手紙
年が明けるまであと半月。真備は清々しい気持ちなど微塵もないまま自分の部屋で書物を眺めていた。勉学が生きがいであった真備にとって、書物を読むことは何よりの楽しみだった。唐に来たのだって、たくさん書物を読み、たくさんの書物を日本に持ち帰ることを目的にしていたのである。
しかしながら、最近はそんな書物を眺めてもどうも心が踊らない。窓の外の掻き曇った冬空のように、もやもやとした黒い塊が胸の内に渦巻いているようだ。
正直、仲麻呂が本当に唐に残りたがっているのかどうかは半信半疑だった。今までの言動を見ていると彼の望郷の想いは本気であるように思えるのだが、そうなるとなぜ彼が唐に残ろうとするのかが分からなくなる。
少し前までは王維が何か話したげにチラチラと視線を寄越していたのだが、それも最近は無くなってしまった。彼は真備と仲麻呂に全てを託すことにしたのだろう。
しかしながら真備は結局仲麻呂に帰国の話題を切り出せていない。真実を話そうとしない彼をどう見れば良いのか分からないまま、結局ここまで来てしまったのだ。
机に広げただけの書物を眺めたまま、真備は一つため息をつく。もうすっかり冬になってしまったためか、心がどんよりとして落ち着かない。真備は一度気持ちを入れ替えようと、上着を羽織ってしんと冷えた野外に足を向けた。
空模様を見ると今にも雪が降り出しそうな具合である。この長安という都は、夏は暑く冬は寒い。しかし、空気が乾燥しているためか冬でも晴れることの方が多かった。そのため、こんな曇り空の日は久しぶりのように感じる。
真備が疲れたように息を吐けば、それは白く霞んで冬風に消える。そうして少し頭を冷やそうと伸びをしたところで、突然背後から声がかかった。
「真備さん、ちょうど良かった!」
振り向けば、寒さで鼻を赤くした
「少しお話したいことがあるのですが、お時間大丈夫ですか?」
その言葉に首を傾げたものの、真備も拒む理由などないので室内へと案内する。今二人がいるのは日本人留学生のために設けられた学生寮だ。とりあえず管理人に客人を招き入れる許可をもらい、二人は真備の居室へと足を運ぶ。すると扉を開けた途端、儲光羲の視界に広がったのは圧巻の光景だった。
数えきれないほどの書物の山。決して広くはない個室に所狭しと様々な書物が並べられている。それはまるで小さな小さな図書館のようだった。
「これ、全部真備さんが?」
思わず儲光羲が尋ねれば、真備は特に自慢することも無く「ああ」と言って部屋を見渡す。
「日本に持って帰ろうと思いまして。入唐した直後からずっと書物を集めてるんです」
儲光羲は彼の秀才ぶりを知っていたものの、ここまでの書を読み尽くす人間がいることに驚きを隠せなかった。そもそもこんなに大量の書物を積んで船が沈んだりしないものか。日本の遣唐使船はそこそこしっかりしているようだが、あれだけの人と献上品を載せた船にさらにこの書物が載ると思うとさすがに儲光羲も心配になってくる。
そう思って苦笑しつつも、真備に促されて書物に囲まれた椅子に座った。
「で、お話なんですが、あと数日経ったら洛陽に移らねばならないという話は聞いていますよね?」
「ああ、先日
真備を含めた先の遣唐留学生達にも皇帝陛下が洛陽に移るという話は伝えられていた。既に唐に到着している第十次遣唐使達は長安には来ず洛陽を目指すため、帰国を願う留学生は自ら洛陽に移るようにとの
その旨を話すと、儲光羲は「うんうん」と首を縦に振った。
「真備さんはそのまま韋景先殿に従って洛陽へお下りください。恐らくあちらに着けば韋景先殿から改めて指示があるでしょう。それに従って頂ければ日本へ帰国出来るかと。そして、晁衡......阿倍仲麻呂殿も洛陽へ行くこととなるでしょうが、こちらは皇帝陛下に付き従う形となりますから真備さんとは行動が別になると思っていてください。恐らくそれは王維殿も同じでしょう」
儲光羲は出されたお茶を一口飲む。ほっと一息ついた彼であったが、「しかし」と呟いて目線を落とした。
「そうなれば気にかかるのが
その言葉に眉を寄せる。真備も心配していたのだ。留学生達が一斉に洛陽に移るとなると、一体誰が彼の看病をするのか。真成も共に洛陽に移れるのならよいが、冬の寒さによってますます衰弱した彼にそんな長旅は不可能だ。彼の唐の友人が頼りになれば良いが、恐らくほとんどが朝廷の官吏であり、皇帝陛下と共に洛陽に赴くのだろう。そう考えて、真備はいっそのこと洛陽に移ることを延期しようかとも考えていたところだ。
顔をゆがめた真備であったが、直ぐにその心配は消えることとなる。不安そうな素振りを見せた真備に対し、儲光羲が安心しろと言わんばかりに笑顔を見せてこう言ったのだ。
「ですが大丈夫ですよ。彼のことは私が面倒を見ます」
「······え?」
真備は思わず目を丸くした。すると儲光羲は優しげな笑顔を浮かべて言う。
「井真成殿の病状が悪化したと聞いてから、どうにか彼の看病のために長安に残りたいと主上にお願いしていたのです。私のような身分ではなかなか無理もありましたが、王維殿や晁衡殿の手助けもあってどうにか納得して頂けました。そのため、朝廷のことはお二人に任せて私は長安に残ることにします。井真成殿の病状が回復するまでは、全力で彼の手助けを致しましょう」
自ら皇帝陛下に頼み込んでまで、見ず知らずの異国人の看病をしてくれるのか。仕事にも影響が出るだろうによくもまぁ無理をしたものだ。ここ最近仕事が忙しいと言っていたのはこの事も関係していたのだろう。
そんな儲光羲に心を打たれて、真備はしばらく言葉も出なかった。ただただ彼の手を握って何度も頭を下げ続けた。高楼に閉じ込められていた時は「こんな国」などと考えたこともあったが、やはりこれだけの大国になると心優しい青年も沢山いるらしい。真備は差し伸べられた温かい手を一生忘れまいと心に誓った。
こうして何度もお礼を言って儲光羲を見送ろうとしたのだが、学生寮を出たところで儲光羲は何やら自らの懐を探り始めた。そこから一つの木簡を取り出すと、そっと真備の方へと差し出す。
「これ、晁衡殿からです」
受け取った木簡には、確かに仲麻呂の字体で何やら文字が書いてあった。真備にそれを渡すと、儲光羲は眉をひそめながら笑う。
「彼のことについて色々納得できないところはあるかもしれませんが、どうか話だけは聞いてやって欲しいのです」
儲光羲は「私からもお願いです」と頭を下げた。咄嗟のことに真備は何も答えられずにいたが、儲光羲はその間にも顔を上げて白い息を吐く。
「では、真備殿が洛陽へ行かれる際にはお見送りさせてください。今日はありがとうございました」
そう言い残して帰ってしまった儲光羲の後ろ姿を真備はしばらく眺めていた。何故ここまで自分達に尽くしてくれるのか。それがいまいちよく分からなかったのだ。
そう首を捻りながらも、真備は先程渡された木簡に目を落とす。そこに書かれた言葉を見て一瞬眉を上げると、失くさないようにと懐に仕舞った。
使い古した木簡の中央、そこには久しぶりに見る日本語で、たった一言、こう書かれていたのだ。
──明日、暮れの太鼓が鳴り響く頃、再びあの高楼で。
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