幕開け 2

「一言でいうと生きるため、ですかね」

 首を傾げた真備を見て、仲麻呂はそっと目を伏せた。そして何かを懐かしむかのように微笑むと、静かな声で語り始める。

「私も以前、貴方と同じようにこの高楼に閉じ込められました。閉じ込めたのは貴方の時と同じ人達です。もちろん扉には鍵がかけられ、外に出ることを許されませんでした。最初はここを脱出しようだとか、助けを求めようだとか色々考えたりもしたのですが、何せ食べ物を与えてもらえなかったので次第に飢えていきました。そして空腹のあまり動けなくなり、声さえも出せなくなった。もうここで死ぬのだとそう悟りました。でも······でも、私はまだ死にたくなかった」

 彼ははっきりとした声で言い放った。今までと同じ、低くしわがれた物の怪の声。しかし真備は確かに、確かに聞いたのだ。その声の中に、凛とした美しい声が混じっていたのを。そして真備は考えた。きっとそれが彼の······物の怪ではない阿倍仲麻呂の声なのだと。

「私の一族は、下手すれば藤原家に押さえつけられてしまう立ち位置にいます。そんな状況だから、一族は唐に渡ることになった私に期待していたのです。快く唐へ渡る私を見送ってくれたのです。そして唐へ来てからも才のない私を認めてくれた人がいた。それが皇帝陛下でした」

 真備はその言葉に目を見開く。そして何故彼の名を忘れていたのか。それを全て理解した。


 彼は科挙に合格した後、皇帝陛下の目にとまり校書という仕事を任された。それを聞いて当時の真備は焦った。やはり彼には追いつけないのだと悟り、自分が惨めに思えてきたのだ。きっと趙玄黙のあの言葉は、彼が真備のことを過大評価しすぎたことによる不可能な現実なのだと、そう思った。

 だから、真備は忘れようとした。彼の名も、辛い悔しさも全て忘れようと······。

 そして、いつしか本当に忘れてしまっていたのだ。いや、もしかしたら本能的に思い出すまいとしていたのかもしれない。


 そんな風に考えて、真備は改めて仲麻呂を見つめた。しかし今は、不思議と彼を憎いとは思わなかった。いや、思えなかった。

 それは、彼に親しみを感じてしまったからかもしれない。彼もここに閉じ込められ、自分と同じ寂しさを感じていたのだと思うと、どうしても恨むことなど出来なかった。

「しかし、まだ主上にご恩を返せていません。私を支えてくれた唐の方々にも感謝を伝えきれていません。日本にも唐にも心残りがあるまま死ぬなど、絶対にしたくはありませんでした。だから必死に祈りました。どうか、どうかこの心が晴れるまでは、生きることを許してくれないかと。すると急に眠くなってそのまま眠ってしまったのです。そして目を覚ましたら不思議なことに空腹感が全くなく、いつもより体が重かった。それでふと、自分の手を見たら······」

 彼は当時を再現するかのようにおもむろに自らの手のひらを見つめた。そして困ったように笑ってみせる。

「そこには赤黒い肌に鋭い爪が光る大きな化け物の手があったのです。そして顔まで恐ろしい物の怪になっていました。どうやら命が一時的に保たれた代わりに人ならざる体になってしまったようです」

 彼は苦笑したまま目を伏せる。そんな彼の笑顔を見て、真備は仲麻呂に体を近づけるとそっと赤黒い手に触れてみた。当の仲麻呂は突然のことに驚いてぱっと顔を上げる。

「ほんとだ。生きてるんだなお前。ちゃんと温かい」

 一瞬息をのむと、仲麻呂は真備を見ながら可笑しそうに笑った。

「真備さんは面白い方ですね。まぁせっかく延ばされた命ですしゆっくり人間に戻る方法を探したいと思います」

「戻れるのか?」

「ええ。しかしその方法はまだ分かりません。なるべく早く見つけて元の生活に戻りたいですが······」

 真備は情が湧いてしまったようだった。どうも心が合うのだ。単に同じ境遇といえばそれまでなのだが、それ以上に、何か心を動かすものがあった。

「なら俺も手伝うよ」

「え?」

 仲麻呂は突然のことに驚いたようだった。しかししばらくして意味を飲み込んだのか、慌てて真備を止めに入る。

「で、でも······」

「なんだ、いいじゃないか。お前がわざわざ食べ物持ってきてくれたのは俺がお前みたいに飢えないようにだろ? そのお返しさ」

「しかしいつ戻れるか分からないのでは貴方の人生に支障がでましょう」

「それでもいいさ。戻れたら戻れたで元の生活をすればいいし、いつまでもそれが見つからなかったのなら俺も飢えて鬼になろう」

 仲麻呂は目を見開いた。期待と葛藤がせめぎ合うような不安を乗せ、ただただ真備を真っ直ぐに見つめる。しかし真備の言葉に強い決意を感じたのか、止めるにも止められずに口を閉じてしまった。そんな彼を見て真備は笑う。

「お前は優しいな。俺が鬼になるのがそんなに嫌か?」

「だって······この体じゃ無意識のうちに人を襲おうとしてしまうこともあるんですよ? ほんとに怖かったんです、あの時。私、私の後に閉じ込められた人を傷つけたんです。幸い命を奪う前に我にかえることが出来ましたが、本当に自分が恐ろしかった。そんな体験を貴方にしてほしくありません!」

 彼の剣幕に真備は一瞬尻込みした。しかし幼子を見守る兄のように、瞬時に優しく微笑んでみせた。

「なら元の生活に戻るほかないじゃないか。絶対に貴方を人間に戻す方法を見つけよう。そして······」

 そこで仲麻呂を見つめると、真備は彼の肩にそっと手を置いた。信頼し合う友と友がそうするように······。

「一緒に帰ろう。懐かしい故郷に」

 そう言って真備はにこやかに笑う。そんな言葉に、仲麻呂は驚いて真備を見つめた。それは思いがけない言葉だったのだろう。鬼になってから初めてかけられた言葉だったのだろう。彼は泣きそうに笑いながら、大きく大きく頷いた。


 閉じ込められた遣唐使と赤鬼になった遣唐使。二つの日本の希望の星は、趙玄黙の言った通り良き友としてここに決意を固めた。

 そしてここから、彼らの奇想天外な攻防劇が幕を開けるのであった。



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