8.
アンゼルム王子の執務室は謁見の間とは反対方向にある。小さな剣術場を見下ろすところにある小さな部屋で、実際、アンゼルムがそこに落ち着くまでは武器庫として使われていた。
そこに必要な
執務室を訪れると、待ち焦がれた人がいた。飴を紡いだような薄茶の髪、エスレイと同じエメラルドグリーンの瞳を細めて、微笑む。アンゼルムと出会う人はたいてい冷厳さを感じるが、エスレイはそのなかにある兄の暖かさを知っている。
「おかえり、エスレイ」
この部屋はいつも裁断したばかりの紙の匂いとよく手入れした革の匂いがする。なぜか懐かしさを感じる匂いと大好きな兄が結びつくのはいいことだ。
エスレイはブーツの踵を鳴らして、敬礼した。
「エスレイ・ヴィルブレフ、ただいま帰還いたしました。元帥閣下」
アンゼルムは妹の口調の硬さに、ああ、と笑って立ち上がった。
執務室に士官学校生の制服を着た銀髪の少年が一人、革装丁の大判本を抱えて、アンゼルムの机の上に置こうとしている。
兄と妹とはいえ、軍の階級では元帥と一将軍なのだから、口調には気をつけなければいけない。
ただし――、
「すまない。ジョシュア。少し外して休んでいてくれ」
二人だけなら話は別だった。
「アンゼルム兄さま!」
少年が部屋を出て、扉を閉めるなり、エスレイは兄に飛びつき、ぎゅっと抱擁した。
勢いよくぶつかってきたので、危うく後ろに倒れそうになりながら、アンゼルムが笑う。
「相変わらず元気がいいな」
アンゼルムの指がエスレイの髪を優しく掻く。
「早馬が知らせてくれた。ルーハイム軍の作戦を見破り、キール王子を生け捕ったのは見事だったな。だが、何よりも嬉しいのは、妹が誰の目に見ても、非の打ちどころない立派な騎士であったことだ」
そう言われて、エスレイはこそばゆくなり、嬉しくて何も考えられなくなりそうになる。
アンゼルムも昨今の騎士のあり方に複雑な思いがある。だからこそ、士官学校をつくったのだ。士官学校の目的は騎士以外の平民階級から有能な軍人を育てることだが、もう一つ、騎士たちに刺激を与えることにある。平民出身の指揮官の活躍を見て、さもしい考えをするものもいるだろうが、かなりの数の騎士が負けてはなるものかと奮起し、己を厳しく律し、騎士としてのあり方を見直してくれることを期待しているのだ。
そんなアンゼルムの志にエスレイは子どもっぽい熱烈さでもって賛同する。
だが、今、話したいのは別のことだ。市民兵たちの勇気、気骨を取り戻した騎士たち、そして、戦で役に立った些細な事柄。
「だから、思うんです。アンゼルム兄さまの士官学校は素晴らしいんだって。だって、戦術以外にもいろいろなことを教えて、実戦で活かせるようにするなんて」
「お前にそう言ってもらえると嬉しいよ。あれについてはよく思わない騎士が多い。皇族のなかにもいるくらいだ。でも、わたしはいつか理解してもらえる日が来ると思っている。そして、そのときこそ、騎士も民も手を取り合った新しい時代がやってくる」
「新しい時代……」
エスレイは突然、自分の幼稚っぽさが恥ずかしくなり、肩のあたりから首筋がかあっと赤くなった。自分は目の前の戦いのことを考えているのに、アンゼルムの眼差しは十年先か二十年先の騎士帝国へ向いている。
「兄さま。わたしは――」
そのとき、ノックの音が響き、先ほどの少年――ジョシュアが現れた。
「申し訳ございません、殿下。宰相閣下と大公殿下が急にお見えになられて」
ジョシュアが言い終わるより先に、開きっぱなしのドアから四十半ばの灰色の髪をした身なりのよい男が入ってきた。絨毯を敷いていない石床に男のきらびやかな鞘のこじりがぶつかって高い音を立てる。
その後ろから濃緑のビロードのケープに絹の礼服をまとった老人が現れる。その胸を飾る宝石が火に飲み込まれた難破船のような不吉な光を帯びていた。
灰色の髪をした男は帝国宰相レンジリス侯爵、老人は皇帝の叔父――エスレイたちから見れば、大叔父にあたるデュスケン大公だった。
宰相は口調こそ丁寧だが、皮肉が隠れてもいない調子で挨拶をした。
「おや、これは殿下。兄妹の再会に水を差してしまいましたかな?」
そのとおりだ、とエスレイは宰相に向かって、心のなかでべーっと舌を出す。
この二人はアンゼルムが士官学校を開設したことに批難を浴びせ、大公に至ってはアンゼルムの
しかし、世継ぎの皇太子として、宰相と皇族の長老が来たのを無下にできない。
それを肌で感じたエスレイは兄にだけきこえるようにささやいた。
「わたしはいつ、どんなときでもアンゼルム兄さまの味方です」
言葉で答えるかわりに優しく微笑む。
執務室を後にするとき、大公が部屋の狭さと埃っぽさに文句をつけているのがきこえた。
「わたしがもっと強ければ、母さまみたいに強ければ、兄さまを助けることができるのに」
エスレイはつぶやいてから、湿った思考を追い出そうと、
兄さまは決してあの二人に負けたりしない。あんなに賢くて、勇気のある兄さまが負けたりするものか。
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