客観、常識、普遍。あるいはそれに類似した概念

卯月兎京

「言論と行動は矛盾するものである」

 考えてみよう。世界の定義とは何か。

 地球全体? はたまた宇宙?


 普通なら『地球、あるいは人間の及んだ範囲の地域。国として定義されている場所と南極』が正解だろう。

 だが、私はは『自分の観測し得る範囲』こそが世界だと考えている。


 シュレーディンガーの猫、と言うものは知っているだろうか?

 まず、猫を箱の中に閉じ込める。そして、五十パーセントの確率で崩壊する放射性原子と、放射性原子が崩壊すると作動する青酸ガス発生機を箱の中に入れる。さて、中に入っていた猫は生きているか、死んでいるか。

 実際には箱を開けてみないことには猫が生きているのか死んでいるのかはわからない。観測し得ない範囲、つまり実験者が見えないうちは猫が『死んでいる上で生きている』と不思議な結果になるという思想実験だ。もともとこれを考えたシュレーディンガーはある理論の反論として例え話を作ったつもりだったようだが。

 余談だが、オカルトな話の一つに「世界五分前仮説」というものがある。バートランド・ラッセルの提唱した『世界の全員が仮の記憶を植え付けられた状態で五分前に世界が作られた、ということを証明するものはないが、完全に否定できるものもない』という仮説だ。これもある種、観測するまでは二つの理論が重なり合っている"シュレーディンガーの猫"の状態と言える。


 メディアの発展した社会では、画面を通じて他国の様子を知ることができる。だからこそ、世界は地球上の全域と解釈されていたのだ。だが、実際にそこへ行き、実際に見ないことには画面を通じて得た情報が本当であるかはわからないのである。突きつめれば、その瞬間に見たものが過去の記憶になった瞬間に「五分前に作られた仮の記憶である可能性」が生じる。

 江戸時代では蝦夷地を除く日本列島が民衆にとって全世界であっただろうし、弥生時代や縄文時代、それ以前では、自分の国や村、群れがある場所が全世界だったはずだ。

 だからこそ、わたしは『自分の観測し得る範囲』を世界と定義する。簡潔に言えば『ものは考えよう』ということなのだが。

 前置きが長くなった。そろそろ本題と行こう。つまり何が言いたいのかというと。


 わたしの今いる無人島。これがわたしの全世界で、わたしの文明で、わたしがこの世界の唯一の人間。同時に、人類のトップで、世界の王様なのだ。


「……何考えてんだ私」


 手作りベッドから起き上がり、自然と出来上がった獣道を奥へ進む。

 もともと日記などは書かないタイプだ。だから、この島に遭難してから何日たったかなど数えたこともない。多分三ヶ月か四ヶ月、あるいはそれ以上半年以下程度だろう。

 昔、サバイバルのハウツー本的なものを呼んだことがある。が、実際このような場面に直面すると、全く意味が無いことがわかった。ハウツー本に書かれているのは『サバイバルするための環境が揃った状態』でサバイバルする方法だった。運良く動物の死骸を見つけて鞣して服に、なんてできるわけ無いだろう。死骸を見つける前に菌類か虫か鳥に掻っ攫われるにきまっている。というか、海洋島だと思われるこの島に獣がいるとは思えない。所詮、サバイバルに興味がある人に対する、最も安全で身近で帰ろうと思えば帰れるサバイバル術だったのだ。ただのブッシュクラフト入門書である。なんとも馬鹿らしい。最初から生きるか死ぬかの原始サバイバルなんてさせる気なんてないじゃないか。もし使えることがあったとしても殆どが、例えばガチンコ漁のような、いわゆる力技だ。一介の女子大生ができるようなものじゃない。中二病をこじらせて必死に覚えた意味がまったくないというものだ。物悲しい。


 遭難して最初の方は島から脱出することを第一に考えていた。だが、脱出するなど考えもしない。この島から出ようなんて不可能だ。

 まだ拠点を決めていなかった頃はよく島中を歩き回っていた。この島の中央ほどにある休火山の山頂は木に登ると素晴らしくきれいな景色が拝めた。しかし、その山頂から海を見渡しても島は見えなかったのだ。百七十センチの人間の見る水平線の距離は四キロ、二十メートルのホテルから見ると十六キロと聞く。この山頂の標高はざっと三百から四百はありそうだから……かなり遠くまで見えているはずだ。それでも島は見えない。つまり、ここは完全なる絶海の孤島というわけだ。そんな距離でも生きたまま漂流できるあたり、恐らくこの島に向かう潮流がかなり早いスピードで流れているはずだ。沖には行ったことがないため確証はないが……筏で出向しても、そのまま餓死するオチが待っているだろう。ならば、この島で原始生活をするに限る。幸い、この島は海洋島のようで、陸上には人間より大きいケモノがいない。襲われて死ぬ危険がないのは嬉しいが、備蓄するほどの肉も取れない故必然的にその日暮らしの自給自足となる。凶暴だった鶏や豚の原種を家畜化した人間の偉大さよ。

 死の危険ならば、病気の方が気になる。その昔、欧州人がアメリカ大陸や太平洋諸島へ移民しまくったときのことだ。移民は原住民が滅多にかからないような病気にかかり、死人を絶えず出し続けた。逆も然りではあるが、その理由は『免疫力』にある。先祖代々、その病原菌に対する免疫を受け継いできた先住民はその病原体に異常なほど強いのだ。それに対して、移民は現地の病原菌になんら耐性がない。先祖代々、その病原菌にかかったことがないのだ。地獄の行進こと黒死病も西征したモンゴル人が持ち込んだ風土病だそうだ。わたしもいわば、移民の存在である。その島の鳥や虫には全く関係のなかった『細菌』が、人間に触れた瞬間様々な反応を起こして『病原菌』という名前に変わるかもしれない。もし、わたしが医療の学があったとしても、全く未知の病気を無人島にあるものだけで直すことは不可能だろう。


「あ、罠かかってる」


 などと独り屁理屈をぶっても聞く人間もいなくなって久しいのだが。歴史と危機的状況にイフは良くない傾向かもしれない。物思いから覚めると急に体が重くなった。


「今夜の晩ごはんだな」


 殺した鳥を抱え拠点へ帰った。なれたルーティンである。軽く処理すると、食料が確保できた以上日没までやることがないことに気づいた。

 浜辺へ出て意味も成さぬエスオーエスをなぞる。無心で行う最強の暇つぶしだ。なぞっているうちにやることが思い浮かんだりする便利な暇つぶしである。そのうち悟りの一つでも開きそうだ。

 そのうち、脳内の湖にぷかりと浮いたのは「独り言が増えた」という事実。

 この島に来てから段々と独り言が増えている。理由を述べるにしてもなんとなくふわふわしているが、例えば、社会的動物である人間がコミニュケーションを取らなくなった場合、それは人間であるのかどうかという問題である。

 独りぼっちは話す相手がいない。コミニュケーションはとれないし、所属する社会集団の一つもない。だとすれば、私は社会的動物としての側面を持つ人類として定義されないはずだ。”人間”として、生きながらに死に絶えていることになる。主観サイドから言わせてもらえば、私はどの側面から見ようと生きている状態でありたいわけで、コミニュケーションを持たぬことで死んだ扱いされたらたまったものではないわけで。だからこそ、コミニュケーションと集団を作り出そうと独り言を発しているのだと思った。

 ただ、どれだけ哲学に耽っても、発表する学会も無ければ客観サイドも、私の生死を認定してくれる者も、存在しない。しないので、どれだけ考え込んでも「なのだと思った」としか締めくくれない。気が狂って葉脈に文字でも見出さない限り引用文献も客観的事実も述べられないのである。

 小さくため息をついた。エスオーエスを書く棒を投げ捨て簡易的な家の中へ入る。その後は、いつものように自己嫌悪。物思いに耽っては結局ネガティブな結論に至り自己嫌悪するのは遭難以前から変わらない癖だ。この嫌悪でむしろ自我を保っているようなもので、やはり今後もこの癖はやめられないだろう。おそらく、人間として死ぬまでは。


 考えてみよう。『世界の終わり』とはなにか。

 私は、私自身が死んだときだと思う。私が死ねば、この私の観測している世界は消える。あるいはその後に島が発見されるかもしれないが、その出来事も私が観測していなければなかったことと同じになる。

 所詮、人間がモノを語れば全て主観的な世界だ。主観が飽和すると、客観と勘違いするだけ。共通した主観を持つと、その仲間内でその主観が普遍のように扱われる。では、多数派のエゴの塊にゴマを摺らなければ? 異端となる。コモンセンスなんて、そんなものだ。

 つまり、客観のない今の私の世界は比較のしようもなく最も合理的だ。この独りぼっちの世界は、私のエゴがコモンセンスで、カエサルやヒトラーも怯えるほどの独裁を強いる世界の王様。スターリンもトロツキーも実現し得ない真の平等の体現。


「向こうの世界の王様は、誰なんだろう」


 夕食を食べたら急に眠気が襲ってきた。今日はもう休むとしよう。明日もどうせ、同じ一日だ。

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