第十八話 霧拾い
福島県田村市、その某所の山中。
その日の朝方、山には深い霧が掛かっていた。
黒い着流しの男が、霧に包まれた山の中を、確かな足取りで歩いていた。
「ふう、くたびれるなぁ……山登りって、こういう服でするものじゃないよねぇ」
男はそう言ったが、少しも息が上がっていなかった。
それから男は歩き続け、不意に立ち止まった。
「この辺でいいでしょ」
男はそう言って、懐からコンパスを取り出した。
コンパスの針は、ヘリコプターのプロペラもかくや、といった速度で高速回転していた。
「うんうん、やっぱり思った通り。僕って冴えてるなあ」
男は満足気に言って、コンパスを懐に戻した。
『────動くな、そこなる下郎』
その時、どこからともなく声が聞こえてきた。
「お……直接脳に送り込んでる感じか?」
『黙れ。貴様、人間ではないな。外道めが……』
「うーん、ギャグとして言ってる? それとも本気で言ってる? 外道の意味によって変わってくるんだけども」
男は、呑気に言い返した。
『…………。道を外れた者よ、
「またまたぁ、ご冗談を」
男はそう言って、
「自分の体から追い出したいだけでしょ」
凶悪な表情を見せる。
『貴様……』
「君の力は、『濃霧を発生さけて、迷い込んだ人間を遭難させる』だからねぇ。しかも本体は霧そのものと来た。直接殺すような力を持ってないから、そんな事言ってるんでしょ?」
男は、まるで友人に話しかけるように言う。
『…………』
「黙ったって事は、図星かあ。人間の資料やら言い伝えやらも侮れないねぇ」
男は呑気に言うと、懐を探り始めた。
『何を……』
「えーと確か……あった」
男はぶつぶつと言いながら、容量一リットルの空のペットボトルを取り出した。
男はペットボトルの蓋を外すと、ペットボトルを天に掲げた。
次の瞬間、周囲に立ち込める濃霧が、ペットボトルに吸い込まれ始めた。
抵抗をする間もなく、〝霧〟は数秒で完全にペットボトルに吸い込まれた。
男はペットボトルの蓋を閉めると、隙間をビニールテープで密閉した。
「文明の利器ってのは便利だねぇ。竹筒に笹の葉とかじゃこうは行かない……」
男はそう言うと、ペットボトルも懐に仕舞った。
「さて……っと」
男は、人差し指で、目の前の空間を縦になぞった。
瞬間、指で描いた線に沿って、空間が縦に裂けた。裂け目からは、赤黒い単色の空間が見える。
男が空間に入ろうとすると、背後から、何かが崩れるような物音が聞こえた。
「うん?」
男が振り向くと、そこには、地面にへたりこんだ壮年の男性がいた。
「あ、あわわ……」
男の目は、まるでこの世の出来事ではないものを見たかのようだった。完全に怯えている。
「……あらら、見られちゃった?」
男は呑気そうに言うと、
「全く……どやされちゃうよ」
ほんの少しだけ困ったかのように言って、自分の影を男性に向けて伸ばした。
「う、うわっ……⁉」
男性は慌てて逃げようとしたが、
「────っ⁉」
影からそれと同色の無数の腕が伸び、男性を雁字搦めに拘束した。
腕は徐々に増え、男性に絡み付きながら、その体を影の中に沈めていく。
「……うーん、こういう時、何て言えばいいんだっけか……」
腕が男性の口を塞ぐのを見ながら、男は考える。
「────っ!?」
男性が悲鳴を上げようとすると、口の中に腕が入り込み、喉奥まで侵入していった。
男は暫くの間、腕を組み、唸りながら考え、男性が完全に影に沈む寸前に、漸く答えを思い出す。
「あ、思い出した。──『いただきます』だね」
男が手を合わせていった瞬間、男性は、影の中に完全に飲み込まれた。
「ふぅ……うっぷっ……」
男は溜め息を吐いた直後に顔色を青くし、慌てて両手で口元を抑えた。
「……ぅう、朝っぱらからこれはキビシかったかぁ……」
男はそうぼやくと、懐から魔法瓶を取り出し、中身を飲んだ。それからやれやれと肩をすくめ、空間に入っていく。
「たっだいまー」
書斎のような部屋の隅に出現した空間の裂け目から、男が現れた。
机の前でうたた寝していた女が目を覚まし、欠伸をした。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「ん? 大丈夫大丈夫」
「なら良かった」
「うん、おかえりなさい。収獲はあった?」
「バッチリ。ほらコレ」
男はそう言って、机の上に霧が詰まったペットボトルを置いた。
「これは……オンボノヤス?」
「正解。よく一発で解ったね」
「だって、田村地方に用事があって、そこでの収獲だし……」
「ああ、それもそうか」
そう言って、男はあっけらかんとした様子で笑う。
「……それで? それ、何に使うのよ?」
「鬼殺しに使うのよ」
男は女の口調を真似て答えた。
「…………。オンボノヤスって、能力は〝遭難させる〟だけなのに?」
「まあ、ざっくりいうとね。勿論手は加える」
男は、楽しそうに笑顔を浮かべる。
「ま、そうよね。ちゃんとした朝ご飯、いる?」
「いやぁ、いいよ。これ以上食べたら吐いちゃいそうだし」
「は……うん?」
女は眉を顰めると、男に顔を近付けて臭いを嗅いだ。
女は顔をしかめ、男を問い詰める。
「人間臭い……何? まさか食べてきたの?」
「いやあ、門を創るところを見られちゃって、面目ない」
「はぁ?」
あっさりと白状する男を見て、女が呆れる。
「えぇ……ちょっと、気を付けてよ……」
「はーい……ま、それはそれとして、このオンボノヤスに手を加えていこう」
男はそう言うと、表情を引き締めた。
「本当に気を付けてよ……?」
「分かってる分かってる」
「最初から分かってるならヘマしないでしょ」
「うぐ……気を付けます。本当に」
「よろしい」
「はい……。じゃ、気を取り直して……」
男はそう言うと、表情を引き締め直した。
「今回の目的は、鬼殺し並びに威力偵察。ついでに生命力と、苦しみに汚染された魂の採集。他に何かやりたい事はある?」
「ちょっと考えさせて……」
女は少し考え、
「……あ、溶かすのはどう?」
女の提案に、男は少し難しそうな表情を作る。
「ん……溶かすって……どんな風に?」
「どんな風に、って?」
「仮に霧を凄まじい酸性にするとしてさ、環境含めてジェノサイドじゃ芸はないじゃない?」
「そっか……あ、じゃあ、動物だけ狙うとかどう?」
提案が追加され、男は嬉しそうな顔になった。
「それいい! 山がクマザサまみれになってから草木が軒並み枯れ果てるとか!」
「そう? じゃあ、それで」
女が楽しそうに言う。
「よし……じゃあ、どこに撒く?」
この問いに対しては、女は即答した。
「そんなの決まってるじゃない。
「……ああ、たしか、
「そう、その辺」
「そっかぁ……ふふふ、面白い事になりそうだねぇ。もう少しで、僕達の目的は達成出来そうだし」
「ええ、全く。もう少しで、あのお方が──ふふ」
男女はそれぞれ、凶悪かつ楽しげに笑い合った。
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