西方の天子 2



「朝衡は······朕と日本、どちらを重んじていると考える?」

 王維は何故かドキリとした。李隆基が自分を呼び止めたのは朝衡に関しての事だろうと勘づいてはいたが、そんな質問を投げられるとは夢にも思っていなかった。しかし王維の戸惑いなど知ってか知らずか、彼は追い込みをかける。

なんじは朝衡と親しいそうではないか」

 ──いくら親しいとはいえそんなもの。

 王維はぎゅっと眉を寄せる。そんなもの、分かるはずないではないか。彼は······朝衡は忠実な臣下だ。唐に対しても、日本に対しても、真摯な心で仕えている。そのどちらに重きを置いているかなど王維には全く分からなかった。

 しかしその質問を聞いた時、ふと王維の脳裏にかつての朝衡の顔が思い浮かんだ。それは、あの囲碁の対局の後、二人で酒を飲んでいた時のものである。

 あの時、彼は日本の未来を語った。明るい言葉で希望を込めた、輝かしい日本の未来だ。

 しかし、あの時の晁衡は寂しそうだった。王維はずっと不思議に思っていた。何故明るい未来を語った彼があんなに寂しそうな顔をしていたのか。しかし今の李隆基の顔を見て、王維はやっと、やっと分かった気がした。何故彼があんな顔をしていたのかが。

 二つの国に仕えることは、見方によっては罪になる。

 王維は初めてそのことに気がついた。遣唐使は日本の天皇の代わりとして海を渡ってくる。つまりは日本のために学び、日本のために帰国し、日本のためにその知識を役立てなければならない。それなのに、今の晁衡は唐にも仕えている。唐のためにも学び、唐のためにも尽力している。

 それは視点によっては大逆罪となるのではないか。二つの主君に仕えることは忠義心の薄さの現れではないか。それは場合によっては片方を······いや、両方を見捨てることになりはしまいか。


 それを晁衡は分かっていたのだろう。分かっていながら李隆基に仕えたのだろう。彼が月を見る度に見せる寂しそうな微笑みは、ただの郷愁の念だけから来るものではなく、罪の意識も含まれていたのではなかろうか。

 真剣な顔で黙り込んでしまった王維に、李隆基は「いや、いいんだ」と言って柔らかく微笑みかける。

「朕も分かっているのだよ。彼が日本人であることは」

 そう言って顔をあげたものの、「ただ」と勿体ぶったように言葉を続けた。

「もうすぐ新たな日本の遣唐使がやって来ると聞いたものでね。朝衡やあの真備という日本人もその船で帰る予定になっているらしい」

 王維は思わず顔を上げた。それは初めて聞く話だ。李隆基は目を閉じると、しばらく何かを考え込むかのように黙する。それは久しぶりに見る意欲的な表情であった。かつての、民を思い、民に尽くそうと必死に努力していたあの頃の······まるで若々しさが蘇ったようだ。

 そして李隆基は目を開く。どこかまだ悩んでいながらも、自分の意志をはっきりと持っているような、そんな澄んだ瞳であった。

「朕は······」

 王維は李隆基をちらりと見る。すると次の瞬間、彼は思いがけない言葉を口にした。


「朕は朝衡を日本へ帰したくない」

「えっ」


 思わずあげてしまった驚きの声に王維は慌てて顔を下げる。皇帝が口にする願望形は、時には命令形にもなりうるものだ。つまり······。


 ──主上は晁衡を帰さないと仰った。


 王維はそれに気づいて恐る恐る口を開く。

「恐れながら、それは一体どのような理由で······」

 ずっと黙っていた王維の言葉に、李隆基はしばし静寂をつくった後に口を開いた。

「彼には朝廷の中でも大切な仕事を任せている。もちろん、この国の重要な情報も多く知っているであろう。そんな彼を日本に帰すのは······」

 李隆基は一度口を噤んだ。確かに国家機密を知っているかもしれぬ人物を国外へ出すのはあまり賢くない。しかしどうやらそれは建前に過ぎないようであった。

 彼はしばらく迷うような素振りを見せた後、「いや、汝には素直に言っておこう」と寂しそうな表情を作る。

「朕は彼を手放すのが惜しくてならぬのだ。彼には国の情勢を見極める力がある。目がある。例え表立ってはおらずとも、彼は確かにこの国になくてはならぬ存在ではないかと思うのだ。朕が太陽なれば、彼は月ではないかと思うのだ。しかし、朕は決して彼を特別扱いしたいわけではない。わけではないが······彼の実力は確かに群を抜いている。彼には今少しこの国に留まってもらい、朕を陰から支えてほしいのだ」

 そう語ると、王維に向かって「これは他言無用じゃ。それにこれは朝衡が帰ってきてくれたらの話だがな」と笑いかける。

 王維はその笑み対し、複雑な思いで頭を下げた。李隆基が朝衡を無下にしていないと分かったことについては安心したが、日本に帰れぬということが彼にとって幸になるのか不幸になるのか分からなかったからだ。


 しかしどちらにせよ、まずは晁衡に人間に戻って貰わなくてはならない。

 王維はそう思いながら李隆基の元を離れた。空を見あげれば、分厚い雲がかかっているようで月や星の光一つも見えない。


 どうか、どうか明後日が雲と月の入り混じる夜でありますように。

 そう心の中で呟くと、王維は宮殿を後にした。












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