15.
シュヴァリアガルドから南へ十ラグナ。
青い穂の現れ始めた麦がヒューナー峡谷を満たしている。世俗の血なまぐささを清めるような青い風が麦の海を波打たせ、小さな村落から立ち上るパン焼きの煙をたなびかせる。
山裾の道をゆくエスレイ皇女親衛隊の女性騎士二十名は南へ馬を進めながら、意見を二つに分けて戦っていた。それというのも、一ラグナ離れた隣の街道を下るエスレイとクレセンシアに今すぐ合流すべきか、もう少し待ってピンチになってから登場すべきかでなかなか意見がまとまらなかったのだ。それぞれの意見に十人ずつが分かれたので、議論が討論力学的に完全に釣り合ってしまった。だから、挙手による多数決は何度やっても、十対十の完全な停止状態に陥った。
「今すぐ合流すべきですよぅ」
「今出ていっても、なぜやってきたと言われるのがオチだ。敵に襲われているとか、もっとありがたがられるシチュエーションがやってくるまで待つべきだ」
「でも、それでやられちゃったら、元も子もないでしょ?」
「隊長は大丈夫だよ。あの人、牛三頭までなら片手で倒せるし」
「確かにそうだ」
「でしょ?」
「え、と、でも、隊長は絶対わたしたちについてきてもらいたがってると思います」
「ついてくるなって言われたけど?」
「隊長、不器用だもん」
「隊長が器用だったら、アンゼルムさまを射止めてるよ」
「それはないだろう?」
「鈍いなあ。アンゼルムさま、絶対、隊長に気があったよ。家柄的にも文句はないはずだけど、隊長はあの通りだし、おまけにこの騒ぎ。あーあ、もったいない」
「自分と次元が違う美男美女がくっつくのを見ると、ああ、神々しいなあって思ったりしますよね」
「でも、アンゼルムさまはエスレイさまを死刑にしようとしたわけだし。隊長、絶対許さないよ」
「当然だろう。わたしだって許さない」
「もったいない。もったいない」
「……あれ?」
「どうした?」
「……二人を見失っちゃった」
「えーっ!」
「ちょっと! どうやったら見失えるの!」
「ただの一本道だろうが!」
「知らないわよ! 見たら、いないんだもん!」
エスレイ皇女親衛隊が慌てふためいているとき、エスレイとクレセンシアは村落で馬を売り、峡谷を流れるルミズ川の船に乗っていた。船主は収穫した小麦を運ぶ農繁期を除く時期、小さい船室を客に貸して、港町スロイスまで川を下っていく。法外な値段を取られるが、港へ行くのに一番早い方法だ。
スロイスから他国へ逃れるのだが、粛清の余波が港の運行事情にどんなふうに影響しているかは未知数だ。まさかルーハイム王国に逃れるわけにはいかない。つい一か月前王子を捕虜にしたばかりだ。エディル海を縦断して、南大陸へ行くことになるだろう。
「南大陸のうちどこへ行けるのかは全く分かりません。ただ、港湾都市には自治権が与えられていますから、全ての船が運航を停止させられていることはないでしょう」
「南大陸、ですか」
世界には二つの大陸がある。南大陸は北大陸より大きいが、それでも二倍の面積には届かない。
そして、南大陸は小国が群雄割拠している。北大陸はヴィルブレフとルーハイムだけだが、南大陸には十六の国家がある。王国があれば、帝国があり、共和国があり、商業国家や都市同士の同盟からなる国家、機械や錬金術が盛んな国家、それに独特の武人伝統を持つ神秘的な山岳国家などとても特徴的だ。
なかには内戦中の国もあるが、大半は平穏無事に繁栄を謳歌している。もちろん騎馬民族独特の暴力に満ち溢れた日常や武人国家の命を削る決闘が蔓延している国もあるが、とにかく国家規模での大事は起こっていない。
「そうなると、問題はわたしですね」
エスレイはヴィルブレフ騎士帝国の皇女であり、前帝殺害の罪で死刑判決を受けている。そんなエスレイがどこかの国に入国すれば、それは亡命と呼ばれる。極めて政治的な行為だ。やろうと思えば、反アンゼルム勢力がエスレイを旗印に結集することだってできる。
もちろん、アンゼルムはエスレイを受け入れた国に引き渡し要求をするだろう。そして、それに応じなければ、ヴィルブレフ騎士帝国が攻め込む大義名分になってしまう。となれば、たいがいの国は引き渡しに応じる。
そもそも、各国ともにそんな火種は持ち込みたくないとエスレイの入国を拒絶する国も出る。そうなると、港で立ち往生することになり、いずれは追っ手につかまる。
「まあ、それよりも渡航費を捻出するほうが先です。馬を売って得た
「これからはお金の心配をしないといけませんね」
「姫にそんなことはさせません。全て、このクレセンシアにお任せを」
とはいうが、クレセンシアより自分のほうが世知に通じている、とエスレイはこっそり思っている。
もちろん、ジョシュアほどではないのだが。
「あ……」
「どうしました?」
「ううん。なんでもない」
ジョシュアは今、どうしているのだろう。きっと兄さまの考えに同調しているはずだ。士官学校の学生たちはアンゼルムの秘密の私兵として粛清の先鋒を担っていた。
あのジョシュアもあの流血のなかで剣をふるっていたのだろうか。
今、自分を捕えるべく、追いかけてきているのだろうか?
もし、ジョシュアが自分の前に立ちはだかったとき、剣を抜けるか自信がない。
甘いかもしれない。
だが、足の裏が心地よい水の冷たさを忘れられないでいる。
もう、五頭の伝令馬をつぶして、ジョシュアたちは南へ突っ走っている。
アンゼルムの命令でエスレイが逃げると思われる帝国南部の四つの港、ヴィドルク、マールバー、ギム、そしてスロイスへ追撃隊が派遣された。
ジョシュアはスロイスへ派遣される隊にいて、二名の騎士、四名の学生とともに街道の土くれを蹴散らしながら、青い麦の峡谷を走っている。追撃隊は必要に応じて、加勢を雇うための金貨を受け取っていた。
金で雇われる殺し屋風情にエスレイを討ち取らせてもかまわないということだ。少なくとも、ジョシュアにはそう感じられた。
粛清開始以来、ジョシュアは八人を手にかけていた。
それに対する後悔はない。死んで当然のやつらだ。
でも、エスレイは?
いきなり死罪を申し渡さず、どこかに軟禁して、説得するのでは駄目なのか?
ひょっとすると、こちらの理想に共鳴してくれるかもしれないじゃないか。
エスレイと鉢合わせして、剣を抜く自信がない。
もう国外に逃げていてくれれば。スロイス以外の港にいてくれれば。
歯を食いしばる。
「強さが欲しい」
むなしい希望にすがったりしない強さが。
革命を最後までやりとおせる強さが。
そして、エスレイを見ても動じることなく、ためらいもなく命を奪える強さが。
そこで思考が凍りつく。自分の考えていたことに驚き、本当に自分が強くなりたいと思っているのか分からなくなる。
アンゼルムさまの言葉をききたい。
もし、アンゼルムさまが直にエスレイを殺せと命じるなら、少しだけ強くなれるかもしれない。
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