堕ちる
倫華
彼女はもう居ない
ネオンカラーの街灯が散らばる、真夜中の都市。雑踏の中に彼女は消えようとしている。
俺は、彼女を追いかける。
「茜! 待って!」
しかし、横断歩道を渡ろうとしたその瞬間、彼女は車に撥ねられた。
もし、あの時、茜を速く追いかけていたら。
もし、あの時、もっと速く走れば。
もし、あの時、あんな話をしなければ。
尽きないイフが後悔を募らせる。一か月を経とうとする今でも頭を抱えている。茜が不在となった3LDKのマンションは、俺には広すぎる。あれから、彼女のものは何も触っていない。いや、触れない。フラッシュバックするから。
仕事から帰って、自宅のドアを閉じる。
「ただいま」
一か月前なら聞こえていた茜の声。今は、最近飼い始めた愛猫の鳴き声しか響かない。一か月も経つのに、まだ頭を抱えている自分に呆れて、ため息を吐く。
家事は自分でこなすようになり、ぎこちなかったナイフの扱いも、今はキャベツの千切りなど楽々とできるようになった。今日の晩御飯は、キャベツの千切りと肉じゃが、秋刀魚の塩焼き、白ご飯。茜が作った肉じゃがほど美味しくはない。
シャワーを浴びて、ベッドに潜る。
スマホの電源を付けると、時刻は二十三時。あの時とほぼ同じ時間。駄目だ駄目だ。思い出すな。茜はもういない。死んだんだ。
脳内の思考を止めて、払拭するかのように首を振る。そして、目を閉じた。
「何で、何でよ」
「ごめん、茜」
「ごめんで済んだら警察なんて要らないのよ!」
「だから、ごめん」
「自信がなくなったからって、そこまでしなくていいじゃない」
「俺じゃ幸せにしてあげられない」
「私は貴方と居られるだけで幸せなのに……」
「……ごめん」
真夜中の歩道に男女が二人。女の目には水が流れる。
「何で申し訳なさそうに謝るのよ」彼女はかすれた声で言う。男は黙り込む。
溜息を吐いて、
「もういい」
と言って男に背を向ける。そして、ヒールの乾いた音が鳴る。
すると、パトカーのサイレンが聞こえてくる。街の向こうから、止まりなさい、という警察官のマイクを通した声も同時に。声は徐々に大きくなる。
何もできず、その場に立ち尽くしていた男は、そのノイズで我に返る。走り出した。走る、走る。信号機が見える。赤から青に変わり、人々が歩き出す。その中に、見慣れた姿を見つける。
「茜! 待って!」
ガバッと勢いよく起き上がる。
息が荒れて、冷や汗をかいている。
今日も、寝られない。
後日、医師に相談すると、不眠症だと診断された。実は、彼女が死んだ次の日から、目を閉じると、あの日の一部始終がフラッシュバックする。恐怖のあまり、寝付けない。それが一か月続いた。分かり切っていたが、医師の口からはっきりと言われると、精神的に参るものだ。
雲が覆い灰色と化した昼下がり、俺は自宅のドアを開けた。
「ただいま」
リビングに足を運ぶと、愛猫が茜のバッグを倒していた。チャックが閉まっていなかったのか、中身が散らばっている。
疲れた体に鞭を打って、愛猫を退ける。そして、中身をもとに戻し始める。通帳が入ったポーチ、会社のカード。コンパクトミラーと化粧ポーチ。他にないか周りを見渡す。にゃおん、と愛猫が俺を呼ぶように鳴く。振り返ってみると、彼女の分厚い手帳があった。少し戸惑ったが、手に取ってペラペラと捲ってみた。
『九月二十二日 今日は悠貴君と食事した。彼は物腰が柔らかくて、優しそうだなと思った。食べ方もお箸の使い方も綺麗だし、美味しそうに食べていた。また、誘おうかな』
『十二月二十四日 クリスマスイブ。悠貴と付き合い始めて、三か月が来た。少し早いクリスマスプレゼントに手袋をくれた。お洒落であったかい。すごく嬉しかった。私があげたネックレス、ちゃんと喜んでくれた。同居することも決まったし、家でゆっくり過ごせて、今までの人生の中で一番最高のクリスマスイブだった。結婚、できたらいいな』
俺の目から涙が溢れた。目を指で拭い、なかなか読めない。目の下を腕で覆い、直筆最後のページを開ける。
『二月二十日 最近、悠貴の元気がない気がする。「どうしたの?」と聞いても「なんでもない」って答えるから何とも言えない。どうしたのだろう。私、言いすぎたのかな。明日は、キムチ鍋が美味しい店に誘って、元気出してもらおう。私の奢りで』
その頃の俺は、茜と結婚したい思いと幸せにできるか不安な気持ちで葛藤していた。彼女は、俺より気が強いけど魅力的な女性で、気弱な俺とは釣り合わないと思っていた。同棲をし始めてから、喧嘩が絶えず、葛藤は更に続いた。
そして、次の日。そう、彼女の命日。キムチ鍋を食べた後、別れを切り出した。その直後、彼女は帰らぬ人となった。
手帳を最後まで捲り、茶色のカバーが見える。それには、何かの紙が畳み折られて挟まっていた。
それを取り出し、開けてみる。
結婚届。彼女は結婚を決意していたのだ。なよなよしている俺を待ちきれなかったのか、印鑑まで押してあった。
どこまで雄々しいんだよ、と掠れた声で呟いた。
すると、窓から太陽の光が差し込んだ。背中を押してくれた気がした。
その日の夜、俺は大量のごみ袋を持って、ごみ収集所に行った。幸いにも、丁度明日は燃えるごみの日だ。その中身は、茜の衣類や物ばかり。なんと、四袋もあった。因みに、思い出の品も全て捨てた。
全て放り、手の向きを変えながら叩く。一息吐いて、ごみ袋だらけに紛れたそれらを眺める。ごみと化したそれらに悲しさと寂しさが込み上げるが、捨てると決めた以上、後戻りは出来ない。その場にいると、手を伸ばしそうになる。そう思った俺は、直ぐにその場を後にした。
しばらくして、俺は愛猫と一緒にそのマンションを解約して、新しい街と部屋で暮らすようになった。
今日も俺は、愛猫と一緒に深い眠りに堕ちる。
堕ちる 倫華 @Tomo_1025
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