第五話 順応速度

「あー……ねっむい……もう、夜更かししたから……」


 日本史の教諭である錦田はぼやき、盛大に欠伸をした。およそ女性がしていい表情ではなかった。


「まあ、一時限目は総合で自習だし、最悪──うん?」


 錦田はそう言いかけて黙り、足を止めた。


 錦田の前方、教室の方から、着物姿の少女が歩いてきていた。


「おやまあ似合ってること──じゃなくて!」


 錦田は呟き、少女に近付いて話しかける。


「あー、ちょっといい?」

「……はい?」

「えっと、授業、もう始まってると思うんだけど。あんまり人の事は言えないんだけど」

「授業?」

「え、だって今もう八時四十五分だし」

「え、何と?」

「え……は? ん、あれ?」


 困惑しながらも、錦田が何かに気付く。


「えー、っと、もしかして生徒さんじゃない?」


 錦田の問いに、咎は怪訝な表情になって首を傾げる。


「生、徒……? いや、違いますけど」

「あっ……なーんだ、違うのか! そっかそっか。……えっと、どうしてここに?」

「薫に昼餉を届けに来たんです」

「剣崎クンに昼餉……そっか。勘違いしてごめんなさい。じゃあこれで」

「じゃあ、私もこれで失礼します」

「はい」


 錦田は頷き、教室に向かおうとして、何かに気付いて振り向く。


「──ん? 剣崎クンに昼餉って──」


 錦田がそう言いつつ振り向いた時には、少女は姿を消していた。


「……誰だったんだろ、今の」


 錦田は首を傾げ、それからすぐに『1―E』教室に向かった。ドアや窓が締め切られているにも関わらず、だいぶ騒がしかった。


「おーおー、だいぶ騒いでるなあ」


 錦田は呟き、音を殆ど立てずにドアを開けて教室に入った。足音を立てずに教壇まで歩いていき、教卓の上にパソコンや歴史の資料を静かに置き、パイプ椅子に無音で座った。


「──あ、そうだ。おーい」


 錦田が言った瞬間、教室が一瞬で静まり返った。


「あー、騒ぐのは別にいいけどな、あれだ、もう少し静かにやれよ、な?」


 錦田はそう言って静かに笑い、


「ああ、それと。剣崎クン、昼休み、昼食食べてからでいいからちょっと顔貸してくれ」

「へっ? ……えっ、な、何かしました?」


 急に呼ばれたからか、挙動不審になった薫が聞き返す。

 それを見て、錦田は慌てて訂正する。


「いや、そういう訳じゃないけど……あれだ、ちょっと資料室の整理を手伝って欲しいんだ」

「あっ……あー、そうですか! 分かりました!」

「うん、頼むわ」


 錦田はそう言うと、作業に戻った。





 昼休み。


 薫は、櫛田、酒井、川口の三人と弁当を食べていたのだが、


「うう……まだ眠い……」


 薫は目をショボショボさせ、眠そうにぼやいた。


「お前、ずっと寝てたもんな」


 櫛田がやや呆れた様子で言った。


「弁当が、弁当が見にくい……」

「そんなにかよ」


 酒井が苦笑して、


「ああ、そう言えば、錦田先生の頼み事、いいの?」

「あっ……しまった!」


 薫は頼まれ事を思い出した。


「忘れてるんかい⁉」


 川口が驚いて突っ込んだ。


「うん忘れてた。あと目も冴えた! 酒井さんありがと!」

「あ、うん……」


 薫は弁当を手早く平らげて片付けると、教室を出て行った。


「……いつもあれぐらい決断力が強いと、もうちょっとカッコイイんだけどなあ……」


 酒井は、薫の後ろ姿を見て呟いた。




 資料室に到着した薫は、ドアをノックした。


「失礼しまーす……」


 資料室の中央は理科室にあるような机が選挙していた。そこには古ぼけた書物やプリント類が山積みにされていた。床にもいくらか散らばっている。


「お、来たか」


 資料室の奥から錦田が顔を出して言った。


「手袋持ってきた?」

「あ、はい。……少しづつ馴れてきましたきましたけど、だいぶ散らかってますね……」

「ははは、申し訳ない。これが一番大きな仕事なもんで、なんてね」

「これ、津野原つのはらの歴史をまとめてるんですよね?」

「まあねー」

「一体、後どれだけあるんですか?」


 薫の問いに、錦田はあっけらかんとした様子で笑う。


「先々任の教師からやってるんだけど、まだまだ終わりそうもないかなあ。まあ、こういうの好きだからいいんだけどね」

「それって、ご先祖様が妖怪退治してたお侍様だったからですか?」

「伝説だけどねー。それもあるんだけど、一番は、やっぱり私自身が好きだから、かな」

「そう、ですか……。あ、そろそろ始めしょう?」

「うん」


 そう言って、二人は片付けを始めた。


「散らかってるのに整っているのが不思議なんだよな……」


 薫はそう言って、抱えた百科事典のような厚さの本を覗き込んだ。石器時代から近現代まで、下から順番通りに積まれていた。


「どんなに片付けても散らかるから、いっそ整えた状態で散らかすようにしとこうかな、って」

「成程……って、字面的に矛盾してる感じしますよね、これ」

「確かに、ふふ……」


 二人はそこまで言って黙り、黙々と作業しようとして、


「あ、そうだ思い出した」

「え、何がです?」

「何か君にお昼届けに来たって女の子がいたんだけど──」

「えっ……えっちょっ、えっ?」

「……分かりやすく動揺するのね」

「き、着物着てました?」

「うん。所謂お着物~って感じじゃなくて、歴史資料の小袖みたいな感じだったよ。とっても似合ってた」

「うわー……」

「なんか見た目高校生くらいの美人さんだったけど、どういう関係なの?」

「え、えーっと、その……あの、姉、姉です」

「ふーん、お姉さん、ねえ……」


 錦田は薫をジロジロと眺め、


「うーん、似てなくもない、かな」


 そう評した。


「そ、そっすか……」


 薫はそう返事して、無理に話を切り上げるべく、作業に集中した。





 放課後。


「ただいま……誰もいないけど」


 真っ直ぐ帰ってきた薫は、部屋に向かって言った。


「ひとりいるぞー。おかえりー」


 部屋の奥、リビングの方から、咎の声が聞こえてきた。


「あ、やっぱいるのか……」


 薫は呟くと、廊下を進む。


「咎さん、今日は弁当届けてくださって──」


リビングに足を踏み入れて、


「──って、何やってるんですか⁉」


 テーブルの上に薫の私物のノートパソコンが置かれ、その前に座る咎を目の当たりにした。

 咎は振り向くと、


「え? 何って、これを動かしてるんだ」

「ぱ、パソコンを?」

「へえ、これ〝ぱそこん〟って言うのか……」


 咎が興味深そうに呟き、パソコンを見る。


「え、パソコン知らないんですか?」

「あー……知らん」

「マジすか……ってか、パソコン知らないのに動かし方知ってたんですか?」

「まあ、丸一日弄ってたから。少しずつ、な」

「そう、ですか……」


 薫は感嘆した様子で呟いた。


「まあ、な」


 咎は呟き、何かを思い出したような表情になって、

「そうそう。昨日言い忘れたんだが」

「あ、はい⁉」

「昨日薫を襲った化獣……テナガっていうのだが」

「腕が滅茶苦茶に長い巨人でしたっけ?」

「ああ。で、あいつはそれを元にした化獣なんだ。で、それの姫の方なんだけどな、薫に会う前に出くわしていたんだ」

「えっ⁉」

「まあ、そっちは仕留めたんだ」

「あ、そ、そっすか……」

「で、だ。童子も瀕死だったし、子供は育ち切らないで餓え死にするだろうって話だ。死ぬ奴は減るよ、大丈夫」

「そ、そうですか……!」

「ああ」


 薫の安心した顔を見た咎は、そう言って笑顔になった。

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