13.

 シュヴァリアガルドの血浴けつよく

 星暦一四八七年の五月、騎士祭前夜のシュヴァリアガルドにおいて発生した虐殺はそう名づけられた。

 だが、虐殺は帝都のみならず全土に波及していた。

 犠牲者の総数はまだ不明だが、各国大使が本国へ送った報告の平均を採用するなら、シュヴァリアガルドだけで一万五千、ヴィルブレフ全体では十三万の人間が殺されたことになる。

 虐殺を担ったのはアンゼルムを信じ、どこまでも従う覚悟でいる士官学校生や若手の騎士、平民出身の軍人たちで、殺されたのは堕落した貴族や騎士、それと結託した豪商などの有力市民だったため、アンゼルムの行動に賛同する騎士や平民たちが多くいた。一部の街では普段から目の敵にされていた横暴な領主や汚職官吏が民衆によって私刑の対象となることもあった。

 国民に受け入れられたようにも見えるこの粛清だったが、惨劇の犠牲者に皇帝ベルンハルト自身が含まれていたことに難色を示すものもいた。親殺しの反乱で即位したアンゼルムの皇位継承を心から認めることのできないものは、気骨ある本物の騎士たちのなかにもいたのだ。

 とはいえ、反アンゼルム派のデュスケン大公やレンジリス侯爵が亡きいま(結局、宰相はエスレイの邸から引きずり出され殺された)、アンゼルムの野心を妨げるものは存在しなかった。

 テロルは目的のために合理化された。

 帝国の病巣を取り除くのに必要な唯一の治療法。そう強く信じられた。

 だが、そんなアンゼルム支持派の中核をなす若者たちですら、アンゼルムが妹のエスレイを父帝ベルンハルト殺害の容疑で起訴したときは耳を疑った。

 虐殺から二週間後、裁判は紋章裁判所の大審議室を使い、主席騎士判事による正規の手続きを取った。

 だが、エスレイには弁護人はつかず、またエスレイは公判で一言も言葉を発しなかった。弁解も弾劾も、問われて己の名を返すこともなかった。

 被告席のなかのエスレイは小さな抜け殻だった。皇帝弑逆しいぎゃくの罪状を読み上げる検事にもただ生気のない目を向けるだけで、死刑を宣告され、法廷から連れ出されるときも抵抗せず、されるがままに運ばれていった。


 塩の塔。

 それはシュヴァリアガルドの外れにあった。外郭の庶民街からさらに外れた崖の高台にあるその建物を周辺の農民たちは忌むべきものとして見ている。

 その建物が牢獄だからだ。

 由来の通り、塩のように白い石でつくられた建物は四十ボアス四方の箱型の建物の四隅に塔を伸ばしている。元々は黒い建物だったが囚人の涙に染められて白くなったと言われていた。

 エスレイが収監されたのは第三塔の最上階だった。鉄格子をはめた小さな窓と最近になって煉瓦で埋めたらしい暖炉の跡があるだけのがらんとした部屋に青ざめた星の光が差し込んでいる。

 その隅でシャツとレギンスだけでエスレイは膝をかかえて座っていた。

 ほんの一月前、クステノへの遠征軍としてシュヴァリアガルドを発ったのが何十年も前の出来事のように思われる。そして、帰還のとき、髪を撫でてくれた兄も、城下町で水の上で踊ったことも、いつも心配顔でエスレイのことを気にかけてくれた父も、何もかもが束の間の夢だったかのように。

 判決は斬首刑。明日、シュヴァリアガルドへ戻され、盾の門の前で執行される。

 それでこの苦悶から解放される。死は望ましき断絶であり、生きることは酸で焼かれるように辛い苦しみの連続でしかない。そして、その苦しみにすら、無感覚になりつつある。

 ただ、気がかりがあるとすれば、兄はこれから一人なのだということだ。

 かわいそうな兄さま。

 自分が父帝弑逆の罪をかぶることで少しでも兄さまの心が休まるなら、それでもいい。

 自分が断頭台の露と消えることで少しでも兄さまの心が休まるなら――。

 ガン!

 突然、扉が揺れた。

 部屋の扉は一つきり、堅い樫材に鉄の縁取りでかためた頑丈なものだ。

 ガンッ!

 また音が鳴る。さっきよりも強く。衝撃でまわりの石材から砂塵がパラパラと落ちていく。

 ド、ガシャッ!

 衝撃に扉が音を上げた。蝶番が吹っ飛び、扉は大きな音を鳴らして、倒れた。

「姫っ!」

「――クレ、センシア?」

 クレセンシアはマントに外套の旅装姿に剣と盾を佩びていた。

「姫、お怪我は?」

「あ……」

「まず、ここを出ましょう。下に馬を用意しています」

 クレセンシアは自分のマントをエスレイの肩にかけると、か細い肩を抱き寄せて、そのまま螺旋階段を駆け下りる。途中で気を失った衛兵の体をまたぎ、綴れ織りがかかった廊下を走り、入口のある広間を何を恐れることもなく渡っていった。衛兵が八人、目をまわして倒れている。

 門の外の馬飼い場に駿馬が二頭、手綱を小屋の柱に絡ませていた。

「さあ、姫。はやく、ここを離れましょう!」

 エスレイは首をふりながら、後ずさった。

「姫?」

「駄目。行けない……」

「なぜです? このまま黙って処刑されるのを待つというのですか!」

 エスレイはこくりとうなずいた。

「姫……」

「わたしはお父さまを守ることも、兄さまを認めることもできなかった。今のわたしは何もできない」

「……」

「みんなは兄さまのしたことが正しいことなんだと思っている。それなのに、わたしは兄さまの味方ができなかった」

「……」

「だから、わたしはいなくなるのがいいんだと思う。だから、お願い。クレセンシア。あなたはここから逃げて。ここにいれば、きっと、わたしのせいでひどい目に――」

「甘ったれるなッ! エスレイ・ヴィルブレフ!」

 クレセンシアの一喝に空気がわななき、エスレイの肩がビクッと震える。

「悪を斬って、正義をなす。大義のためにその手を血で汚す。それは今なら正しく見えるだろう。民も同調するだろう。だが、正義ほど見失いやすいものはないし、大義はいつの日か歪んだ理想とすり替えられる。創造神ロツェが人間をつくられて以来、数多の清廉な英雄たちが正義に酔い、血に溺れ、己を見失った。はっきり言う。アンゼルムがその運命から免れることはない。正義のためにふるったはずの刃はいつか無辜の民にふりおろされることになる。そのとき、民を守るのが、盾の姫騎士たるあなたの使命だ。それをなさず、ここで黙って処刑されるならば、それは盾の騎士としての誓いを破るも同然だ!」

「それは……」

「逃げるなら死に逃げるのではなく、他国へ逃げるがいい。恥ではない。逃げた先にも虐げられたものはいる。そして、命ある限り、騎士は使命を果たすことができるのだ。逃げて、逃げて、逃げて、いつの日か、この地に戻ればいい。だが、断頭台に逃げることだけは許さない。それは堕落だ」

 守るための騎士。

 その言葉が空洞のようだったエスレイのなかに響く。

 騎士の堕落は何も富や血に溺れるだけではない。怯懦によって堕落することもあるのだ。

 クレセンシアは言葉を継がなかった。その必要はなくなった。

 今、無気力だったエスレイの瞳に騎士としての矜持が再び激しく燃え上がったのを見たからだ。

「ありがとうございます。先生」

「いえ。出過ぎたことを言いました」

 クレセンシアは馬小屋の陰に隠した大きな包みを持ち出して、エスレイの前で解いた。

 白銀の騎士剣と姫騎士の盾――栄えあるヴィルブレフ剣十字の紋章が昇ったばかりの陽に輝いた。

「行きましょう、姫」

「はいっ!」

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