佐倉司郎の裏事情


とある平日の良く晴れた夏の日。


「特に変わった様子などはないと言うことでよろしかったでしょうか」

「はい。そうリーダーから伺っています」

「かしこまりました」


日々やるべきことに勤しんでも、穏やかな日常が揺らぐことはある。

それらは大抵が唐突にやってくるもので、覚悟を決めることさえ許してくれない。

ゆえに普段から慣れているはずの、機械的な受け答えすら息苦しく感じてしまう。


「本日は那岐が……リーダーが所用でこちらに赴けず、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「いえ。お気になさらないでください。他チームでもよくあることです。それに一介の局員の私に、純血の方がわざわざ頭を下げることではありませんから」


端的に言葉を返して、ふと視界の端に目をやる。

やや薄暗く感じるこの空間にも、窓辺には光が射している。

窓辺に置かれた小さな鉢には、日差しに向かって鮮やかな花が咲いていた。


「気付きましたか。この花は――」

「チグリジア」

「――ええ。日当たりのよいところで育てると良いと聞きまして」


知っている。数年前に花好きの友人から貰い育てていた記憶がある。

その当時は友人がどんな意図で渡したのかも知らなかったが。


「…寒さに弱いのですからね。あと多湿を嫌うので土が乾いてから水やりをした方が良いかと。球根が腐ってしまう場合がありますから」

「詳しいんですね。恥ずかしながら、貰い物なのでよく知らなくて。佐倉さんは博識ですね」

「……それほどでも」


偶然にも自分の経験から得た産物だ。大して褒められることのほどでもない。


「そんなことありません。佐倉さんはご自身で何でも出来て尊敬します。一方で私は、一人で何かするのも憚られて。自分の不甲斐なさを嘆くばかりです」

「……大切にされているのでしょう。あなたはそういった立場の方ですから」


そう。あなたは……君はそちら側だ。

そこで初めて彼の顔を見る。

本当によく似ている。

よく似ているのにどうして…。


「自分で何とかしなければ、生きていくことさえ許されなかった。そんな私とは違うんですよ」


そう告げれば、彼は酷く傷ついたような表情でこちらを見ていた。

まるで鏡越しの自分を見ているようで、吐きそうだ。


「っ佐倉さん……あの」

「そろそろ次のチームとの約束が。申し訳ありませんが、本日は失礼致します」


彼が紡ぎかけた言葉を無視して立ち上がって、視線を合わすことなく頭を下げる。


「……はい。本日はありがとうございました」


だからそう小さく答えた彼が、どんな表情をしていたかなど知る由もない。





――――――――――――

――――――――

――――……



溢れ出す感情はいつもと変わらない。

それなの自分を突き刺すような何かには慣れない。

いや、そもそも慣れる気もないのか。

忘れたい。忘れられない。そんな風に繰り返して、現在に至る。

こんなにも明るい陽射しも今は眩暈がしそうで、汗で貼り付くシャツさえ煩わしい。

あてどなく歩き出して、局の近くにある公園のベンチに座る。

仕事はまだ終わっていない。

静寂に縋ろうとするも喧噪がそれを邪魔する。

落ち着かせようと目を瞑る。

喧噪の中でも虫の鳴き声、風の音は僅かながら拾うことができる。

それらに意識を集中すれば、煩わしい雑踏も徐々に遠くなっていく。




――――――――――――

――――――――

――――……




それはいつの頃だっただろうか。

恐らくこの時がいつまでもあるものと何も疑いを持たず、片割れと共に過ごした時だ。

今よりもずっと無力でどうしようもなくて。でも肌身離さず抱えていたものがある。

もう顔も声すらも覚えてないあの人がくれた唯一の贈り物。

それは黒と白のウサギのぬいぐるみ。

片割れは白で、自分が黒だったのを覚えている。

あの当時の自分には、とても大切な宝物だったに違いない。

だがそんな宝物でさえ、唐突に失うことはあるのだ。

ほんのひと時目を離していなくなっていたそれを、ようやく見つけた時には無残な姿だった。


「お母さまを大切にしないから、こうなるのよ」


不意に響く身の毛のよだつような声色。

片割れは酷く怯えていたような気がする。


「悲しいわ。あなた達にもこの血が流れているというのに」


身勝手な言動に恐怖を感じなかったわけではない。

だがそれを上回る何かが自分の中にあった。


「その目は何。お母様が悪いとでも言いたいの」


その問いに答えたわけではなかった気がする。

ただ視線は逸らさず母と名乗るそれを見ていたような。


「本当に生意気な子ね――は。でも仕方ないわよね。お前は悪い子。だからあの子に似たのよね」


視線を合わせるように自分の頬に両手を当て、それは笑みを浮かべた。


「だからお母様が奪って壊してあげる。この人形みたいに。あなたの大切な物全てを」

「――――ッ!」



――――――――――――

――――――――

――――……



呪言のような言葉に意識が覚醒する。

慌てて辺りを見回せば、すでに日が傾き始めていた。

どうやら居眠りをしていたらしい。なんとも情けない。

携帯を取り出し、画面を見れば部長から着信が入っていて、すぐに掛け直す。


「お疲れ様です。佐倉です」

「お、やっと出たな。連絡ないから心配したぞ」

「申し訳ありません。すぐ戻ります」

「ああ、今日は直帰でいいよ。報告書をまとめるだけだろ」

「そうですが……」

「今日は担当外のところにも行ってもらったからな。慣れないところで疲れてるだろう。明日は休みだし、たまには定時退社でもいいと思うぞ」

「……ありがとうございます」

「いや、こちらこそすまない。じゃあお疲れ」

「はい。お疲れ様です」


上司が電話を切ったのを確認すると、再び携帯の画面を見る。

すでに数分ほど業務終了時間は過ぎているが、この時間帯で上がるのは新人の時以来のような気がする。

恐らく部長は、察しているだろう。

直接言われたことはないが、どことなくそんな気がしている。

気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じたが、久方ぶりの定時退社も悪くないとも思う。

しかし普段ならまだ業務をしているせいか、空いたこの時間をどう費やすか。

どこかに寄るにしても特別行きたいところもなく、かといってそのまま家に帰るのも勿体ない気がする。

思案していると、不意に視界が真っ暗になる。


「こんなところで何してるんですか?」


耳元で囁く声と目元に温かな感触に、自分が目隠しされていることに気付く。

だが振りほどくことはしない。

聞こえた楽しげな声も、不安をそっと拭ってくれるような優しい匂いも、とてもよく馴染みのあるものだから。


「お仕事ですか?おサボりですか?」

「…直帰だな」

「あら。なら、このまま私と一緒に帰りませんか?」


目を塞いでいたものが離れ、視界が明るくなるとともに、目の前に現れた少女は嬉しそうに微笑んだ。


「……今日は他チームと会議じゃなかったか」

「それね。よく分んないからジョエルに押し付けといた」

「全く……」


チームの頂点であるにも関わらず、無責任な行動に呆れそうにもなるが、自分を優先してくれているようで嬉しさも込み上げる。


「で?一緒に帰ってくれるの?」

「嫌って言っても着いてくるんだろ」

「うん」 


迷うことなく即答して、こちらを真っ直ぐ見つめる少女。

初めて会った時より大人びた姿ではあるが、その眼差しは変わることなく愛おしい。


「髪に何かついてる」

「え?……あ」


彼女が気付く前にそれを取ると、白い粒のような小さな花弁だった。


「もしかしてニワトコかも。しろちゃんにバレないように、草むらのとこ歩いてきたから。あっちの方、結構咲いてたよ」


指差す方を見れば、遠くに小さいまとまった白い花がところどころに見える。

桜や藤などの、多くの人を魅了する花達はきっと美しいに違いないが、何気ないところに凛として咲くニワトコだって、とても美しい。


「……初めて会った時。君が頭についていたのも、それだったな」

「そうだっけ?」


不思議そうに少女は呟くが、とてもよく覚えている。

時の流れと共に多くのものが移ろいでいく中でも、彼女だけは変わっていない気がする。

ふとそんな事を考えながら、司郎はゆっくりと立ち上がる。


「さて、今日は食べに行きますか」

「うん!お好み焼きがいい!あ、鍋物もいいかも?」

「鍋といえば、ウチの近くに新しく出来た店があったような」

「じゃあそこにしよう!」


嬉しそうに跳ねるあどけないその姿に、酷く乱れていたはずの心はいつの間にか落ち着きを取り戻していた。

俺は生きていくなかで、多くのものを失ってきた気がする。

大切だった宝物も。自分自身でさえも。

けれども、そんな人生の中にも手にしたものが確かにあって。

彼女と共にある日々は、いつかの宝物と等しく、もしかしたらそれ以上に大切なもので。

今の自分だからこそ、手にする事の出来た宝物だ。

例え彼女にこれから先何があろうとも、それが揺らぐ事は決してない。


「――良かった」

「え?」


聞こえたのか、振り返る彼女。

すると顔を覗き込むようにこちらも見上げる。


「どうかした?もしかして今日疲れてたり…」

「いや…まぁ、少し。今日は色々あって」

「……」

「だから君に会えてよかった」

「……そっか」


随分としどろもどろな言い草になっていたはずだが、深く事情を聞くこともなく、珍しく大人びた優しい笑みをただ浮かべる彼女に、思わず見惚れてしまいそうになる。


「…やっぱり好きだな」

「いきなりどうしたの」

「なんとなく。言いたかっただけ」

「変なの。私もしろちゃんが大好きだよ」


誰にも気付かれたくない。

でも誰かに気付いてほしい。

そんな感情が渦巻いている時、いつも見つけてくれるのは君だ。

不意に溢れ出す苦しみを癒してくれるのも。

惜しみなく愛してくれるのも。


満たされていく感覚のなか、心の隅で不安が少しだけ陰を落とす。

かつての自分のように、今目の前にいるかけがえのない唯一の愛しい人でさえ、いつか奪われてしまうのだろうか。


――――そんなことはさせない。

いつかのような、非力な子供ではない。

あらゆる手を尽くして、守り抜けばいい。

一欠片の幸せでいい。

多くのものは望まない。

どんな形でも、彼女と共に歩み過ごしていく幸せを、失くしたくないだけ。

それだけが全てだ。


「お腹空いたね。早く行こ?」


そう言って、先に歩き出す少女。

その背中はとても小さいはずなのに、頼もしく見える。

遠い日に分け合った秘密を標とし、いつまでもこの日々が続いていくことを願いながら、どこへ続いていくかも知らずに、歩みを進めた。



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