第二話 卯の花の鎧

 約二時間後。

 楽しみにしていた映画を見終えた薫は、映画館の外に出た。

 その表情は、けして晴れやかとは言えず、どちらかと言えば曇っていた。


「…………はぁ……」


 薫は溜め息を吐くと、家に帰るために、トボトボと歩き始めた。


 あの後、薫はどうにか上映開始までに映画館に辿り着いた。さらに幸運な事に、席まで確保出来たのだが、


──何だったんだろう、あの着物の娘……。


 迷子の男の子ことタカユキに真っ先に手を差し伸べた、あの少女の事がずっと気になっていた。


──おかげで映画に全ッ然集中出来なかったし……。


「…………はぁ……」


──まぁ、まだ上映期間が終わるのは先だし、また日を改めて来るべ……。


 そう思い、薫は何か別の事を考えようとして、


「あ……夕ご飯どうしよう……」


 夕食をどうするか考える事が、寸前まで完全に抜け落ちていた事に気付いた。


「えー……うわ、あー、何で忘れるかなぁ……」


 薫がそうぼやいた直後、


──そんなんだから駄目なんだよ。


 女性の声で幻聴が聞こえてきた。


「…………ッ!」


 その瞬間、薫は突然立ち止まった。その表情が苦痛と怒りに歪み、歯を割らんばかりの力を込めて食い縛る。

 ほんの少しの間そうしてから、薫の顔から表情が無くなる。


「……何で、事ある毎に思い出すのかな……」


 心底疲れた様子でぼやいて、薫は歩き始めた。


 薫は、とりあえず駅前に向かった。途中、車線が四本ある太い車道を渡ろうとして、信号に引っ掛かった。


「……待つか」


 薫は呟くと、横断歩道の三歩前で立ち止まった。


「……あ」


 そして数秒もしない内に、もう一つ、完全に忘れていた事を思い出す。


──そうだよ、カップ麺切らしてたから買うんだった!


「……じゃあ、夕飯は適当にカップ麺と米でいっかぁ……」


 薫がそう言った直後、信号が青に変わった。

 薫は信号を足早に渡った。





 十分程歩いて、薫は複合ショッピング施設に到着した。その一角にあるスーパーマーケットに向かい、入り口でカゴを一つ取って店に入る。

 薫は迷う事なくインスタント食品のコーナーに向かい、カップ麺の棚の前に立った。


「どれにするかな……」


 そう言いながらも、薫の手は迷いを見せていなかった。

 薫は、醤油、塩、味噌、カレーの四種類のカップラーメンを、それぞれ三つずつカゴに放り込んだ。


「……ま、こんなモンでいいでしょ」


 薫は独り言を言って、レジに向かった。




 思いの外レジが混んでいたために、薫が会計を終えて外に出る頃には、時刻は午後八時半を回っていた。


「遅くなっちゃったな……早(は)よ帰ろう」


 薫は呟くと、帰宅するために歩き始めた。


 薫が自宅として借りているマンション、はスーパーマーケットから徒歩で十五分程の位置にある。そのため薫は徒歩で帰ろうとしたのだが、


「…………」


 背筋に悪寒を感じ、薫は立ち止まった。これで、もう四度目だった。


「……何だ、この凄く嫌な感じ……」


 薫は悪寒を何度も感じたために、思わず声を出していた。


「…………」


薫は出来る限り周りに注意しながら、歩き始める。


──嫌な感じ、か。これ、何か、前に体験した事あるような〝感じ〟なんだよな……。


──職員室に入る寸前で入るか入らないか迷う時……違う……。

──期限が昨日までだった集金その他を知らせる大事なプリントを発見した時……これも違うか。


 薫は記憶を手繰りながら歩き続けたが、


──どれも違う……じゃあ、もっとこう、根本的な感覚なのか?


 〝嫌な感じ〟と同じ感覚を覚えた経験を思い出す事が出来なかった。


 そうしている間に、やや短めの横断歩道が見えてきた。赤信号だったので、手前で立ち止まる。


「……ていうか、家に近付けば近付く程〝嫌な感じ〟が増してくんですけど……」


 薫が露骨に嫌な表情になって言った、その時だった。



 ぐちゅり。



 何か、湿ったものを潰すような音が聞こえた。


「……あ、え?」


 薫が周囲を見渡す。街灯の類いが照らす範囲では、音の原因になりそうなものや、出来事も存在していなかった。


「何だ、今の……?」


 薫は、恐怖や疑問その他で動かなくなりつつある身体や思考に抗い、必死でそれらを動かす。その間にも、音は続いている。


「どっから聞こえてるんだ……?」


 薫はもう一度、ゆっくりと、周囲を観察する。前方と左右を確認し、振り向いて後方も確認した。

それでも、見える範囲には音の発生源はなかったが、


「もしかして……あそこか?」


 薫は、信号機を渡った先を右に曲がった場所にある路地裏の入り口を見た。

 その直後、信号が、まるで待ち兼ねていたかのように青に変わった。


「…………」


 薫は、帰宅するためにも、一先ずは横断歩道を渡る事にした。


「……何も起こるなよ……」


 薫はそう呟くと、警戒しながら横断歩道を渡った。幸い、何も起こらなかった。

 薫は、路地裏の入り口を見つめた。


「行かない方がいいよな……でもなあ……」


──見に行かないのも後味悪い事になりそうだし……。


 そう考えている内に、薫の脚は、自然と路地裏の入り口の手前まで向かっていた。


「……の、覗くだけ、覗くだけだ、な」


 薫は自分に言い聞かせるように言って、路地裏の中を覗き込んだ。


 路地裏は薫がいる場所よりも暗く、四、五メートル先にある電柱の街灯一つ以外に足元を照らす物はなかった。


 その街灯の灯りに、何かが照らされていた。

 何かは人間のようだった。蹲り、何かをしている。湿った音は、人間の下から聞こえていた。

 人間の周囲の地面には、何か液体が広がっていた。

 その瞬間、薫は、テレビの交通事故のニュースの現場を思い出した。


──あ……あれ、血だ。

──じゃあ、音の正体は?


 薫がそう思った瞬間だった。


 蹲っていた人間が振り向き、立ち上がった。


 人間は、長身痩躯の男だった。髪は黒く、長い。着物とも作務衣ともつかない奇妙な服を着ていた。腕には白く太い糸のような物が四、五本巻き付いていた。足元は裸足だった。

男の口元は、紅(あか)に染まっていた。


「うわ……」


 薫はそれを見て、思わず声を出していた。


 それに反応するように、男が話す。


「……人間だ」


 気怠げな声の質は、女性のそれだった。


「な……⁉」


 驚いて後退ったその瞬間、薫の視線が男の足元に向かった。


 そこには、人間が転がっていた。女性に見えるが、顔や胸が血塗れになっていて判別が出来ない。


 それを認識した瞬間、男が動いた。左足に力を込め、飛ぶように、軽く地面を蹴る。たったそれだけで、男は薫に腕が届く距離まで接近した。


「うわっ⁉」


 薫が驚いた瞬間には、男は薫のシャツの襟を掴み、勢いを殺さずそのまま薫を巻き込んで倒れ込む。


「げほっ⁉」


 倒れた衝撃をまともに身体で受け、薫は咳き込む。

 その間も、男は薫を品定めするように見ていた。


「な、な……⁉」


 混乱する薫に、男が話しかける。


「……不味そうだな」

「……は⁉」

「まあ、腹に納まれば変わらないか」

「何を言って……⁉」

あっちをあの子にやるか」


 男はそう言うと、顔を薫の首に近付けようとして、


「…………?」


 首を傾げ、すぐに動きを止めた。


「……お前……」

「な、何……ですか?」


 薫が聞くと、男は心底嫌そうな表情になって、


「……鬼の臭いがする」

「お、鬼?」

「食い物にならないな──」


 男が呟いた次の瞬間、その身体が、薫から見て右に吹き飛んだ。

 直後、薫の左側に何かが落ちるような音が聞こえた。


「え……?」


 薫が左を向くと、そこには、映画を見る前に会った着物姿の少女が、着地したような姿勢でしゃがんでいた。

 少女は、まるで人が変わったかのように、刃物のような雰囲気を纏っていた。


「……間に合ったか」


 少女は呟くと、立ち上がり、薫を見る。


「大丈夫か、少年?」

「え……あ、はい……?」

「なら良し」


 少女は頷くと、薫の右手前に立った。

 それと同時に、吹き飛ばされた男がゆらりと立ち上がる。


「……鬼め……」


 男は少女を見て、忌々しげに呻いた。


「お、鬼って……?」


 薫は少女に聞きながら立とうとして、


「……少年、それ以上動くな」


 顔だけを向けた少女に止められた。


「え……」

「……説明は後でするから、絶対動かないでくれ。頼む」

「は、はい……?」


 微妙な表情で頷いた薫を見て、少女は男に向き直る。

 男は体を揺らし、手を叩き始める。


「おーにさんこーちら、てぇーのなるほーおへぇ……」


 言い切った瞬間、男の身体が歪む。両腕の関節が逆に曲がる。目が赤一色になり、口が昆虫類のそれのように変わる。同じ物が六つ、上下に並ぶそれらが異常に伸び、指先が地面に届く。両足も、腕と同様に逆に曲がる。


 異形の怪人に変貌を遂げた男が息を吐く。


「なっ……⁉」


 驚愕する薫の前で、少女が呟く。


「……テナガ、か?」


 少女は、両足を肩幅に開いた。目を閉じ、深呼吸をする。

 それと同時に、少女の身体から赤紫色の炎が噴き出し、全身を包んだ。


「うわっ⁉」


 薫は突然の出来事に驚き、両腕で熱風から顔を庇った。

 腕の隙間から見える光景に、薫は目を見開いた。


 炎が散っていき、赤紫色の鎧小袖に雪のような白鎧姿の少女が顕になる。

 少女は両腕の籠手を見て、小さく溜め息を吐く。


「……白か、まだ慣れないか」

「……さ、侍……?」


 薫が呟いた言葉が聞こえたのか、少女はもう一度振り向いた。額には、金属質な銀色の光沢を放つ二本の角が付いた鉢金が巻かれていた。


「あ……」


 薫が何か言う前に、少女は怪人のを剥いた。その瞬間、突っ込んできた怪人が少女に激突した。

 少女はそれを受け止め、前蹴りを放って怪人を押し戻した。

 少女は駆け出すと、踏み止まった怪人の左鎖骨を殴った。続けて左足で膝蹴りを捻じ込み、足を降ろしつつ右拳を腹に打ち込む。


 怪人はたたらを踏んで下がったが、大したダメージは無いらしく、すぐに体勢を立て直す。

 少女は小さく舌打ちをして、右フックを放ったが、怪人はそれを左手で払った。素早く右手を少女に伸ばすと、その右足を掴んだ。


「っ──」


 怪人は少女を軽々と持ち上げると、無造作に真後ろに放り投げた。


「──がっ⁉」


 アスファルトの地面に強(したた)かに打ち付けられ、少女はが呻く。


 怪人は、異形の顔を薫に向けた。大顎のような口を左右に開き、息を吐く。その口から、涎が糸を引いて地面に落ちる。


 薫の表情が引きつる。

 怪人はそれを見て、満足そうに口を動かした。

笑っているようにも見える動きをしたその瞬間、怪人の頭が、鈍い音と共に凄まじい勢いで下を向いた。


薫は、少女が怪人の後頭部を殴り飛ばしたのを、怪人の体越しに見た。


 少女は怪人の右腕を掴み、立ち位置を入れ替えるようにして投げ倒した。倒れ込んだ怪人の左腕を掴み、担ぎ上げ、投げる。同じような動きで、何度も何度も投げる。


 九回連続で投げ飛ばして、少女が跳ぶように下がった。腰を落とし、右手を引く。

 少女は呼吸を整え、突撃しようとして、


「うっ……!」


 突然、その場で膝を突いた。


「え……」


 薫が少女を見る。少女の呼吸は荒くなっていて、顔が青白くなっていた。


「何で急に……」


 薫が疑問を口にする中、怪人が立ち上がる。何度も投げられたためか、少女に負けず劣らずグロッキーになっていた。


「グ……ゥ……オオオォッ‼」


 怪人は雄叫びを上げた。少女に突撃しながら、右腕を振り上げる。


「ッ、ダアァッ‼」


 少女も絶叫し、右拳を突き上げた。


 怪人は少女に覆い被さるような状態で動きを止めた。少女も、身じろぎ一つしなかった。


 少女は、顔を左に傾け、怪人の右腕を避けていた。


「……ガ……⁉」


 怪人が後退った。腹部から、白い液体が流れ、地面に滴った。


 少女の右拳から、先程まで無かった鉤爪が三本伸びていた。爪は、全体的に白い液体で濡れていた。


 少女はよろめくと、完全に座り込んだ。

 怪人はそれを見るや否や、背を向けて逃げ出した。足を引きずってこそいたが、かなりの速度で遠ざかっていく。途中で跳び上がり、ビルの向こうに消えた。


 薫は、それを見送る事しか出来なかった。

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