第二十八話 人喰らい
夜中、日付けが変わる前。
橋を渡ろうとしていた一台の自動車の後輪の片方が、突然外れた。
自動車はバランスを崩し、蛇行した末に欄干を破壊して橋の下に落ちた。ボンネットから地面に激突し、運転席を下にして横倒しになって止まった。
それから少しして、運転手の女性が目を覚ました。
「う……うう、い、痛い……」
そう呟きながら、『何でいきなりこんな事に』、『他に車はいなかったから事故に巻き込んではいないはずだ』、『子供を乗せていない時で良かった』、と、瞬間的に思った。
「た、助け……呼ばなきゃ……」
そう言って、直前まで助手席に置いてあった、スマートフォンが入った鞄を探した。
鞄はすぐに見つかったが、スマートフォンがなくなっていた。体を動かせる範囲で──片方の脚の骨が折れていた事が、車と触れた感じで解ってしまった──探すと、幸いにも自分の頭の上に落ちていた。
女性はすぐにスマートフォンを掴むと、電源を入れようとした。
…………。
点かない。点かない。どうして。何回電源ボタンを押しても点かない。
焦り始めた直後、親指にざらりとした感触。
恐る恐る画面に親指を伸ばすと、画面が割れている事が解った。
いよいよパニックになってきて、悲鳴を上げようとしたその時、誰かの気配を感じた。
たぶん──たぶん人間。
「た……たす、けて……助けて……!」
こんなに暗いのに灯りも点けないのは変だなと思いながらも、必死に声を絞り出した。
誰かはこちらに気付いたのか、車に近付いてきた。
突然、車がひっくり返された。
堪らず悲鳴を上げたが、すぐ近くにいる誰
かは、何も反応しなかった。
次に、運転席のドアが、剥がされるように開けられた。
もしかして、『誰か』が車をひっくり返して、ドアを無理矢理開けた?
そんな事は有り得ないけど、そうとしか思えなかった。
──目が慣れてきた。
そう思っていると、車の外に引き摺り出された。何回か脚の折れた部分がぶつかり、その度に悲鳴を上げたが、お構い無しだった。
暗闇に慣れた目が、引き摺り出した誰かを視認する。
人影──間違いなく人間だ。
漸く安心して、お礼を言おうとしたその時、
唐突に、気付いてしまった。
目の前の人影は、人間じゃない。おおよそ、人間が放っていい気配じゃない。
そう思った瞬間、人影の顔が形を歪め、額に二本の角が伸びた。
お……鬼……?
そう思うのと、人影が腕を振り上げるのは、完璧に同時だった。
何を……
ぎゃあっ!? い、痛い! 痛いっ!? 首!? 首がぁっ!?
止め……
助け……
死にたくない……
鬼婆は女性に
女の腹を切り裂き、内臓を取り出した側から貪り始める。
それは、食べたいから食べているようには見えなかった。生きるために食べているようにも、見えなかった。
そうこうしている内に、自動車が落ちた音に釣られた野次馬達が集まり始めた。
鬼婆は少しの間それらを無視して女性の内臓を貪ると、
この人喰い老婆が、鬼婆──安達ヶ原の鬼婆に堕ちるまでは、このような経緯が伝えられている。
平安の昔、都の公家屋敷に仕えていた、岩手という名の乳母がいた。
岩手は美しい姫を育てていたが、その姫は生まれつき病をに侵されていた。
岩手を含めた姫の周囲の人間は姫の病を直すべく医者に見せたが、その医者に匙を投げられる状態だった。
そんなある日、易者(注:占い師)に、こう告げられた。
「生れたばかりの赤子の生き肝を食べさせれば治る」
乳母は赤子の生き肝を手に入れるべく、
それから長い年月が経ち、岩手が老婆になったある日、岩屋に一組の若い夫婦が訪れた。夫婦曰く、道に迷ったのだそうだ。
女の方の腹は膨れていて、身重だと推測するには十分だった。
岩手はこれ幸いとばかりに夫婦を泊める事にした。
それから少しして、女が腹痛を起こした。産気付いたようだった。
岩手は男に峠にある薬屋に薬を買いに行かせ、その間に、女を殺した。
岩手は女の腹を裂いて赤子を取り出し、赤子の生き肝を取り出した。
そしてふと女を見た時、岩手は驚愕した。
自分が旅立つ前、姫に持たせたお守りと全く同じ物を、女が首からかけていたのだ。
岩手は、助けると誓った姫を、助けたいがために、その手で殺してしまった。
その事を理解してしまった岩手は、完全に正気を失ってしまった。
峠から帰ってきた男をも殺した岩手は、空腹だった事を思い出した。
──食べたのだ、赤子の生き肝を。それだけでは足りず、男や、かつての姫のそれすらも。
こうして、安達ヶ原の鬼婆と呼ばれる怪物が生まれ堕ちた。
それから何年か経ったある日、紀州の僧侶・
疲弊しきっていた彼は岩屋を見つけると、そこに住む老婆──鬼婆に、泊めてもらえるように頼んだ。
鬼婆は祐慶を招き入れると、途中薪を木小屋から取って来るからと外に出る事にした。
その時、鬼婆は「隣の戸の中を見るな」、と釘を刺した。
どうしても気になった祐慶は、戸の中を覗いた。
そこには、肉や臓物が飛び散っていて、
それを見た祐慶は、老婆が噂に聞く鬼婆だと思い、急いで逃げ出した。
鬼婆は祐慶の逃亡に気付くと、それを追い掛けた。
逃走は夜通しで続き、 遂には朝日が昇った。
鬼婆がこれに怯んだ隙を突いて、祐慶は逃げ切る事に成功した。
「──その後、彼女は祐慶に恨みを抱き、人を食い殺しながら
黒い着流しの男は、他人事のように言った。
「ふーん……因果応報、自業自得、ってやつなのかな。安易に呪いの類いを利用しようとしたんだから」
鬼婆が女性の肉を骨ごと喰らう様を見て、黒い小袖の女が言う。
「恨み辛みは散々背負って来ているだろうなら、ねえ。だから、あれを依代にすれば、今度こそ、
男は、期待が籠った声で言った。
「……でも、大丈夫なの?」
女が心配そうに言った
「何が?」
「だって、最初は鬼に気付かれていなかったのに、気配を察知されて、ついこの間には姿を見られたでしょう? これじゃいつも通り殺されて終わりじゃない……」
「……ああ、そういう事」
男は呟き、
「今のところは、大丈夫だよ」
何の気もなしに言った。
「何で? 対策とか何も考えてないじゃない」
「まあ、このまま打ち合ったら、間違いなく負けるさ。でも……」
「でも、何?」
男は、女の疑問に答える。
「あれには、『自分に関する噂を吸収して無限に強くなる』という能力を与えただろう。鬼共の耳に入ったら、調べて、どんな存在なのか予測を立てる。間違いなく」
「その時点で噂になってる、と?」
男は頷く。
「そう。だから勝てる。今度こそ、絶対に神様を呼ぶんだ」
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