西の都の朧月


 一体どれほどの遣唐使が無事に長安ちょうあんへ辿り着いたのだろうか。当時の遣唐使は最盛期を迎えており、万葉集にて「よつのふね」と呼ばれるように四隻の船で唐を目指した。真備達の第九次遣唐使は総勢五百名以上もの人がその四隻の船に乗っていたという。しかし、荒く長い航海のうちにバラバラになってしまうことがほとんどで、四隻の船が同時かつ無事に往復するなど難しい話であった。

 そんな中、真備が乗っていた船は無事に長安へ辿り着くことが出来た。長安とは唐の都であり、現在の西安しーあん市にあたる都市である。そこはシルクロードによって様々な国から物や人が集う、正真正銘の大国際都市であった。

 日本の平城京や平安京の元ともなった、碁盤の目のように走る縦横の道。様々な言葉でごった返す大きな市場。当時の富が全て詰まっているかのような華やかさは、唐が世界の中心といっても過言ではないほどのもの。

 そんな西の都の四門学にて、真備は同じ遣唐留学生達と共に経書や史書などを学んでいた。元々努力家であった真備は頭一つ分飛び抜け、それらを的確に身につけていった。


 その日も、理解出来なかった部分を質問しようと師である趙玄黙ちょうげんもくの元へ足を運んだ。彼は四門助教という立ち位置で、真備らに基礎教育を施していた。真備は廊下の角を曲がったところで彼の背中を見つけ、これ幸いと名前を呼ぶ。呼び止められた彼は驚いた様子で振り返ったものの、真備の顔をみとめて優しく微笑んだ。

「おお、どうした」

「質問したいことがあるのですが、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

 彼はもちろん、と言いたげな様子だった。厳しいところもあるが、異国人の訛り混じりの唐語にも懇切丁寧に応えてくれる人だった。

「相変わらずそなたの学問に対する志は凄いものじゃな」

質問に丹念に答えたあと、趙玄黙は真備を嬉しそうに見つめる。しかし真備としてはこれが当たり前だと思っていた。学問をするために来たのだから、それ以外は二の次だ。それが真備が生真面目だと言われる所以なのだろうが、本人がそれに気づくことは無かった。

趙玄黙はうんうんと満足そうに頷くと、「我が教え子の中でこれほど早く学問を身につけたものはお前とあいつくらいだからな」と腕を組む。真備は「あいつ?」と首を捻った。同じ場で学んでいる仲間の顔をいくつか思い浮かべたが、一体誰のことなのか全く見当がつかない。皆優秀なのは理解しているが、飛び抜けて確信を得るような人は見つからなかった。

「なんだ、心当たりはないのか?」

趙玄黙が目を細める。

「科挙を受けるとかなんとかで今注目を集めていると思うがな。ああ、でも彼は日本での位がそなたより高いから太学にいるんだった」

科挙だと? 咄嗟に呑み込めず目を丸くしたが、趙玄黙は待ってくれる気配がない。講義の時間が近づいてきたのか、これで最後と言いたげに人差し指を立ててみせた。

「まぁ、お前達二人は顔を合わせることもあろう。そしてきっと良き宿敵であり良き友になろう。そうだな。二人ほどの実力があれば、ここではなく皇帝陛下のおわす朝廷にて」

 期待をこめた眼差しで微笑むと、彼は真備の肩をぽんぽんと叩いて廊下の奥へと消えてしまう。彼の背中を見つめながら、真備は眉を顰めてただただ首を捻った。

 宿敵だなんて······そのようなもの考えたことがなかった。真備にとって、学問や書物は一人でのめり込める存在である。だからそれらが好きなのだ。他人に干渉されず、己の理解を深めることが出来る。それが学問の良さではないのか。わざわざ競い合うものではない。学びは自己の中で咀嚼すれば良い。

 講義へと急ぐ学生たちが廊下を駆け抜けていく。真備には、趙玄黙の言葉を理解することが出来なかった。


 それからしばらく月日は流れ、真備はいつものように四門学の廊下を歩いていた。朝の柔らかい日差しが差し込む中、まだ虚ろげな瞳で大きくあくびをする。昨夜は本に夢中になりすぎてしまった。眠くならなければ良いが······などと考えていたが、何やら廊下が騒がしいことに気がついて首を捻る。一体何事だろう。

 辺りをきょろきょろと見回したその時、突然後ろから名前を呼ばれて飛び上がりそうになった。そこにいたのは真備と共に経書や史書を専門に学んでいた白猪真成しらいのまなりという学友である。彼は頬を染めて興奮気味に近づくと、「おい聞いたか!?」と真備の肩を叩いた。

「何をだよ」

 テンションの高さに押され、真備は呆れたような目を向ける。しかし本人は全く気づいていないらしく、まるで馬や犬のように息を弾ませながら意気揚々と口を開いた。

「太学にいる日本人の留学生があの科挙かきょに合格したらしいぞ!」

「はぁ、科挙? 日本人が?」

 真備は信じられないというように眉を寄せる。

 科挙とは隋の時代から中国に存在する官僚登用試験で、言わば国家公務員になるための国家試験である。受験者は精神的にも身体的にも辛い環境の中で試験を受けなければならず、試験内容も知識を問われるだけではない。題に沿った詩をつくる問題から容姿や立ち振る舞いまで、あらゆる項目で事細かにチェックされる。そして二次試験のうち、特に進士科という科はエリートコースで最難関とされていた。

 今話題になっている日本の留学生は、なんとその進士科に合格したというのだ。その合格率はたったの数パーセントと言われている。そう考えるとまさに信じ難い話である。真備は目を細めると、目の前で熱を上げている真成を疑わしそうに見やった。

「だって唐から見れば俺らは異国人だぞ? 唐の賢人でもめったに受からない試験に日本の留学生なんて······」

 この真成は少々話を盛る癖があった。嘘の情報に一喜一憂することも日常茶飯事である。それゆえ真備は疑ったのだが、一方の真成は「そうなんだよ!」と一人楽しげに頷いてみせた。

「国籍や身分を問わず、平等に人を見極める試験だからこそっ! それに受かったってのは本当に力がある証拠だよ! ああ、彼はもう出世確定なんだろうなぁ」

 真成は羨ましそうな目で空を見つめる。しかし彼とは対称的に、真備は何かを考え込むような顔で黙り込んでいた。

 太学にいる日本の留学生が科挙に合格? なんだか似たような単語を聞いたような気がしたのだ。しばらく顎に手を当てて考え込んでいた真備だったが、ふと趙玄黙の言葉を思い出してハッとする。

──そなたの良き宿敵であり、良き友になろう。

 まさか、と思った。その瞬間、真備は真成に礼を言うと慌てて廊下を駆け始める。あまりもの剣幕に、置き去りにされた真成は目をぱちくりと瞬かせていた。

 まだ朝方だと言うのにびっくりするほど足が回った。しかしそんな速さで走っていても、廊下に溢れる噂話がどんどんと耳に入ってくる。

「なんでも日本にいる時から既に一族きっての秀才で······」

「どの分野においても点数が高かったらしいぞ」

「しかも、男も女も思わず見とれてしまうほどの美男子だとか······ほら、日本での送別の宴でも、船上でも噂になっていた······」

「年齢はたかだか二十歳前後であろうよ。来た当時はまだ十六だか十七ではなかったか? それなのに科挙とは」

 次々と入り込む言葉が予想を確かなものにする。しかしそれと同時に真備は焦っていた。彼はきっとその人だ。いずれ良きライバルになろうと言っていた、あの!

 趙玄黙の元へ辿り着いた時にはすっかり息が切れていた。彼は驚いたように真備を見たが、すぐに部屋に招き入れてくれた。

「どうしたそんなに急いで。まだ講義は始まらんぞ」

 しかし、真備には彼の言葉など届いていない。つかつかと彼の前まで来ると、真備は恐る恐る口を開いた。

「科挙に合格したとして話題になっているのはもしかして······」

 趙玄黙は「やはりそう来たか」と言いたげに微笑んだ。真備を真っ直ぐに見つめると、「ああそうだ」と頷いてみせる。

「いつかそなたに話してやった人だよ。先を越されたと思って焦っているのかい?」

 その言葉に真備はそっと目を伏せた。そしてゆっくりと首を横に振ってみせる。

焦っているわけではないのだ。ただ、予想を遥かに超える彼の実力に怖気付いてしまっただけ。なぜ趙玄黙は自分と彼が対等な力を持っているかのように話したのだろう。自分には、科挙に受かるほどの実力も勇気もない。

そう伝えれば、趙玄黙はゆっくりと息を吐いた。まるで呆れたような仕草だったが、すぐに優しく笑って真備の肩に触れる。

「何も科挙という目に見える称号だけが実力ではない」

趙玄黙は真備を見上げる。

「確かに彼にかなわぬ部分は多いが、逆に彼がそなたにかなわぬ所もある。互いにそれを補えばいいのじゃ。そうすることで、そなたら二人は日本国の希望となろう」

 真備は思わず顔をあげた。そこには柔らかな瞳でこちらを見つめる趙玄黙の笑顔があった。そこに懐かしい父母の眼差しを見た気がして、真備は静かに眉をゆるめる。不思議と心が落ち着く声音だった。彼につられて微笑むと真備の肩から手が離される。そしてぽんぽんと背中が叩かれた。

「期待しておるぞ? 新たな時代を切り開く若人よ」

 真備は力強い瞳で彼を見つめる。そしてはっきりと返事をした。その一声から志を読み取ったのか、趙玄黙はうんうんと満足そうに頷いた。誠に良い師を持ったと思った。

 しかし部屋を出る直前、あることに気がついて振り返る。そういえば、とても大切なことを聞き忘れていた。

「あの、その人の名前はなんというのですか?」

趙玄黙は「おや」と軽快に肩を揺らす。

「なんだ。まだ知らなかったのか?」

「はい。恥ずかしながら······」

「まぁお前らしくて安心した。そうだな、確か彼は君と同じ船に乗っていたはずだ。調べようと思えばすぐ見つかるとは思うが、せっかくだから私が教えよう」

 強さをました朝日の中で、趙玄黙は真備を真っ直ぐに見つめた。その面白がるような微笑みに、真備も思わず背筋をのばす。

 やっとその人の名を聞ける。ずっと心の片隅で、無意識のうちにその存在を意識していた彼の名を。聡明であると聞きながら、春の夜の朧月のように姿が霞む我が親友の名を。

 少しもったいぶると、趙玄黙はこう口を動かした。廊下から聞こえる賑やかな声にも負けぬ、はっきりとした響きだった。

「阿倍仲麻呂。それがそなたの生涯の友となろう、その人じゃ」








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