最終話・光の先に


 翌日、ついに遣唐使達が洛陽を去ることとなった。その日は秋も深まり、木の葉が色鮮やかに風に散るこの上ない晴天であった。大きな大きな洛陽の門には、見送りの人々がざわざわと群がっている。行列を面白半分に眺める野次馬もいた。短い愛を惜しむ、唐の女もいた。共に学び、競い合った唐や新羅の青年たちもいた。彼らはそれぞれに思い出を秘め、遣唐使の一行を見送るのだろう。


 真備がそれを横目に列に並ぶと、隣にいたのは見覚えのある留学僧だった。平群広成らと初めて会った時に、宴をしようと言い出したあの男である。彼は真備をちらりと見ると、太い眉を上げてニカッと笑った。

「お前、下道真備だろ。野馬台詩のおかげで一気に有名人だな」

「ま、まぁそうみたいで」

 急に話しかけられて戸惑った真備は、思わず曖昧な返事をしてしまった。しかし、この留学僧のことはどうも気になる。真備は続けて彼に問いかけた。

「貴方は?」

「ああ俺か? 俺は玄昉げんぼうだ。よろしく」

 玄昉。そう名乗った留学僧は、再び豪胆な笑顔を浮かべて片手をひらひらと振る。そして真備の背後に目を向けると、「おい」と人差し指を向けた。

「あれお前の知り合いか? 手ぇ振ってるぞ」

 真備が振り返ると、にこやかに微笑んでいる影が三つ。一人は仲麻呂、大きく手を振っているのが王維おうい、小さく片手を上げたのが儲光羲ちょこうぎだ。彼らは真備と目が合うと、こぞってこちらへ近づいてきた。

「いやぁ、凄い人混みだね! 真備さん見つけられないかと思ったよ」

「俺の視力に感謝するんだな」

「ちょっとー! 最初に真備さんを見つけたのは晁衡ちょうこうでしょ? 何自分の手柄みたいにしてんのさ。君は目がいいだけで何もしてないじゃない」

 小突き合いを始めた王維と儲光羲に、真備はくすりと笑みを漏らす。すると、同じように笑っていた仲麻呂と目が合った。彼は澄んだ瞳でこちらを見つめると、どこか寂しそうに目を細める。

「いよいよですね。道中お気をつけて」

 仲麻呂が袖から小さな袋を取り出した。続けて真備の手をとるとそっと小袋を乗せる。

「お守りです。あなたが無事に日本に帰れますように。日本で大物になる前に死んだら許しませんから」

 強い瞳に押されて袋を開けてみる。すると、通りを抜ける風に乗って、甘い花の香りが鼻をかすめた。そこにあったのは、くしゃりと丸まった黄色い花の粒だ。それはパラパラと手の中で転がり、どこか懐かしい香りを運ぶ。

「乾燥させた鬼縛りです」

 仲麻呂がぽつりと呟いた。

「私が日本をつ時に、母がお守りとして持たせてくれたのです。そのうちの半分を貴方に託したいと思います」

 真備はあっと目を丸くした。思わず「そうか」と呟いて、手元の小さな花を見つめる。

「だからお前から花の香りがしたのか。高楼に居た時からずっと······」

 聞いた仲麻呂は一瞬意外そうな顔をした。しかし、直ぐにふわりと微笑むと、まるで遠い母を思いやるかのように鬼縛りを見つめる。

「ふふっ、そうなんですか? 私は気が付きませんでした。今までずっと、鬼に縛られていた心地でいましたが······今、こうやって人間に戻っているということは、私が縛られていたのではなく、このお守りが鬼のことを縛ってくれていたのかもしれませんねぇ」

 真備はその言葉に微笑むと、小さな花達を小袋に戻し、大切に大切に袖に入れた。

「なら、もう大丈夫だな。これがある限り、きっと俺も守られてる」

 真備が珍しく無邪気な笑顔を見せた。昔から微笑みはするものの、子供のように笑うことは少なかった。もちろん、それは仲麻呂の前でも同じである。初めて見る真備の表情に仲麻呂は不意をつかれたようだった。しかし柔く目を細めると、直ぐに同じような笑顔を浮かべた。


「おーい、そろそろ行くぞ」


 突然の声に顔をあげれば、先程玄昉と名乗っていた僧が手を振っている。真備はそれに苦笑すると、改めて仲麻呂に向き直った。

「じゃあ、行ってくるぞ。絶対にお前を迎えに来るから、それまでに排斥されたり処刑されたりすんなよ」

「嫌ですねぇ。貴方こそ、ちゃんと遣唐大使や副使になれるくらいの大物になってくださいね。貴方のお迎えを待ってますから。ずっと、ずっと待ってます」

 最後の言葉を紡いだ時、楽しげな笑顔は寂しげな笑みに変わっていた。真備も一瞬つられかけるが、ぴんと背筋を伸ばして気を引き締める。

 大丈夫。絶対にまた会える。そう強く信じることが、今の真備にとって精一杯の別れの挨拶だった。

 真備は仲麻呂を強く見つめると、続けて横にいた王維と儲光羲に目を向ける。

「王維さんと儲光羲さんもありがとうございました」

「あはは、こちらこそ貴重な体験が出来たよ。ありがとね。晁衡のことは僕らに任せてよ、ちゃんとヘマしないか見張っとくからさ。ね? 儲光羲?」

「そうだな。晁衡のことはしっかり見張っとくよ。真備さんもお気をつけて。またいつか会いましょうね」

「ちょっと! 何で私がお二人に見張られることになってるんですか。私はそんなヘマやらかしませんよ」

 からかうように紡がれた言葉に、仲麻呂はどこか膨れて眉を寄せた。こうした唐の日常も見納めだと思うと、三人が愛おしくて仕方がなくなった。


 しかし、真備は真備の役目を果たさなければならない。遣唐留学生として日本に帰り、知識と技術を国に捧げる。そしていつかは大きくなって、再びこの唐の地へと舞い戻るのだ。その時は、留学生ではなく正式な遣唐使として。同様に大物になっているであろう目の前の友を、今度こそ日本に迎え入れるために······。

 そんな未来予想図が必ず実現するとは限らない。これから二人が歩む道に何が待っているのか、そんなことは誰にも分からないのだ。

 しかし、真備や仲麻呂が今を生きていることは確かであり、彼らに何かしらの未来が待ち伏せていることも確かである。ならばそれを成し遂げてみせようではないか。今、己が描く未来を実現してみせようではないか。それが、帰国を目の前にした真備の新たな目標となった。


 別れを惜しむ洛陽の空は高々と天へ透き通り、昇ったばかりの白い朝日が東の彼方に輝いていた。真備は光を真っ直ぐに見つめ、これから歩む長い旅路に思いを馳せる。背中は真っ直ぐに伸び、雄々しい影を落としていた。

 ──お前はここで、俺は日本で。

 いつか仲麻呂と誓った約束。それは真備の心に爛々と輝き、澄んだ瞳に光を灯した。

 唐で成した様々な冒険。唐で成した数々の出会い。それが胸に蘇り、心の奥底に刻み込まれる。

 彼が見つめる東の果てでは一体何が待ち受けているのだろう。小さな小さな不安でさえも、今は胸のたかぶりに変わる。日本を担う幾人もの背中が、高揚した光に力強く対峙していた。


 さぁ、時は来た。今こそ朝日を目指す時である。


 一際高い掛け声がかかり、観衆達がわっと沸き立つ。日の出に映える洛陽の門が、今 力強く開け放たれた。




 -吉備大臣入唐物語・完-








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