第七話 卯の花から琥珀に
翌日。
朝食と登校の準備を滞りなく済ませ、薫は、学校に向かおうしていた。
「それじゃあ、学校行ってきますね」
「ああ。……えっと、行ってらっしゃい、だったか?」
「へ?」
「あ、いや、こんな事言うの、随分久し振りだったから、合ってるか不安でな」
「え、えっと……まあ、その、行ってきます」
薫はとりあえずそう言って、外に出た。ドアを閉め、鍵を掛ける。
「…………」
咎はそれを見終えてから、リビングに戻った。
咎は薫の自室からノートパソコンを持ち出し、テーブルに置いた。電源コードをコンセントに差し込み、電源を入れる。
「ふふ、薫に一通り見方と使い方は教えて貰ったからな……」
咎は嬉しそうに言って、それからすぐに真剣な、もしくは深刻そうな表情になる。
その視線は、パソコンの画面右下、西暦と年月日が表示されている場所を見る。
「西暦で、元弘三年は……」
咎はそう言って、検索エンジンを起動する。
ホームルームが始まる十分前。
「睡眠って、大事っすねえ……」
薫は、どこか感慨深い感じながら呟いた。
「今日そればっかだなオイ」
櫛田が呆れた様子で言った。
「昨日と比べて格段に調子がいいから……あははは」
薫が苦笑するのを見て、櫛田が話題を変える。
「ところでさ、薫、不審者の噂、聞いたか?」
「不審者……? ああ、一昨日のプリントの事?」
薫はそう予測したが、帰ってきた答えは予想外のものだった。
「あー、それじゃなくて……昨日の事らしいんだけど、何か、夜中に学校に入っていく奴がいたんだって」
「ウソ、マジで……?」
「それで、そいつは学校から出て来ないまま、姿を消したとか」
「ええ……何そのホラー……え、それ噂なんだよね?」
薫が念のために聞くと、櫛田は肩をすくめ。
「まあ、な。ぶっちゃけると、登校中に二年生っぽい女子の会話を……ええと、断片的? に又聞きしたやつだし、正確な時間は分からないし」
「学校の怪談レベルの話じゃん……」
薫がぼやいた、その時だった。
薫のリュックから、音が聞こえてきた。
「ん……電話? こんな時間に?」
薫は首を傾げると、リュックからスマートフォンを取り出した。
「家から……?」
「お前ん
小さく呟く櫛田を尻目に、薫は電話に出る。
「もしも──」
『薫か⁉』
電話口から咎の声が聞こえてきた。
「……ビックリした、何で電話かけたんですか? もうすぐ授業始まるんですけど──」
『マズイ事になった!
「え、でも──うっ……⁉」
薫はそう言いかけて、椅子に座ったままふらついた。机に手を突き、どうにか倒れる事を免れる。
『どうした⁉』
「いや……この……嫌な感じ、あの時の……」
『薫も分かるのか……なら話は早い! 急げ! 急いで逃げろ!』
「で、でも、周りの人は⁉」
『よし分かった今向かう一人でもいいから先に逃げろ!」
咎は呼吸を挟まずに一気にまくし立てると、乱暴に通話を切った。
「逃、げるったって……」
「なあ、何の電話だったんだ?」
考え込もうとする薫に、櫛田が話しかけた。
「え⁉ え、えーっと、その……」
薫はしどろもどろになり、誤魔化すための言い訳を考えるために周囲を見渡そうとして、
「何て、いう……か……」
〝それ〟を見つけた。
〝それ〟は、窓の向こうにいた。
〝それ〟は明らかに異質だった。
〝それ〟はまるで、周囲の空間から独立しているかのようだった。
〝それ〟は、顔は両目が落ち窪んだ人間のそれで、四対の脚は人間の手と脚で構成されている、巨大な蜘蛛のような怪物だった。
「な……」
──ヤベ、完全に目が合った。あっち眼球ないけど。
薫はそんな事を考えながら、体の向きを百八十度逆に向け、
「──っ!」
一目散に逃げだした。
薫の背後から、窓ガラスが叩き割られる音と悲鳴が同時に聞こえた。直後に何か重たい物が床に乗る音。
薫はそれを聞いて振り向こうとして、
──駄目だ、振り返ってたら追いつかれる!
そう思い直し、振り返らずに走った。
薫は走り続けた。振り返らずとも、後ろから『手の平を床に打ち付けるような音』が幾つも迫ってきている事だけは確認出来た。それだけでも、薫を突き動かすには充分だった。
薫は、『1―A』教室の側にある階段まで走り、殆ど飛び降りるような速さで駆け下りた。
──とにかく、とにかく外に……って、足音が聞こえなくなった……?
薫がそう思った瞬間、前方の天井が崩れた。
「うわっちょっ⁉」
全速力で走っていた薫はどうにか立ち止まった。
「何なんだよ……⁉」
薫が呟いた瞬間、瓦礫が動いた。内側から先程の怪物が姿を現し、薫を見下ろす。
「げっ……」
薫は声を漏らしながら、二歩、三歩と後退った。
怪物は薫に狙いを定めたのか、一歩足を踏み出した。
──あ……死んだ……じいちゃんばあちゃん、ゴメン……。
薫がそう思い、死を覚悟した時だった。
何かが窓を叩き割り、廊下に飛び込んできた。そのまま怪物に激突し、壁に突っ込んだ。
「今度は何⁉」
薫が驚いていると、怪物に激突した何か──咎が駆け寄って来た。
「薫!」
「咎さん⁉」
「一度逃げるぞ!」
咎はそう言いながら、薫を米俵のように担いだ。
「掴まってろ!」
「えっ、あっちょっ⁉」
薫が慌てるのをよそに、咎は走り出した。
咎は玄関から外に飛び出すと、走りながら薫に話しかける。
「口閉じてろよ!」
「は⁉」
咎は薫に聞き返されるよりも早く、軽やかに跳び上がった。
「えっ」
薫は急に襲ってきた浮遊感、そして遠ざかっていくアスファルトの地面を目の当たりにして、
「ちょっ……うわあぁ──っ⁉」
遅れて絶叫した。
咎は図書室がある別館の屋根に着地すると、蜘蛛の怪物の方を見た。
「……クソッ」
悪態をつく咎に、薫が恐る恐る話しかける。
「あ、あの、降ろしてくれます?」
「無理だ」
「な、何で?」
「アイツ、もう追ってきてる」
「アイツってさっきの怪獣ですか⁉ アレがテナガ⁉」
「そうだが、怪獣じゃなくて
咎が答えようとしたその時、屋根の縁に手が掛けられ、怪物が顔を出した。
薫が聞いてきた事に答えず、咎が叫ぶ。
「──悪いけど説明は逃げながらだ!」
咎はそう言って、学校の敷地外に飛び降り、更に目の前の車両四台分を飛び越え、走り出した。
凄まじい速度で走り続ける咎に、薫が問う。
「あのっ、逃げるってっ、どこっにっ⁉」
「駅前! 広いから!」
「ちょっ、あそこっ人多いでしょっ⁉」
「見りゃ分かるけど贅沢言ってられないんだ、悪い!」
「見、見りゃ……?」
薫が顔を上げると、三メートル程先の位置に怪物──テナガがいた。咎に負けず劣らずの速度で爆走していた。
「う、うわあーっ⁉ うわぁああーっ⁉」
「叫ぶな舌噛む!」
咎に言われて、薫は黙った。
数分後、駅前に近付いてきたところで咎が叫ぶ。
「──見えたぞ、ロータリー? だ!」
「何でそこ疑問形なんですかっ⁉」
担がれている状態に慣れてきた薫が叫び返した。
「……あー、薫。先に謝っておく、すまない」
「は、え⁉」
「丁寧に降ろしてる暇がない!」
咎はそう言うと、薫の胸ぐらを掴み、ボーリング玉を投げる要領で放り投げた。
薫は悲鳴を上げながら滑っていった。途中から転がり始め、最後は腹這いになって停止した。
「せ、背中が、お腹が……」
薫の呻き声を聞きながら、咎は振り向く。
咎は、すぐ後ろまで迫っていたテナガを睨んだ。両足を肩幅まで開き、深呼吸をする。
「う、うう……
薫が呻きながら顔を上げた瞬間、咎の全身を赤紫色の炎が包んだ。
数秒掛けて炎が散っていき、咎の姿が赤紫色の鎧小袖に白い鎧姿に変わる。
直後、鎧が透き通るような橙色に変化した。
「変わった……⁉」
薫は驚き、
「まだ橙なのか……」
咎はどこか悔しそうに呟いた。
「武器を出せないのは厳しいが、まあどうにか……!」
咎は呟くと、仁王像のような構えを取った。
テナガは雄叫びを上げて咎に突っ込んだ。右脚の手で、撫でるように横に薙ぐ。
咎は左腕を引き、向かってきた脚を蹴り飛ばして止めた。足を降ろし、一歩踏み込んで右腕を振り上げる。掌底でテナガの顎を打ち抜いた。
咎は続けて軽く跳び上がると、左拳でテナガの顎を再び打ち抜く。
テナガはひっくり返り、舗装を抉りながら滑っていった。
「す、凄……」
薫は思わず呟いた。
直後、テナガに異変が起きた。関節が逆向きに曲がり、そのまま起き上がる。体の向きを反転し、薫と咎を見下ろす。
「うげっ……」
「──薫! どっかに隠れてろ!」
「っ、う……!」
薫はどうにか起き上がり、駅構内に逃げ込んだ。入り口のすぐ側に隠れ、顔だけ出して外を見る。
丁度その時、テナガが咎に向けて白い糸の束を吐きかけた。
咎はそれを左斜め前に走って回避し、テナガの右側に回り込む。
「──だっ‼」
咎は気合いを込め、テナガの脚の先端の関節を蹴り抜く。蹴られた関節が砕け、手が有り得ない角度に曲がる。
テナガは悲鳴にも聞こえる雄叫びを上げ、咎が蹴りを入れた脚を振った。
「ぐっ──⁉」
咎はそれを胴体でマトモに受け止め、そのまま吹き飛ばされて駅の外壁に激突した。外壁からずり落ち、雨避け用の屋根の上にうつ伏せに倒れる。
「と、咎さん⁉」
薫は慌てながら二階に向かった。
「うぐ……」
咎はどうにか起き上がると、右腕を伸ばし、それを注視する。
それから少しも経たずに、咎が小さく舌打ちした。
「やっぱりまだ無理か……」
咎はそう呟くと、両手の拳から鉤爪を伸ばした。
「クソッ、大丈夫なのか……⁉」
薫はエスカレーターを駆け上ると、目の前の壁が一面ガラス張りになっていた。
薫は窓ガラスに顔を貼り付けるようにして咎の姿を探す。
咎は両手を腰溜めに構え、呼吸を整えた。
その瞬間、周囲に火の粉のような光が現れた。同時に鉤爪に向かって収束を始める。
「まだだ、まだ、まだ……」
光が鉤爪を付け根から先端に向けてを覆っていくのを見て、テナガが両足を縮める。
「間に合え……」
咎が呟くのと同時に、テナガが跳び上がった。咎に向けて真っ直ぐ突っ込んでいく。
「今だっ‼」
咎は叫びながら両腕を振り上げ、
「──はあああああああぁぁぁっ‼」
一気に振り下ろした。
腕の軌跡に沿って炎が発生し、テナガに向けて直進する。
テナガと正面衝突した炎はそのまま突き進み、テナガを細切れにしながら貫通した。
一瞬の間があってから、テナガは爆発四散した。
「うわっ⁉」
薫は慌てて両腕で顔を庇った。
ガラスに爆風が激突して音が鳴ったが、それ以降は何も起きなかった。
「……何でいきなり爆発したんだ……?」
薫は疑問を口にしながら、もう一度窓に近付く。
「咎さん、無事かなぁ……」
薫が心配そうに言いながら見ると、
「え、あれ、いない……⁉」
先程まで屋根の上にいた咎の姿が消えていた。
「ま、まさか爆発に巻き込まれて──」
薫がそういいかけた瞬間、
「巻き込まれて、何だ?」
背後から咎の声が聞こえた。
「うぇっ⁉」
薫が驚きながら振り向くと、そこには咎がいた。少々煤で汚れてはいるが、無傷だった。
「ぶ、無事でしたか」
「ああ。終わったよ」
「……あの、何か焦げてるっぽいですよ、髪の毛」
「え?」
咎は毛先を摘まみ、指をこすり合わせた。
「あー……うん、焦げてる。ま、このくらいならいつもの事さ」
咎は、どこか疲れたような笑みを浮かべた。
薫はそれを、何とも言えない表情になって見つめた。
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