華の都
久しぶりに訪れた高楼は、あの日と変わらず深い闇の中にあった。夜空を見上げてのぼるハシゴは、足を進めるごとにギシリと揺れる。そんな変わらぬ風景にどこか懐かしさを感じていた真備であったが、ハシゴをのぼりきったところで目を丸くした。
普段は閉まっていたはずの高楼の扉が開いていたのだ。まるで真備を誘うかのようにその両手を広げている。
もう仲麻呂は来ているのだろうか。そう思って高楼の中を覗いたが誰もいない。月明かりに和らぐ一部屋分の闇があるばかりだ。人影などどこにも見えない。
真備は首を捻りながらも闇の先へと進んだ。仲麻呂の名を呼びながら高楼の奥の壁際へと足を進める。すると、突然小さな小さな笑い声がした。それは夜風に騒ぐ木の葉の音に紛れていて、下手をすれば聞き漏らしてしまいそうなほどに小さなもの。真備は聞き間違いかと思いながら恐る恐る声のした物陰を覗き込んでみる。すると、そこに座っていた一人の人物と目が合った。
「こんな気持ちだったんですね、あの日の真備さんは」
そこにいた男はくすくすと笑った。彼は真備が初めて赤鬼に出会った時に隠れていたのと同じ物陰から立ち上がると、真備のことを真っ直ぐに見据える。
「嬉しいです。伝言通りここに来ていただけて」
そういうと、その男······仲麻呂はどこか寂しげな笑みで言った。
「少しお話しませんか? きっとこれがこの高楼に居座れる最後の夜です」
扉の方へと向かう仲麻呂に、真備は何も言えぬまま従った。仲麻呂は開かれた高楼の扉に手を添えると、輝く長安の街を見下ろして足を止める。
「懐かしいですねぇ。どうせならもっと空を飛んでおけば良かった。こんなに美しい都を一望出来るだなんて、人間になった今では出来ないことですよ」
温かな灯火が蛍のように揺らめいている長安の街は、仲麻呂の黒い瞳にきらりと輝く。灯火が広がる宵の空には、欠け始めた白い月が浮かんでいた。そんな月を見上げながら、仲麻呂は何かを濁すかのように思い出話を紡ぐ。
しかし、真備が相槌を打つことは無かった。どう答えて良いのか分からず、ただただ仲麻呂を見つめて佇んでいる。するとそれに気づいたのか、仲麻呂は思い出を語るのをやめた。そして、形の良い眉を寂しそうに下げてみせる。
「私だって、帰りたくないわけではないんですよ」
先程までとは違う静かな声だった。無理にはぐらかそうという意志も見えない。そんな、夜露に溶ける虫の音のような落ち着いた声。
それでもって呟くと、仲麻呂は悲しげな笑みで真備を見つめた。振り返った彼の輪郭が都の光にぼやけて淡く透ける。
「結果として、貴方との約束を破ってしまいましたね。本当にすみませんでした。恨むならいくらでも恨んでください。貴方に恨まれる覚悟はもう出来ています」
仲麻呂の表情にはどこか諦めのような切なさがあった。しかしどこか迷うように眉を寄せた後、「でも······」と言葉を続ける。
「でも、私が唐に残ることになった理由は言えません。心から信頼する貴方にも······それこそ、このように街と隔離された二人きりの高楼の中でも決して口を割ることは出来ない。それだけ大きな力が働いているのです。察してください」
そう言葉を吐いて、仲麻呂は淡い唇を噛んだ。伏せられた睫毛に隠れた瞳は波に揺れるようで定めがつかない。
真備はそんな彼を見て視線を下げた。頑なに理由を話そうとしない仲麻呂の言葉を聞いて、彼の後ろにある何者かの影に気がついたのだ。それが誰なのかはまだ分からなかったが、自分達にはどうにもならない強い影なのだという事実は心が察していた。
だから、真備は苦笑を浮かべると仲麻呂の横に進み出た。彼の横に並んで、彼と同じように長安の街を見下ろしてみる。
「······分かった。お前が俺のこと嫌いになっていないのならそれでいいや」
それは呆れているようで、不思議な温かさを含んだ声だった。仲麻呂はパッと顔を上げて真備を見つめる。ずっと前を向いていた真備も仲麻呂の方へと視線を向けた。そして、眉を下げながら笑ってみせる。
「お前に嫌われたのかと思ったぞ。何か理由があるならそれでいいんだ。お前はお前らしく生きればいい。俺はそのためにお前を助けたんだ。お前はやりたいことをやれ」
真備はにこりと笑って仲麻呂の背中を叩く。その励ましのような手の温もりに、仲麻呂は一度目を丸くした後、くすぐったそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ございます。本当に、私は貴方に励まされてばかりだ」
はにかんだ仲麻呂は、「私らしく生きる」と真備の言葉を繰り返し咀嚼すると、何か納得したかのようにはにかみを明るい笑みに変える。そして真備の方に顔を向けると、「なら······」と言って言葉を続けた。
「なら、私はいつか必ず貴方に追いつきます。今はまだ帰れませんが、私もいつかは日本に帰りたい」
そう言った仲麻呂の瞳は輝いていた。街の灯火が反射していたわけではない、彼の内側から漏れてくるような光が確かにそこにあったのだ。
真備は不意をつかれた。その輝きは月のようで、それでいて太陽のようでもあった。明るい光に応えるように、「よし」と言って仲麻呂の肩を抱く。そしてポンポンと肩を叩くと、負けじと輝く笑みを浮かべた。
「分かった。ならお前が日本に帰る時には、俺が迎えに来てやろう」
仲麻呂は思いがけない言葉に真備の顔をきょとんと見つめた。対する真備は面白そうに笑って自信に満ち溢れた言葉を紡ぐ。
「俺は空を飛んだ男だぞ。海なんて何度だって越えてやるさ」
飄々とそう言ってみせた真備に、仲麻呂は思わず吹き出した。「あはは」と楽しそうに声を上げて、溢れた涙を指で掬ってみせる。それはどこか安堵に包まれていて、それでいて淡い照れくささも混ざっていた。
「これは飛んだ友人を持ってしまいましたねぇ」
「友人じゃないぞ、親友さ」
「へぇ、これは大胆なことをおっしゃる。でもね、それだけじゃありませんよ?」
仲麻呂は肩に置かれていた真備の手を外して真正面に立ってみせる。そして、真備より一回り小さな身体でこちらを見上げると、自信に満ち溢れた瞳で笑みを浮かべた。
「今日から貴方と私は
そう言いきった仲麻呂に、真備は面白そうに吹き出した。
「いいぞいいぞ、上等だ」
そんなことを言って、潤んだ目頭を指でおさえる。
「お前はここで、俺は日本で。結構なことじゃないか。二十年後、お前に会うのを楽しみにしてるよ」
「ふふ、その時には私も貴方もいいおじさんですよ。大丈夫なんですか? その歳で船に揺られて」
「心配すんなよ。ちゃんと鍛えておくからさ。お前こそ、唐で贅沢して豚みたいになるなよ」
「ひどいですねぇ、大丈夫ですよ。貴方に負けないよう沢山働きますから」
「そうかそうか、それは楽しみだ」
真備が目を細めると、二人はどちらともなく笑いだした。結局何度すれ違えども、最後にはこんな笑い話に収まってしまうのだろう。彼らの瞳には、これまでの不安や焦りが嘘のように、煌々と輝く未来が見えていた。それは夜空に霞みまだはっきりとは見えないが、確かに白く柔らかく光っていたのだ。遠い遠い星のようで、手を伸ばせば届きそうな光でもある。だからこそ、彼らは誓い合った。いつかまた、この華の都で再会することを。
ひときしり笑った後、二人はこれまでの冒険や故郷の話を引っ張り出しては再び肩を揺らした。もうすっかり冬に包まれた長安はキンと冷えるが、星空に伸びる小さな高楼は柔らかな灯火のように暖かかった。
街に輝く人の営みは星が降り交う夜空に溶けゆき、その煌めきを月が見下ろす。それは何も語らないが、確かに広大な大地を等しく優しく照らしていたのだ。
しかし、そんな都ともしばしの別れ。二人はもうすぐ洛陽に移る。だからそれを惜しむかのように、二人は夜が明けるまで語り合った。
最高の友と出会い、共に駆け抜けた冒険の日々。その舞台となったこの西の都は、きっと生涯忘れることは無いだろう。広大な敷地に異国の香り。星が落ちたかのように輝かしい街の光は、世界の中心なるこの都を生き生きと夜闇に浮かび上がらせている。
そしてここ長安の対となる都······あの月の先にある東の都・洛陽には、待ち焦がれた日本の若き青年達がいる。そこに辿り着くのも、もはやたった一寸先の未来の話だ。
高揚を心に秘めながら、二人はかつて駆け抜けた長安の夜空を共に寄り添って眺め続けた。光り輝く瞳に、どこかこの都との別れを惜しむ哀愁があったのも間違いない。
二人が出会った小さな高楼。そこは幾度となく笑い合い、すれ違い、再び手を取り合った二人の友情の結晶だ。もう、訪れることはないであろうこの場所で、二人は最後の夜を共に明かした。いや、二人の話が尽きることなく、気がついたら朝になっていたと言った方が正しいか。
何はともあれ、長安の繁華街を遠くに望むこの場所で、二人は美しい景色を分かちあった。そして、思い出が詰まった小さな一部屋で、彼らは華の都に温かな別れを告げたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます