10.
ジョシュアはエスレイの手を引いて、蜘蛛の巣のようにこんがらがった狭い街路を走っていた。
どうやらでたらめに走っているわけではないらしく、それについて、たずねようとすると、ジョシュアは皇女だからと遠慮しないぶっきらぼうな口調で、
「おれはここで育った。まあ、庭みたいなもんだ――ここまで逃げれば、もういいだろ」
そこは平屋が泉亭を囲う小さな広場だった。地元の職人相手に酒を出す小さな料理屋があり、安酒一杯で一曲弾いてくれる笛吹きの音に乗って、若い男女がくるくるまわって踊っている。
「助けてくれてありがとう。でも、どうして?」
「殿下に頼まれた。久しぶりの祭りで何かに巻き込まれるかもしれないって。まあ、最近はあんなやつらがいて、治安も微妙になってるし」
「あなたは士官学校の学生なの?」
「まあね。ジョシュア・ローレだ。よろしくな」
「わたしは――」
「しーっ! なに考えてんだ? こんなところであんたの正体がバレた日には大騒ぎだぞ。二度とお忍びで城下町を歩けないようになってもいいのか?」
「う」
「とにかく、大きなことになる前に城に戻るんだな」
「でも、もう少し、街を見ていきたいな。ここに来るのは初めてだし」
「あのなあ、殿下はけっこう心配してるんだぞ。これ以上、あの方の心配事を増やしてくれるなよ」
「あなたは兄さ――皇太子殿下を慕っているのね」
ジョシュアは、きょとんとした顔をした後、誇らしく胸を張り、
「当たり前だろ。士官学校の学生はみんなあの方を慕ってる。おれたち平民だって、ちゃんと学を修めりゃ、強くなれるってことを教えてくれた恩人なんだ」
騎士と民が手を取り合う新しい時代。それがちょっと生意気だが頼りになる少年の形で自分の目の前にある。
そんなとき、エスレイは兄がますます誇らしくなる。
「さあ、帰るぞ」
「でも、何かここに来た記念が欲しいな」
「はぁ? こんなシケたとこに記念品なんてあるわけないだろ」
こんなシケたとこで悪かったな、と小料理屋の親爺が言う。すると、ジョシュアは気安く、うるせー、と返す。このあたりの住人はみな知り合いのようだ。
親爺が大きな手でカウンターをふきながら、笛吹きの老人に声をかける。
「見ろよ、じいさん。長生きはしてみるもんだな。こないだまで豆粒みてえに小さかったジョシュアが色気づいて女なんか連れてきたぜ」
「ば、馬鹿。そんなんじゃねえって!」
「じゃあ、どんなんだよ?」
「事情知ったら、腰抜かすぜ」
「なんだ、そらぁ? 脅しのつもりか。おい、じいさん! 白ワインの辛いの一杯おごってやるから、こいつらのために一曲吹いてやれ」
老人は横笛ではやい調子の小唄を吹き始めた。
店の酔客たちも踊れ、踊れとはやし立てる。
ジョシュアが困った顔でエスレイを見たので、エスレイはこれ以上ないとびきりの微笑みで返した。舞踏会は苦手だし、優雅なダンスなど自分とは無縁だと思っているエスレイだが、こんなふうに体を動かして、心地よく疲れるようなダンスなら、興味はある。いい記念になるだろう。
「あーっ、もう! どうにでもなれってんだ!」
ジョシュアは苦労しながらブーツの紐をほどき始めた。エスレイが不思議そうな顔をしていると、はやく靴を脱げ、と言ってくる。
「裸足になるの?」
ブーツを脱ぎながら見回すと、まわりの若者たちはみな裸足になり、泉から漏れ出た水の上で踊っている。何十年と流れる泉の水が広場に敷きつめられた石の角を取り、どんな舞踏場も敵わないなめらかな床に磨きあがっているのだ。
「そうだ。記念になることしたいんだろ? ここじゃ裸足で踊るんだ。こうやってな!」
ジョシュアがエスレイの手を取ると、振り回すようにまわり出した。継ぎ目を感じさせない敷石の上を足が滑るたびに心地よい冷たさを感じる。
ステップを踏むたびに水が跳ね上がり、カンテラの灯を宿して、彗星のようにきらめく。
誰かがフィドルを弾き始めると、店の客たちは蓋つきのビールジョッキを打楽器のように打ち鳴らし、音楽はますます速くなる。まるで突撃する騎兵が徐々に早足になり、最後は全速力で走るように、ダンスもまた目がまわるような速さで水の上を滑る。
音楽が終わるころにはエスレイもジョシュアも、他の若者たちもくたくたになっていた。心地よい疲労と光りながら跳ね上がる水の玉は彼らに幻影を見せた。それは自分が一つの星になり、目に見えない青い風とぶつかって、白い光の尾を引きながら、空の果てへと飛んでいく夢想だ。そして、そうした夢を見た若者たちはこの大地に戻ってきたことを残念に思いながらも、空を飛ぶ秘法を解き明かした魔法使いのように充実した心で明日を迎えることができるのだ。
「ありがとう。わがままが過ぎました」
「別に。どうってことないさ」
城の内郭。エスレイの邸前。陽は落ちたが、城はあちこちに煌々と明かりが灯っている。ジョシュアはどうやらアンゼルムの執務室へ戻るようだ。
「遠征から帰ってきて、不良騎士と大立ち回りして、庶民みたいに激しく踊ったんだ。疲れただろ?」
「うーん。さあ、どうかしら。まだ、街におりてみたいし、おりられる」
「もう、やめたほうがいい」
「え?」
そう告げるジョシュアにエスレイは不思議なものを感じた。
もう二度と会えなくなるかもしれないという不吉な、理由のない予感。
邸の灯りのなかでジョシュアの表情が曇った。
「今日はもう邸から出ないほうがいい。ゆっくり休むんだ。皇太子殿下もそれを望まれる」
「兄さまが?」
ああ、と返事するジョシュアは何か気がかりがあるらしい。
「二つだけ約束してくれないか、って、皇女に約束なんて、おれじゃ出過ぎてるか」
「そんなことを気に病むタイプに見えないけど」
「そうか。そうだな。らしくないか。まあ、さ。約束って言っても、そんな難しいことじゃない。一つは今夜は絶対邸から出ないで欲しいんだ。それと――」
「それと?」
「殿下の味方になってあげてくれ。どんなことがあっても」
「それだけ?」
「ああ。これだけだ」
ジョシュアは返事もきかず、踵を返し、闇の濃い生垣の通路へと消えていった。
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