幕開け 1


「すみません、真備さん。仲麻呂です」

 突然聞こえた声に、仰向けで回想にふけっていた真備は慌てて体を起こした。どうやら高楼の外から聞こえてくるようであったので、「入っていいぞ」と声をかける。

 するとどうやって鍵を開けたのか、おもむろに扉が開き赤黒い鬼が現れた。相変わらず衣冠を身につけているその物の怪は、真備に促されるがままに正面に座ると軽く裾を整える。そんな彼をマジマジと見つめ、真備は小さく眉を寄せた。


 あれほど対抗心を燃やし、親近感を抱いていたはずの彼の名を、何故忘れてしまっていたのか。それがとても不思議だった。自分はずっとその姿を、その名を追い求めていたはずなのだ。趙玄黙の言葉を聞いたあの日からずっと。

 真備は静かに目を閉じる。黙ってばかりだったからか、仲麻呂は不思議そうに首を傾げた。

「どこか体調が悪いのですか?」

「いや、そういうわけでは······そういや何の用だったんだ?」

「ああ」

 仲麻呂は今思い出したかのように言うと、背負っていた風呂敷を広げる。そこにあったのは、笹の葉に包まれた二つの握り飯と竹筒に入れられた水であった。

「昨日から何も食べていないでしょう?」

 仲麻呂は肩をすくめるように微笑んだ。

「恐らく明日の朝、唐の役人が貴方の様子を見に来るでしょう。軽い食事は持ってくるとは思いますが、それでは今日の腹は満たされません。それに······」

 そこで目線を上げた仲麻呂であったが、握り飯を見たまま固まっている真備を見て思わず口を閉じた。その事にも気づいていないのか、真備は何かを見定めるかのようにずっと視線を動かさない。

「大丈夫ですよ、毒などは盛っておりません。まぁ私のことが信用ならないというのなら、仕方ないですが······」

 不審がられていると思ったのか、仲麻呂は苦笑するように微笑んだ。しかしそういうわけでもないらしい。真備は「いや」と呟くとおもむろに顔をあげる。

「別にお前のことを疑っているわけじゃない。ただ、何故ここまで尽くしてくれるものかと」

 仲麻呂は一瞬目を丸くした。予想し得ない答えだったようだ。彼は楽しそうに目を細めると、「ふふふ」と可笑しそうに笑ってみせる。

「それはこちらの台詞ですね。では、なぜ貴方は鬼の顔をした私にここまで心を開いてくれるのですか?」

 今度は真備が目を丸くする番だった。「お互い様でしょう」と笑う仲麻呂を見て、一拍おいてからつられたように吹き出した。

 まだ出会って二日しか経っていないというのに、まるで昔なじみのように心を許してしまっている。そんな自分に気がついて、真備はますます可笑しくなった。何故かは分からない。一度笑ってしまったら最後、何でもかんでも面白く思えてしまった。ここまで笑ったのは唐に来てから初めてかもしれない。

 しばらく二人で笑い合うと、真備は目元を指で抑えながらゆっくりと呼吸を整える。そして可笑しそうな顔をしている仲麻呂を見つめると、優しく微笑んで握り飯に手を伸ばした。

「有難く頂くよ」

 そう言って握り飯を食べた真備だったが、その直後、目を丸くして思わず「美味しい」と感嘆の声を漏らす。握り飯はまだ温かく、口に入れるといとも簡単にふんわりと崩れた。きっと雲を食べたらこのような心地がするのだろう。しかしそれだけ柔らかいのに、何故か手に持っている間は決して形を崩すことはない。

 昨日から何も食べていなかった真備は、一言も喋らずに平らげる。そして二つ目の握り飯に目を向けた時、ふと仲麻呂のことを見上げた。

「そういや、お前は食べなくていいのか?」

 仲麻呂は不意をつかれたような顔をした。しかし寂しげに微笑むと、そっと首を横に振る。

「今の私は物の怪ですので食べなくても平気です」

 真備は竹筒の水を一口飲むと、何かをためらうような素振りをみせる。そしてしばらく考え込んだ後、「なあ」とおもむろに口を開いた。

「前に聞きそびれたんだが、お前はなぜ鬼になったんだ?」

 もう陽は落ちたのか、高楼の下から涼やかな虫の音が聞こえてきた。鈴のような音色の中、仲麻呂は驚いて黙っていたものの、しばらくして溶け込むように口を開いた。















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