キミヘ。
月の満ち欠けが一廻りしたある日、
虎は目隠しした娘を背に乗せて何処かへ駆けていきました。
深い森を風のように走り抜け、険しい岩山を軽々と登っていきます。
岩山の頂上に着いた虎は娘を下ろし、目隠しを取るよう言いました。
娘は思わず大きな声で叫びました。
やっほーーー!!!
なんだそれは
わかんない、自然に出ちゃった
娘が可笑しな声を出すのも無理はありません。
どこまでも広がる深い翠が瑠璃色の水を落とす滝をぐるりと囲んでそれはそれは綺麗な眺めでした。
綺麗だろう、俺の毛皮の次くらいに
うん、少しだけあなたの毛皮の方が綺麗かな
少し待ってろ
そう言って虎は岩山を駆け下りていきました。
娘は崖から足をぶらん、と投げ出しこの綺麗な眺めの端に見える棚田を見つめていました。
間も無く虎が戻って来ました。
兎好きだろ、喰え
兎を二羽咥えた虎が小さい方を娘に渡しました。
うん、ありがとう!
馴れた手つきで捌き、幸せそうに齧り付く娘を見ていた虎は娘の方へそっともう一羽を寄せました。
くれるの?
腹減ってないからな
娘は嬉しそうに目を細めて小さく笑いました。
ありがとう!
照れ隠しに虎は少し唸り、やがてうとうとと昼寝をはじめました。
起きて起きて
娘に起こされたのは烏が鬼灯色に染まる時間
帰るか
うん
虎は空いたお腹を紛らわせるように来た時よりも速く駆けて帰りました。
月のまん丸いある日、そろそろ寝ようと虎が岩穴で寝転がりました。
おい、そろそろ寝るぞ
いくら呼んでも娘は来る気配がありません。
虎が外に出ると、娘は崖に立っていました。
おい、寝るぞ
うん、今行く
虎の気のせいでしょうか
月明かりに照らされた娘は青白かったような気がするのです。
次も、その次もまんまるい月の日に娘は崖に立っていました。
娘は日毎に青白さが増しているようでした。
雪の降りしきる冬の日、虎は娘に問いました。
なにかあったのか
なんにもないよ
娘は答えました。
虎は何かに気付きました。
その青白い笑顔の理由を、
そして決めました。
毎日兎を獲って来ようと。
それから虎は毎日兎を獲って来ました。
最近兎ばっかだね
よく獲れるからな
ふ〜ん
娘の意味あり気な視線に少し唸って、
虎は次の日も兎を獲って来ました。
雪が解けて桜が咲きました。
その晩、娘は虎を崖に呼び出して言いました。
わたし、しんでるの
虎は答えました。
知ってる
知ってたんだ
なんとなく、な
兎ありがとね、わたしが兎好きだから毎日獲って来てくれたんだよね
たまたまだって何度言ったらわかるんだ
素直じゃないなぁ
黙れ、食うぞ
もう死んでるから
…そうだったな
あした消えるんだ、私
そうなのか、寂しくなるな
そんなこと言ってくれるんだ
まぁな
それだけ伝えたかったの、寝よっか
そうだな
娘が寝た後、虎は狩りの時よりも音を立てぬようこっそりと岩穴を抜け出しました。
虎は川辺まで駆けていきました。
川辺には沢山の花が咲いています。
夜露に濡れて艶やかに月の光を反射する美しい花は虎と縁遠いものでした。
虎は花を摘みました。
丁寧に、丁寧に。
しかし肉を切り裂く鋭い牙では花を傷付けてしまい上手く摘めません。
森の動物達が虎を指差して笑います。
恐れられている一帯の支配者が花を摘もうと四苦八苦しているのですから、森の動物達は可笑しくて仕方がありません。
毛皮が濡れるほど嘲る声を浴びせられながら、ひたすら虎は花を摘みます。
根元で折れ、花びらが千切れ、夜明けまで摘みましたが綺麗に摘めたのはわずか三本の白い花でした。
大事に咥えて岩穴へ戻ります。
岩の隙間に花を隠して娘の隣に戻ります。
虎は少しだけ寝て娘を起こしました。
目隠しをさせて背に乗せ、何処かと駆けていきます。
深い森を風のように走り抜け、険しい岩山を軽々と登っていきます。
頂上に着いたら娘を下ろし、目隠しを取るように言いました。
あの日と同じだね
いや、違う
虎は三本の花を娘の前に置きました。
これは?
お前にだ、兎獲ってくる
虎は行ってしまいました。
娘は三本の花を優しく胸に押しあてて
ありがとう、と呟きました。
それからはいつも通り過ごしました。
虎も娘もお互いを想ってのことでしょう。
しめっぽいのは苦手だろうから。
夜はすぐにやってきました。
まんまるい月が我が物顔で空に登っていきます。
虎と娘は崖に居ました。
私さ、あなたと暮らせて良かった。
なんにもできないわたしを助けてくれた。
素敵なこといっぱい教えてくれた。
一生懸命お花摘んでくれたのも嬉しかった、いっぱいいっぱいありがとう。
…俺の一目惚れだった。
最初からそうだった。
いや、本当のお前の声が聴こえた時、
何かが欠落しててその不完全さがやけに美しかった。俺の毛皮よりずっとな。
あのさ、
待て、俺から言わせてくれ。
虎は牙の隙間からゆっくりと日常を吸い込みました。
あいしてる、ありがとう。
わたしもあいしてる。ありがとう。
まんまるお月様が輝きを増して
早くしろ、と急かしています。
じゃあ、行くね。
おう
バイバイ
またな
娘はまんまるい月に吸われて
月明かりに溶け込むように消えていきました。
ポトリ、と三本の花を落として。
虎の肩が震え出し居ても立っても居られなくなりました。
虎は吼えました、月に向かって。
突然、強い風が吹きました。
すると桜の吹雪に包まれて、落ちていた三本の花は消えていました。
虎はもう一度吼えました。
何に向かって?
それは虎にも分かりませんでした。
忘れてしまったのです。
なんの為に、誰の為に吼えていたのでしょうか。
なにも思い出せなかった虎はなにかの為に泣いていました。
か細い唸り声は岩穴に吸い込まれていきました。
それはまんまるの月が明るい日、
桜が全て散ってしまった日のことでした。
虎は一年に一度、たった一回だけ、
まんまるい月が明るい日、
桜が全て散ってしまう日に
月に向かって吼えていました。
大事な何かを忘れてしまったことを忘れないように。
それを見て麓の村の人々はこう言ったのです。
"梅雨殺しの虎が夏を呼んだ。
捧げねば、真っ当な生け贄を。"
梅雨殺し すだちうどん @sudachikun
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