11.

 その夜、エスレイは夢にうなされ、目を覚ました。

 冷たい汗が肌に浮き、寝衣に張りつくのが、夢の残響のようだ。

 どんな夢なのか覚えていなかったが、むしろあまりにもひどい夢なので、頭が心を守るために封じ込めたような、そんな気のする夢だった。

 天蓋付き寝台から抜け出して、自分で火打石を切って、手燭を灯す。またその夢を見てしまいそうな気がして、眠るのが気が引けた。

 鞘に入ったまま柱にひっかけた剣や台の上に置いた盾、様々な時代の名将が書き残した戦術書の背表紙がぼんやりとした灯のなかに浮かび上がる。この部屋で少女らしいものと言えば、父親が頼むから少女らしい趣味のものを一つ置いてくれと言われて、置いた天蓋付き寝台だけだ。

 胸にじとりとこずんでいる不安。

 その原因はジョシュアとの約束だった。

 何があっても邸から出ないでくれ。

 つまり、今夜何か起こるということだ。

 きっと士官学校生たちが夜にふざけて、皇族の住む場所で何か度胸試しのようないたずらをするのかもしれない。士官学校生がジョシュアのようにみな反骨精神にあふれるなら、それもあり得る話だ。

 だが、エスレイは自分でつくった仮説に無理があるのを覚る。

 これは事実に基づく推測ではなく、願望だ。むしろ、事実はそれを否定する。

 そんな大それたいたずらをすれば、士官学校を廃止しようとする勢力に付け入る隙を与えるようなものだ。ジョシュアはそんなことが分からないような愚か者ではない。

 あのとき、困ったように眉を下げて、笑ったジョシュアがなぜあんなに哀しげに見えたのだろう?

 それにどんなことがあっても、兄さまの味方でいて欲しいとはどういうことだろう。

 もしや今夜、兄さまの身に何か。

 クレセンシアに相談したいが、彼女は突然、騎士祭の祭壇の警備をアンゼルム王子から命じられて、親衛隊とともにエスレイの邸から離れている。

 邸にいるのは、婆やと二人の女中だけだ。

 何かがおかしい。不安が募る。

 もし、兄さまの身に何か起こるのなら、そばにいたい。

 エスレイはジョシュアとの約束の一つを破ることに決めた。邸を出るのだ。それはもう一つのより大切な約束――兄さまを守るためだ。

 騎士が軽装で纏う半外套とぴったりとしたレギンス、それに剣を吊るし、盾を背負って、部屋を出る。

 婆やも二人の女中もすでに眠っている。邸の灯りはエスレイの手にしたランタンだけだ。

 玄関の扉に手を触れたそのとき、

「ぎゃああああっ!」

 動物の悲鳴、いや、人の断末魔の悲鳴が耳をつんざいた。

 婆やたちが手燭を持って、不安そうに現れた。

「姫さま。今の悲鳴は?」

「わかりません。様子を見てきます」

 制止する婆やを振り切って、外に出ようとすると、扉がひとりでに開いて、黒い影が転がり込んだ。

 婆やが悲鳴を上げ、エスレイが咄嗟に剣を抜いて構えると、飛び込んできた男――宰相のレンジリス侯爵が震えながら両手を上げた。

「た、頼む、殺さないでくれ!」

 昼の威厳ある姿とは打って変わって、レンジリス侯爵は狩人に追いつめられた兎のように震えていて、その目は簡単にはうかがい知れない恐怖に見開かれている。高価な礼服は血まみれで、頭髪にこびりついた血のりは固まり始めていた。

「婆や、熱いお湯を。それとドアには鍵をかけて。誰も入れては駄目よ」

「ひ、姫さま」

「大丈夫よ、婆や。わたしにまかせて」

 血は他人の返り血らしく怪我はなかった。薬箱から気つけ用のブランデーがあったので、それをレンジリス侯爵に渡した。宰相はブランデーの小瓶を一息に飲み干したが、それでも触れた家具がカタカタ音を鳴らすほど、震えている。

「侯爵。一体何があったのです?」

「み、皆殺しだ。あいつら、それが狙いだった」

 ぎゃああ! 邸の外から悲鳴が聞こえ、帝国の行政の長である宰相はまるで罪人のように椅子のなかでビクッと跳ねる。

「ここは安全です。あいつらとは誰のことですか? 陛下や皇太子殿下は無事なのですか?」

「皇太子――あ、あ、アンゼルム王子ですよ! アンゼルム王子が虐殺の首謀者だ!」

「嘘よ!」

 宰相の言葉にエスレイは声を荒げる。

 宰相はすっかり怯えきって、萎縮した。

 何かの間違いだ。兄さまがそんなことをするはずはない。落ち着いて考えれば分かる。どうして兄さまを信じるかわりに宰相の言葉を信じるのか。

 ハッとする。今の自分は事実ではなく、願望を追っている。

 何があっても邸から出ないでくれ。

 何があってもアンゼルムの味方であってくれ。

 ジョシュアとの約束が残酷なくらいピタリと合わさり、パズルを解き明かしていく。

「……何があったのか、詳しく話してください。細分をもらさずに」

 アンゼルムは宰相派の皇族、諸侯や騎士を晩餐に呼んだ。

 そのこと自体は別に不思議でも何でもなかった。こうして有力貴族が一同に会する機会はそうないので、騎士祭の前後にこのような会食が行われるのはもう慣例となっていた。

 会食に使われたのは大きな食堂で高い天井の近くに回廊がめぐらせてある部屋で、建国記の物語をモザイク画ではめ込んだ、格式高い広間だった。

 細長いテーブルにはワインと山海の珍味、それに煌々と灯る燭台があり、後は主賓のアンゼルムが来るだけだった。

 だが、アンゼルムの代わりに姿を見せたのは、士官学校生たちだった。学生たちは二階の回廊から弓で食堂の要人たちを次々と射殺し、部屋になだれ込むと、まだ息のあるデュスケン大公らを刺し殺していった。

 虐殺はこれだけでは終わらなかった。城内の祭りのために上洛した貴族や騎士たちのうち、アンゼルムと敵対関係にあるものが次々と襲われ、その邸で虐殺されていた。

 呆然としながら宰相の話をきいていたエスレイのもとに婆やが外の様子を知らせた。

「姫さま、大変です! 町が!」

 邸の物見塔へ上ると、そこで見たのはシュヴァリアガルドのあちこちで上がった火だった。風が虐殺の血と肉が焦げる臭いを運んでくる。

 粛清だ。今ごろ、まちでは堕落した騎士や貴族、それに与する市民が虐殺の憂き目に遭っている。

 そして、その首謀者がアンゼルムなのだ。

 でも、宰相は虐殺の現場で一度も兄さまを見ていない。

 兄さまに会いに行こう。

 そして、兄さまからきいたことだけを信じればいい。

 エスレイが出かけようとすると、宰相は自分を見捨てるのかとおいおい泣き始めた。もし、ここにエスレイがいなければ、やつらは構わず邸に踏み込み、自分を殺すかもしれないのに。

「兄さまに会って、直接話をします。もし、兄さまがこの事件の首謀者なら、今行っている行動を一刻も早く中止するよう進言するつもりです」

 稚拙で卑劣で自分勝手な嘘だ。兄さまは何の関係もないに決まってると思ったばかりではないか。

「婆や。宰相閣下をお願い。わたしは兄さまに会いに行きます」

「姫さま。婆やとしては、今夜は絶対外に出て欲しくありません。そりゃあ、宰相を襲う連中が姫さまを襲うわけはないと思います。姫さまは正しい騎士ですから。でも、こういうとき何が起こるか分かりません。何か手違いがあって、姫さまが害されることがあったらと思うと。でも、婆やは姫さまを止めません。姫さまは姫さまのなさるべきことをなさるといいでしょう。姫さまが騎士の叙勲を受けたその日から、こういうことがあるのではと覚悟もしてました」

「ありがと、婆や。後をお願い」

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