詩仙


 仲麻呂が真成の元へと見舞いに行っていた頃、王維は一人小さな食事処にいた。あれから仲麻呂と真備は和解をしていないようである。しかしながら、格別に仲違いをしているという風でもない。ただ、二人の会話がどこかぎこちなく、かつての信頼や友情が薄れてしまったかのように見えるのは確かだった。

 正直、二人を急かしてしまった王維も責任感や罪悪感のようなものを感じていた。あの時もっと冷静になっていたら、という後悔がずっと胸の中に渦巻いている。王維は性格上、このような後悔は何度も感じてきたはずなのだ。それなのに同じ過ちを繰り返すとは。

 最近俗世から離れたいなどと考えている割には、自分はまだまだ人間なのだ。生々しい人間の鼓動が胸に宿っている。それこそ最愛の妻が亡くなった時は本気で出家を考えていたものだったが、あの時周りに止められていて正解だったのかもしれない。自分は俗世を離れるにはまだまだ未熟すぎるのだろう。


 そのようなことを考えながら、王維は小窓を覗いて雨に霞む長安の街を見下ろす。きっとあと数日もすればこの雨は雪へと変わるのだろう。長安の冬は凍えるように寒いのだ。

 冷えた身体を温めるように王維は熱い茶をすすった。池に墨を垂らしたかのごとく、じんわりと温もりが身体全体に広がってゆく。そうしてほっと一息ついたところで、突然テーブルの向かいの席に誰かが座った。こんなに席が空いているのに何故相席なのかと訝しげにそちらに目を向けた王維は、そこにいた人物を見てあっと声をあげる。

「また君かい、李白」

 そこにいたのはすらりとした図体の男。李白と呼ばれたその男は、その声を受けて面倒くさそうに淡い緑色の目を細めた。

「またってなんだよ、帰れってか?」

「別にそんなこと言ってないでしょ。何、何か用?」

「いや、暇だから酌付き合えよ」

 ドカッと酒と盃を置いて笑う李白に、王維は「僕今お酒飲んでないんだけど」と小窓の外に視線を戻す。相変わらず冷たい雨だ。それを目で追う王維のことはお構いなしに追加の酒を注文して頬杖をついた李白であったが、何も喋ろうとしない王維をじっと見つめて眉を寄せる。

「何だ? しけた顔してんな」

 やたらと絡んでくる李白が面倒くさいのか、王維ははじめうんともすんとも言わなかった。しかしずっと凝視してくる李白の視線が鬱陶しいらしく、お茶をひとくち口に含んで再びため息をつく。

「······別に何でもないよ。もう年も暮れるから仕事が忙しいだけ」

「あっそ。どうせお前のことだ。また変におせっかい焼いて失敗でもしたんだろ」

 王維は不機嫌そうに眉を寄せる。相変わらず黙って横を向いたままだったが、それは言葉よりも明確な返事であった。それで図星だと分かったのか、李白は呆れたように手元の酒を盃に注ぐ。

「ったくよぉ、すーぐ余計なことするんだよなぁ。お前は母親かっての」

 李白はまたいつものように言い返されるのだろうと思い、叱られる前にと盃の酒を一気にあおった。強い酒の香りが鼻を抜けるが、名立たる酒豪の李白にとってはこの程度の酒などどうってことはない。たかだか水のようなものである。

 しかし李白が酒を飲み込もうとも顔を上げようとも王維は口を開かなかった。それを不審に思ったのか、普段は盃を持ったら意地でも離さないはずの李白が盃をテーブルに置いた。

「何だ、マジでやばいのか?」

 普段の王維なら李白の小言や戯れを軽くあしらったり説教をして聞かせたりなど、嫌になるほどの仕返しをしてくるのだが、今日の彼は黙ったまま眉を寄せて小窓の外を眺めるばかりだ。何やら相当気が落ち込んでいるらしい。

 李白は一つ大きなため息をつく。そして王維の視線とは反対側······食堂の一階へと続く階段の方を見つめながら静かに口を開いた。

「何があったかは知らねぇけどよ」

 突然声のトーンを落とした李白を、やっとのことで王維が一瞥する。李白は視線に気づいているのかいないのか、王維の方を見ることはなかった。彼のどこか霞んでいながらもよく通る低い声が、雨の日の暗がりに凛と広がり反響する。

「お前は人を知ろうとしないくせに人を愛そうとする。それじゃあ失敗するのも当たり前だよなぁ。人間ってのはお前が考えてるほど甘くないぜ?」

 李白は再び盃を持つと、新たな酒を注いで一口飲み下す。そんなことをしているから喉が焼けて声が霞むのだろうが、その霞みがかった声だからこそ、言葉は雨音によく馴染んだ。

「お前の作品を見ていれば分かる。詩だろうが絵画だろうが、お前はいつも人間を隅に描く。大抵の場合は脇役さ。まぁ、それは自然を中心に持ってくるお前の作風だからいいけどよ、きっとお前は人間がいつも自然の一部でしかない思ってるんだろ。だがそうはいかない。人間はな、意志が強いんだ」

 王維は何も言わなかった。ただ李白の声に耳を傾け、その言葉を聞こうとしている。しかし、彼の視線の向きは変わっていた。先ほどまでは李白の方をちらりと見るだけだったが、今はじっと李白の瞳を見つめている。李白は軽い笑みを向けると、心底楽しそうな声音で目を細めた。

「人間ってのはお前が思ってる以上に面白いぞ、思ってもみないことを突然やる。酸いも甘いも一筋縄ではいかない。そのやっかいさはお前が大好きな自然も一緒だが、あれには意志がない。重てぇ水は昇らねぇんだ。しかしながら人間は自分勝手だからな、太陽が西から東に動くかのような規則外なことを平気でやってのけるんだ。馬鹿だと笑われるような夢を平気で抱き、あり得ないような愚行もする。それが面白いんだぜ。だから人間の妄想にかかれば落ちるはずの滝だって天に昇るんだ。天の川に注ぐかの如くな」

 李白はそう言ってまた新たな酒に手を出した。新鮮な香りに鼻を躍らせ一気にそれを胃に流す。これではさらに肝の臓を悪くするばかりだろう。

 しかし、その時の王維は李白を蔑まなかった。むしろ感銘を受けていた。ああ、やはり彼は人間の生命を描く詩人だ。そう思った。


 彼が描く人間はいつだって輝きに溢れている。それがたとえ悲しみや苦しみの詩だったとしても、そこには確かに命の灯火がある。彼は杜甫のように社会に生きる人間は描かない。王維のように自然に生きる人間も描かない。彼は人間として生きる人間を描くのだ。人間の喜怒哀楽、その面白可笑しい生命を生き生きと描く。それが彼のやり方であり、彼の楽しみなのだろう。

 しかし、そのくせ彼自身は浮世離れした仙人などと呼ばれている。本人も「自分は謫仙人だ」などと笑って言う。人間臭いようで仙人のように変わっている。彼は人間に焦がれる仙人なのだろう。それに対して、王維は仏を夢見る人間でしかない。


 だからこそ、王維は彼に問いかけた。人間たる人間を知る詩仙に。変わっているようで、根は真面目で優しい友人に。

「じゃあ、どうすればいいのさ、その不規則で掴めない人間をあるべき方向へと導くには······」

 李白は眉をあげた。盃に口をつけたまま、にやりと笑って頬杖を解く。

「そんなのただ眺めてりゃあいいさ。何もせず、のんびりと観察してやればいい。人間が自ら進もうとした方向。それがあるべき方向さ。どんな獣道でも大通りでも、それがそいつの選んだ道。あとは笑って見送ってやんな。押してダメなら引いてみろってんだ。お前は押すだけ押して引かないから変に失敗するんだよ。大体あの左遷だってなぁ、お前が変に部下をかばったからとばっちり受けて僻地に飛ばされたんじゃねぇか。自業自得だわ」

 ケラケラと笑う李白に、王維は口を曲げる。そしてため息をついてぽつりと言った。

「君にだけは自業自得って言葉言われたくないね」

「おい、どういう意味だそれ」

 李白の問いに答えることもなく、王維は「べっつにぃ」と冷めかけたお茶をひとくち口に運ぶ。しかしその表情からは、重苦しい雨雲は消えていた。

 小窓の外は相変わらず雨だが、そこに霞む長安の街は明るい輝きに満ちていた。まるで全てが洗い流されたかのように、柔らかい光に包まれている。

「おい、答えろよ」と喚く李白を軽くあしらって、王維は再び街を見下ろした。

 そんないつも通りの彼を見ながら、李白は口につけた盃の陰でこっそりと微笑んだのだった。




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