第〇・五章「月下美人」

夢の虚ろの月下美人



 虫の音が聞こえる。草の香りを含んだ冷たい夜風を感じる。ここは高楼の中なのだ。鮮明に透き通る虫の音も、月明かりに溶ける夜風も耳をくすぐるはずがないのに。


 そう思って真備はそっと目を開けた。どうやら、まだ草木も眠る真夜中のようだ。違和感からか、眠たげな目で体を起こした真備であったが、先ほどまで横にいたはずの仲麻呂がいないことに気がついてさらに首を捻る。手を取り合おうと約束したばかりのあの友は、確かに真備の横で眠りについていたはずだ。どこかへ出かけたのだろうかと思い、特に気に止めることなく真備が大きく欠伸をしようとした、その時であった。

 再び真備の黒髪を冷たい夜風が揺らした。どうやら高楼の入り口から吹いてくるようだったので、誰かが侵入してきたのではないかと思い、静かに身構える。そして覚悟を決めると一気にそちらへ顔を向けた。


 しかしそちらを向いた直後、思わず固まってしまった。鍵がかかっていたはずの高楼の扉が何故か開いており、見慣れぬ一つの人影があったのだ。けれどもその人は全く動きを見せない。真備が目覚めたことに気がついていないのか、淡い月明かりの中で無心に天を仰いでいる。

 肩を少し越すほどの髪は、水に濡れているかのように艶やかだが、同時にふわりと広がるような柔らかさも持っている。白い肌は優しい月明かりに溶け込むように透き通り、少し垂れ気味な目元を見ると、長いまつ毛の奥に隠れた黒い瞳は曇りがないほど清く澄んでいた。

 その美しく儚げな横顔に、真備は思わず一瞬見とれてしまった。しかし慌てて気を取り戻すと、その人の様子を窺い始める。

 その容姿から女性だとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。よく見てみると、首元には喉仏があり着ている衣服も男性のものであったのだ。

 真備は不審がりながらもしばらく彼を見つめてみる。しかし一向にこちらへ気づく様子はない。真備は気づかぬふりをしようとも思ったが、一度気になってしまったらもうそれ以外考えられなくなる。真備はそんな人であった。

「······おい」

 相当驚いたらしく、彼は大きく肩を震わせると勢いよくこちらに顔を向けた。しかしその顔を見て真備はまたもや口を閉じてしまった。先程の横顔も美しかったが、正面から見てもなかなかの美人である。遣隋使や遣唐使といった遣使は、外交の花形とあってか容姿が整った者が多い。そのため真備も船上や四文学にて美男子を目にすることも多かった。

 しかし、そんなキリッとした美しさとはまた違う。そう、ちょうど高楼に降り注ぐ清やかな月明かりのような······そんな儚く柔らかな美しさが彼にはあった。

 彼は白い光に照らされて目を丸くしていたが、やがて形の良い眉を寄せながら下を向く。どこか瞳が泳いでいるようにも見えた。そのまま何かを考え込むように俯いていたが、しばらくしてふっと息を吐くと、突然真備の方へ右手を伸ばしてきた。

 一体なんなんだと真備は身構える。しかし次の瞬間、自らの身に起こったことに驚愕し、思わず息をのんだ。

(動かない······!)

 彼が手をかざした瞬間、まるで石になってしまったかのように身動ぎひとつ出来なくなった。その突然の出来事に、普段冷静な真備でさえ鼓動が高く跳ねるのを感じた。真備の焦りを見てとったのか、彼は口を噤んだまま右手を下ろす。しかし真備の体が自由になることはなかった。

 彼は一体何をしたのか。真備は必死に抗おうとしたが、それも無駄なことであった。どうあがこうが喚こうが、今の彼に出来ることと言えば、息をすることと瞬きをすること、たったのそれだけである。

 彼はそんな真備をじっと見つめていたが、しばらくするとついにその足を動かした。そしてあろう事か、ゆっくりゆっくりと真備の方に近づいてきたではないか。

 真備は思わず息を止めた。虫の声も風の音も聞こえない。ただ、彼が歩く度にさらりと鳴る衣擦れの音だけが、真備の耳にこだました。まるで人形のように端正な顔が、ますます真備の不安と恐怖を煽った。自然と額に冷たい汗が滲んだ。

「······」

 彼は遂に真備の目の前までやってくる。月明かりを背に、逆光で黒く染まった彼の顔が静かに真備を見下ろした。

 それはまるで物の怪のようであった。こちらを呑み込みかねない異様な雰囲気に、真備はすっかり気圧されてしまう。しかしそれに気づいているのかいないのか、彼は真備の目の前にしゃがみこむと右手をこちらへ近づける。しかしそこまで近づかれても、真備にはただただ彼の妖美な瞳を見つめることしか出来なかった。

 伸ばした右手を背にまわすと、彼は何故か首を固定するかのように真備の頭をしっかりと支えた。そして少々体勢を整えると、今度は左手をそっと真備の顔にのばす。

 もはや真備の心は恐怖さえ通り越してしまっている。しかしそんな不安の中でも、頭に触れている彼の手の温もりだけはしっかりと真備の心まで届き、彼が生きている人間だということを告げた。

 それと同時に、真備はさらにあることに気がついて己の目を疑った。

 彼が微笑んでいたのだ。しかし、それは恐怖心を弄んで楽しんでいるというような笑みではない。どこか罪悪感に囚われているかのような、とても儚く寂しげな笑みであった。


 彼は左手で真備の瞳を覆う。その時、ふわりと何かの香りが真備の鼻をくすぐった。優しくも力強い、そんな心地のよい花の香り。真備は覚えのあるその香りに、そっと瞼を閉じる。


 そうだ、この香りは······懐かしい奈良の都に咲いていた······。

 名前は確か、「鬼縛り」。


 そう思った瞬間、真備の意識がふっと遠のいた。まるで暖かな日差しが運んできたかのような、穏やかで心地の良い眠気。その時にはあの恐怖も不安もなくなっていた。まるで魔法のようであった。

「おやすみなさい、また明日······」

 最後に真備の耳に届いたのは、どこかで聞いたことのあるような、凛とした美しい声。それが聞こえた気がしたと思うやいなや、真備の意識は優しい花の香りにのまれていった。








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