旅立ちへ


 それからまた時は過ぎ、春も終わりを告げた。四月に入り初夏を迎えると、今まで蘇州に滞在していた第十次遣唐使節団も洛陽へ到着した。無事に皇帝である李隆基に謁見したのは、彼らが唐に着いてから実に半年以上経っての出来事である。

 そこからの流れは 風が吹くかのような早さであった。遣唐使達が華やかな洛陽を堪能している間にも、あっという間に夏は過ぎ、秋が過ぎ、また巡り巡って冬がやって来ようとしていた。全ての儀式的な任務を終えた遣唐使達は、これから再び東を目指す。唐でさらなる修行や勉学に励む留学生と留学僧を残し、国書や様々な土産品を持って日本へと帰るのだ。ついに真備ら先の遣唐留学生達に、帰国の時がやって来たのである。


 この時も、来た時と同じように四隻の船で日本へと帰ることとなった。第一船には第十次遣唐大使の多治比広成たじひのひろなり、第二船には副使の中臣名代なかとみのなしろ······このように次々と人員が割り振られ、土産品なども人数に合わせて勘定される。

 真備は遣唐大使・多治比広成と共に第一船に乗ることとなった。もちろん、真備が集めに集めていた書物達も一緒である。もはや人の手に負える量ではなく、書物を移動させるために車を出したほど。その山を見た第一船の乗員達が、目を丸くしていたのは言うまでもない。


 洛陽を去る前日、真備は仲麻呂の屋敷の一角にいた。先程までは王維や儲光羲も別れの挨拶をかねて来ていたのだが、真備たちのことを気遣ってか一足先に帰ってしまった。残ったのは、真備と仲麻呂、そして小窓から差し込む静かな夕日だけである。

 王維らが帰ってしまったあと、二人は何を話すでもなくただただ囲碁を打ち合っていた。パチリパチリという碁石の音が、静寂に包まれた夕空に響いて消える。その時彼らが何を思っていたのか。そんなことは今となっては分からない。ただ、そこはとても優しい空間だった。言葉も何も無かったが、確かに何かに満たされていた。部屋を包むのは、夕日か はたまた二人の心か。それは分からないが、静寂はいつまでも温かく二人を包んでいた。

 次に会うのはいつの日か、共に無事でいられるのか。そんなものをわざわざ苦悶することもない。ただ、時の波に身を任せれば良い。その波に上手く乗れば、自然と船は前に進む。それを二人は分かっていたのだ。何と言っても、彼らは確かに海を渡った遣唐使なのだから。


 その囲碁の対局は日が暮れる頃まで続いた。日暮れの太鼓が鳴る前にと、仲麻呂が帰宅を促すまで。勝負に勝敗はなかったが、二人にとってはそれで良かったのだろう。彼らの戦いは一夜で決するほどのものではない。心臓が動きを止めるその時まで、彼らは決着を付ける気などない。追い抜かされたらさらに追い越し、そうして延々と続いてゆく。それでこそ好敵手ライバルであり、二人の生き方だったのだろう。

 だからこそ、二人はいつも通り別れた。特に特別な話をする訳でもなく、それぞれの居場所へと帰っていく。しかし別れたあと、二人は何気なく空を見上げた。真備は館への帰路で、仲麻呂は自室の窓辺で。それは面白いことにほぼ同時だった。暮れてゆく空に浮かぶ月。二人はそれを眺めて柔らかく目を細める。かつて二人で飛んだ長安の空。それはこの洛陽の空にも繋がっているのだろう。もちろん、彼らがかつて唐を夢見て見上げた平城ならの空にも。そう思うと、懐かしい声が次々と胸に駆け巡った気がした。

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