなく皇女の存在が垣間見える。傷つくことのない銀の蔓に盾を覆わせるのは、それが盾の皇族騎士を守る家柄であることを物語っている。

 盾の皇族。そうなれば、すぐに盾の姫騎士であるエスレイ皇女の名が出てくる。

 自分の前にいるのはエスレイ皇女の親衛隊で、その親衛隊がおそらく命より大切な盾を手放そうとしている。つまり、国外に脱出するための金をつくるためだ。

「二十コロナでどうでしょう?」

「それでいい」

 女騎士は二十枚のコロナ金貨が入った袋を手に店を出た。

 鑑定人は手をこすり合わせてほくそ笑んだ。本来なら五百コロナで取引されてもいいものだ。

 

 店を出ると、クレセンシアは左へ曲がり、ハルレ通りを下った。半開きの扉から怒鳴り合う声がきこえ、小さな屋台がタラのフライを売っている。人の頭の数だけ帽子やかぶりものがあり、それにつける舶来の羽根が売り買いされていた。

 坂を下った先は波頭がきらめく海に通じている。

 スロイスの政情は落ち着いていた。商業で食べている港にとって政治抗争が長引くのは致命的だからだ。人々は安定した通商を求めている。

 しかし、虐殺が収まったとは言っても、交易商人協会が面した広場では絞首刑にされた五人の元騎士がいまだにぶら下がっていた。

 あまり長居の出来る場所ではないことは確かだ。

 港湾事務所で出港予定の船についてたずねると、一番早い船は機工都市連合のガーディッチへ行く船が明日の日の出前に出港するという。渡航費は一人コロナ金貨二枚。都市が複数集まってできた同盟国家というのは生まれてから騎士として育てられたクレセンシアからすると何か得体の知れない怪しげな場所に思える。

 また、機工都市連合はその名の通り、機械の発達した国だという。湯気を使って途方もなく巨大な石も動かせる。これもよく分からない。

「蒸気機関と言うらしいです」

 その夜、海沿いの旅籠の食堂で魚のチャウダーを食べながら、二人は機工都市について話した。

「蒸気機関?」

「樹の化石を燃やして、それで生じた湯気を圧縮するのよ」

「樹の化石? 南大陸には変なことを考えるものがいるんですね」

 エスレイは、ふふ、と笑った。

「シュヴァリアガルドにも蒸気機関はあるわ」

「本当ですか?」

「サン・リフの取水塔を覚えてる?」

「あ」

 それは三年前、シュヴァリアガルドの庶民街サン・リフの水利を改良するために建てられた塔だった。サン・リフは高台にあり、水に恵まれず、住民は麓の泉や井戸まで水を汲みに長い道を降りなければならなかった。だが、サン・リフの取水塔を建てると、サン・リフの住民は水に困ることはなくなった。

「あれがそうでしたか」

「機会があれば、学んでみたいと思ってました」

「ベルンハルト陛下はあの塔一つで騎士団一つの力を出すと言っておられましたね」

「それだけ多くの人があの塔で助かったという話です」

「何だか、わたしも機工都市連合へ行くのが楽しみになってきました――ただ、その前にやらなければいけないことが」

 食堂には二人の他に誰もおらず、厨房からも人の気配がしない。

 エスレイは部屋から持ってきていた剣と盾を身につけた。

 そこで気がついた。クレセンシアの盾は?

 クレセンシアはこたえるかわりに金貨の入った袋をエスレイに押しつけた。

「敵は表から攻めると見せかけて、裏口をかためているでしょう。だから、裏をかきます。裏口でわたしが暴れてできるだけ多くの敵を引きつけますから、姫は表から突破してください」

「クレセンシア。あなた、盾を――」

「ご明察です」

「なぜ、そんなことを!」

「あの盾は大切な人を守るために使う盾なのです。あの盾は命より大切で、姫はわたしにとり、その盾よりもはるかに大切なのです。だから、そんなふうに暗い顔をしないでください。確かにいい盾でしたが、この世に盾はあれ一つというわけでは――姫?」

 エスレイは肘に結んだベルトを解くと、自分の盾をクレセンシアに渡そうとした。

「姫! それはなりません!」

「わたしも盾は命より大事です。そして、その盾よりも大切なものがあります」

「しかし――」

「それにクレセンシアのほうが多くの敵にぶつかるんですから、このほうが現実的です」

 木材が裂ける音が裏口から響いてきた。

「どうも議論の余地はないようですね。では、姫。船で会いましょう。そのかわり、これだけは約束してください。もしわたしが間に合わなくても構わず出発すると」

「――わかりました」

 その返事をきくと、クレセンシアは小さくうなずいて、裏口へ走った。


 表口は騎士一人と街で雇い入れたごろつき二人で見張っていた。

 旅籠のまわりには灌木の林があり、道は港のほうへつながっている。裏口がそのまま路地に入るので、攻撃を仕掛けたら、皇女は裏から出ると踏んでいた。

 裏口から激しい剣戟を交える音がしてきたが、皇女を討ち取ったという知らせは届いてこない。士官学校生が一人やってきて、皇女は裏にいるが、いかんせん手強いと報告してきた。

「本当に皇女か?」

「盾で確認した。間違いない」

「よし、お前はおれと一緒に来い。加勢にまわる。お前は表口を見張れ」

 こうして表口にはごろつきが一人残された。

「くそっ。話が違うじゃねえか」

 皇女の首に金貨百枚の賞金がかけられている。こんなふうに誰も来やしない表口を見張るなんて、とんだ貧乏くじだ。

 しかし、皇女と言っても、たかだか十四のガキを相手にやつらは何を苦戦しているのだろう。十人以上が裏口にいるはずだ。

 だが、ふと思い出す。王女はあのクレセンシア・ロスクエットに師事して剣を学んだという話だ。

 クレセンシアのことなら有名だ。別名、悪党の悪夢。牛三頭まで片手で倒せるという噂だし、それに十三歳で盗賊団を一つ潰したときいたことがある。

 ひょっとすると、自分の引いた貧乏くじは思ったよりもひどいものかもしれない。皇女と一緒に裏へ逃げてくれればいいが、もし、クレセンシア・ロスクエットがこっちに現れたら……。

 そんなことを考えていたから、表のドアが跳ね開けられたとき、ごろつきは慌てて、剣をふるったが、たちまち弾かれた。

 クレセンシア・ロスクエットは追い打ちをせず、そのまま、港へ走った。

 ごろつきは表口を放棄して、街道を港と逆のほうに走った。

 だが、数ボアスと逃げないうちに、待て!と鋭く呼び止められた。

 女の声ではない。

 士官学校生だ。確か、名前はジョシュアと言った……。

「どこに行く?」

「見りゃ分かるだろ。逃げんだよ。捕まえるのは皇女だけでクレセンシア・ロスクエットじゃない」

「クレセンシア?」

「ほら、あっちに」

 見ると、小さな人影が船着き場のあるほうへと走っている。

「あんな化け物相手に金貨五枚じゃ割に合わねえ」

「わかった。おれが追うから、お前は裏口の加勢にまわれ」

 ずっと年下の子どもみたいな士官学校生に命令されるのは面白くないが、この国では士官学校生は新たな支配者階級になりつつあるので逆らうのもまずい。

 それでも憎まれ口の一つでも叩こうとしたが、ジョシュアはすでに暗い道を風のように走り去った後だった。

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