第一章「文選」
文選 1
「······きびさん、真備さん! 起きてください! 」
誰かに名を呼ばれて真備は目を覚ました。どうやら寝てしまっていたらしい。まぶたを開けると人ならざる物の怪の顔があり、思わず「わっ!」と飛び起きる。
「な、なんだ仲麻呂か。びっくりした」
「すみません、確かに怖いですねこんな顔じゃ」
彼はそう言って可笑しそうに笑う。
ここに閉じ込められてから今日で三日目。開け放たれた扉から白く爽やかな風が舞い込む。高楼の中はもうすっかり朝の光で溢れていた。
仲麻呂につられて肩を揺らした真備であったが、ふと昨夜のことが頭に蘇って笑いを止めた。こうやって何気ない会話をしていると、あの奇妙な出来事が夢のように思えてくる。
「そういやお前、昨日の夜いなかっただろ」
「えっ、真備さん寝ていなかったのですか?」
意外そうな顔をする仲麻呂に、どこまで言おうか少々悩んだ。しかし迷った末に、「いや」と口を開く。
「たまたま夜中に起きちゃってな。そしたらお前いなかったから······」
寝不足かと心配していた仲麻呂だったが、真備の答えを聞いて安心したらしい。「なんだそうなんですか」と微笑んだ後、「実はですね」と声の色を落とした。
「昨夜、高楼の周りに誰かの足音と気配がしたもので······ちょっと様子を見に行ってたんです」
困り顔をした仲麻呂の言葉に、真備はハッと記憶が蘇る。もしや、仲麻呂が言う誰かとはあの男ではなかろうか。
美しい男を見なかったか、と真剣な表情で問いかけると、仲麻呂は「いえ、特に誰も······」と些か不思議そうに首を振った。
やはりあれは夢だったのだろうか。仲麻呂が嘘をついている様子はない。しかしあの甘い香りを思い出して、昨日の記憶が頭に渦巻く。夢ならば、あれほど鮮明に花の香りがするだろうか。
「なぁ······お前は鬼縛りって花知ってるか?」
「何ですか? 突然」
仲麻呂は唐突な問いに首を傾げた。しかし直ぐに背筋を伸ばすと、「もちろん知ってますよ」と微笑んでみせた。
「
ペラペラと紡がれた言葉に不意をつかれた。そこまでの答えが返ってくるとは思っていなかった。
「やけに詳しいな、お前」
真備が感嘆の声を上げると、仲麻呂は一瞬動きを止めた。しかししばらくして肩をゆるめると、「母が花好きだったもので」と寂しそうに微笑む。
これは良くない質問をした。仲麻呂の瞳に一瞬儚げな光が点った気がして、真備は思わず口を閉じた。彼に遠い故郷のことを思い出させてしまっただろうか。そう考えると少々心が痛んだ。
真備は彼の瞳から目をそらすと、わざと声を明るくした。
「そういやお前、やけにしつこく俺のこと起こしてたみたいだったけど······」
「あっ! そうですそうです! 大切なことを忘れるところでした!」
仲麻呂は何かを思い出したのか、慌てて真備に駆け寄った。あまりの勢いに、真備はきょとんと固まってしまう。しかしそれに気づいているのかいないのか、仲麻呂は焦ったように口を開いた。
「もうすぐここへ使者が来ます」
「使者?」
「ええ、あなたを閉じ込めた人達の手下です」
「ああ、お前が昨日言っていたやつか」
仲麻呂は真剣な表情でまっすぐに真備を見つめた。そこにある光が剣呑を含んでいるようで、真備は心の奥に不安が燻った。
「貴方がまだ生きていることが知れてしまいます。さすれば、彼らは新たな策を立て始めるでしょう」
「策? 何のだ」
首を捻った真備に対し、仲麻呂は複雑な表情を浮かべる。そして真備の方へ身を乗り出すと、やや低く落ち着いた声でこう言った。
「貴方を朝廷から遠ざけるための策です。そしてあわよくば社会的に抹殺······いえ、いずれほんとうに命を奪いにでるかもしれません」
思いがけない事の重さに真備は思わず息を飲んだ。命を奪われるだと? 自分はそれほどのことを成した覚えはない。
「彼らは貴方が表舞台に出るのを全力で阻止するでしょう。そのために数々の難題を仕掛けてくるはず。そう、例えば······」
その時であった。仲麻呂は急に口を噤むと、勢いよく後ろを振り返る。そして何かを見定めるかのように高楼の扉の方を見つめると、囁くような声で口を開いた。
「来ました。あの人達の使者です」
その言葉に真備も素早く身構える。一瞬の動きを背中で感じ取ったのか、仲麻呂は深く険しい······それこそ、文字通りの鬼の形相で扉を見つめた。
「大丈夫。まだ命が狙われることはないでしょう。危害を加えられることもないはずです。ただ、私がこの空間にいるのはまずい。一度高楼の裏手に隠れますから、何かあればお呼びください」
仲麻呂は真備の方を振り返り、勇気づけるかのように微笑む。そして訳の分からない真備を他所に、相変わらず鬼に似合わぬ美しい所作で立ち上がると、そっと高楼の裏手に回った。
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