Sheh.3 信号機

「ったく、ろくなことありゃしねえ」

 深夜の住宅街を、一人の男がふらふらと歩いてくる。鳥たちが寝入り、家の明かりは落ち、星々さえも静かに寝息を立てている、そんな静かな夜の道。くたびれたスーツ靴が、アスファルトの道を叩く。

 目はパソコンの見すぎと、飲みに付き合わされたので、真っ赤に腫れ上がっている。

「嫁さん待ってるっつーのに、あの上司と来たら毎日毎日、無理言いやがって。仕事はしねえのに、飲みは欠かさないんだからな。まったく模範的な社会人だ」

 臭い酒が身の芯まで染み渡り、頭がぼうっとする。重い革靴を枷のように引きずって歩く。ぼさぼさになった髪を掻き毟り、大きくあくびをする。自然と出る涙が目を濡らすが、予想外に痛かった。軽く舌打ちして目をこする。

 そして、足は信号で止まった。

 男は怪訝そうに信号機を見上げた。

 閑静な住宅街に挟まれた道路である。こんな時間になれば車一つ通りやしない。一応律儀に待ちながら、思わず語りかけた。

「お前、一人か……」

 信号機は赤のまま、立ち尽くしている。

「ふん。気楽なことだ。愛想も何も、いらんからな」

 こたえる代わりに、信号機は青に変わった。

 男はため息をついて、横断歩道の白線を渡っていった。




 また別の日、例の男が歩いてきた。前よりずっと遅く、靴はしおれ、スーツのジャケットはぼろきれのようである。男は斜め前の地面を見つめ、嘆息しながらゆっくり歩いてくる。相も変わらず、星さえ眠る夜であるが、やはりあれは起きていた。

「よお、また会ったな」

 酔った男は呟き、静かに見上げた。

 目の先には、白い信号機が涼しい顔で立っている。今夜も、男以外誰もいないにも関わらず、律儀に青くなったり赤くなったりしている。

 男はしばらくぼうっとその様子を見上げていた。家々の明かりは落ち、夜空は暗く、ただ信号機だけが輝いて見える。

「なあ……」

 かすれた声が問いかける。

「お前はなんで、そうやって仕事を続けられるんだ? 誰も見ちゃいないのに。なんでだ?」

 尋ねる声は夜闇へ吸い取られ、信号機はただ静かに青く点灯し、先を促すだけだった。




 またある夜、男が現れた。

 だが、様子が尋常でない。おぼつかない足取りは、一層力なく、幽霊の手で動かされているようである。頬はこけ、目は落ち、顔は真っ白である。

 身体が歩んで行き、ふとあるところで止まった。驚いた魂が帰ってくる。見渡すと、例の信号機のところであった。

 男は突然喚き出した。

「もうお前でもいい! 聞いてくれ! なんでだ! 毎日毎日、会社のためを思って頑張って働いてきた。今まで周りの評価を気にして一生懸命やってきた。上司にだって使える愛想は全部使った! なのに、なんでだ?! 俺がせかせか尽くしてやったっつうのに、あの糞上司! 俺の点だけ全部奪って、あいつの汚点を全部俺に押し付けて!! あいつは昇格、俺は降格だと!? 俺の今までの頑張りはなんだったんだ! ええ?! 渋々飲みにも付け合ってやったつうのに、最後はとかげの尻尾かよ! 何のために仕事やってきたんだよ、俺はよ!! 妻には離婚をほのめかされるし! なんだってんだ、俺の日々の仕事は!!」

 信号機は真っ赤のままこたえない。赤いライトが男の脳を焼く。



 そのとき、別の方角から返事があった。



 大型トラックが走ってくる。他の車がいないのをよいことに、結構なスピードで。

 男は白いライトを見て、何かが切れたように笑った。

「この生きづらい世の中、ろくなことねえからな。それもいいかもな・・・・・・・・

 信号機は赤のままだ。トラックは全速で走ってくる。男はその場に鞄を置き、震える膝を叩いて、トラックを見つめる。

 巨大な鉄の塊が、轟音とともに迫ってくる。白いライトに世界が包まれる。男は浮遊感を感じて、一歩踏み出す。これが救いの道だと信じて――。



 男の足は地面を踏んだ。しっかりと。来るべき衝撃もない。

 ふと目を開けて見回す。


 正面の信号機は青になっていた。


 トラックは赤信号に捕まり、つまらなそうに止まっていた。

 男はうわっと泣き出した。その場にしゃがみこんで慟哭する。

 まだ生きろというのか! 何のために!? どうせ努力したって、愛想愛想で売り込めなけりゃなあ!? でも、不器用な俺にはそんなこと無理だ! 信号機め! のん気な奴め! 貴様に何が分かる!?

 散々言い散らす間にトラックは横目で過ぎ去ってゆき、夜闇も逃げ去っていった。

 もはや出す声を失うと、男はただ信号機を睨みつけ、無言で渡っていった。






 ある夜、男が歩いてくる。あの信号機に向かって。今夜も信号機は静かに男を待っていた。

「今日も今日とて、ご苦労なことで」

 開口一番皮肉を言いつつ、その後ふっと微笑を浮かべる。

「でも、やっぱりそれが大事なんだな」

 そよ風が心の中を吹き抜けていく。信号機は温かい色でじっと耳をすます。

「誰が見ていようと、見ていまいと、関係なくひたむきに仕事をする、お前みたいに。これが結局、一番なんだな」

 信号機は黙って聞いている。

「俺、例の上司に裏切られてから、おべっかは全部やめたんだ。何の意味もなかったからな。代わりに、誰も見てないようなところでも、なすべきことを、ただひたすらに真っ直ぐこなした。周りの評価なんて気にせず、自分の仕事に打ち込んだんだ……」

 男は今一度、寡黙な信号機を見上げた。

「ありがとう。お前のように腐らず真っ直ぐ打ち込んでいたら、元上司もびっくりの大昇格だ。今じゃあのときの上司を使う立場だ。誰かが見てるからやるんじゃない。ひたすらにやっていれば、いつの間にか自然と誰かが見てくれてるんだな」

 信号機はうなずかなかった。ただ、静かに青く点灯した。

 ――ありがとう。お前に助けられた。

 男は笑みをこぼし、横断歩道を渡っていく。その姿を信号機は二つの目で、穏やかに見守っていた。

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