三・五章「西方の天子」
西方の天子 1
「······はぁ」
突然聞こえた溜息に、王維はチラリとそちらに目を向けた。そこでは、唐の現皇帝である
しかしどういうわけか、先程から彼はずっとこんな様子であった。いつも威厳のあるオーラを出している彼にしては珍しい。
真備の試験の件でお疲れなのだろうかと思い、王維は首を捻った。真備の噂はその場に居合わせていなかった王維の元にも届いていた。朝廷内がその話題で持ちきりになる中、王維は用があって李隆基のもとを訪ね、用が済んだので退出しようとした。しかし、どういうわけなのか李隆基がそれを拒んだ。
そもそも王維は十九歳で科挙に合格してからその才能をかわれて朝廷に仕え始め、そこそこ注目を浴びていた。しかしその後一度だけ朝廷を離れ、つい今年に復帰したばかりであった。
というのもそれは約十年前、彼が朝廷に仕え始めてわずか一年余りの時に、その才能を疎まれたのかほぼこじつけのような難癖を付けられて済州司倉参軍に左遷されたのだ。それをきっかけに王維は朝廷を離れ、六年ほどしてから長安に戻ったのだが、そのすぐ後に愛する妻に先立たれ、およそ三十歳という若さで隠棲し始めた。
しかししばらくして、才能を知る多くの士人達から朝廷への復帰を願われ、再び返り咲くこととなる。今は皇帝の政治に進言する役目を負う右拾遺に任命されていた。
今回も政策の件で玄宗の元を訪ねたのだが、普段から彼に近づいているわけではない。逆に李隆基も王維のことを信頼はしているが、李林甫といった側近達のように退出を拒むほど親しいわけでもなかった。
だからこそ、現在王維は戸惑ったように李隆基の脇に留まっている。ただでさえ呼び止められたことが不思議であるのに、先程から彼は決して言葉を発しようとしない。その代わりに時々疲れたように重いため息ばかりついている。
王維は思い切ってちらりと彼の顔を拝見した。本来であれば臣下が意味もなく皇帝の顔を見るなど不敬にあたること。しかしあまりにも沈黙が続くので、王維としてもそろそろ彼の顔色をうかがわずにはいられなかったのだ。
見上げたその顔はどこか疲労に満ちていた。彼は後に開元の治と称されるような、唐史上一番とも言える平和な治世をもたらした偉大な皇帝である。そのためか、数年前まではもっと
それは老いかとも思ったが、まだ政治に支障をきたすほどの高齢ではない。ならばなぜ彼が怠惰になり始めたのか。
まぁ、李林甫の影響だろう。
王維は視線を床に戻すと心の中で呟いた。どうも李林甫が台頭してきてから李隆基の輝きが失われ始めた気がしてならないのだ。恐らく彼がお得意の甘言で、李隆基がずっと心にしまい込んでいた娯楽に対する欲求を引き出し、政治への関心を薄めようと画策しているのだろう。
そうすれば益々自分が政治を仕切ることができるからだ。政治を面倒くさがり始めた皇帝の元に政治の心得がある頼もしい宰相が現れる。それは皇帝にとってなんと都合の良いことだろう。そうなればもちろん皇帝は宰相に仕事を丸投げして道楽にふける。李林甫の狙いはそれだと見えた。
しかし、それでは被害を被る者もいる。それこそが政治に忠実な臣下達であった。彼らは宰相の独裁を止めるため皇帝に進言する。しかし、もう既に政治に興味を失っている皇帝は自分の娯楽を邪魔する彼らを鬱陶しく思って遠ざけ、逆に好き勝手させてくれる宰相をますます寵愛する。それを受けて、宰相が真面目な臣下達に無実の罪でもきせて左遷させてやれば、皇帝も鬱陶しさが消えて喜ぶ。こうしてさらなる独裁が進むのだ。
まぁ、この時の唐は幸いそこまで酷い状態には陥っていない。いや、まだ陥り始めたばかりだったと言った方が正しいか。
この後、李林甫の台頭がさらに強まるのに加え、李隆基の元に
もちろんそんな未来の事をこの時の王維が知っているはずもなかった。しかしその予兆は確かに感じていたらしい。
その勘の根拠となるものこそが、仲麻呂······いや唐でいう
今まで悪い騒ぎなど起こしたことも無く、李隆基への忠義心も人一倍強かった彼のことだ。異国人とはいえもちろん人望もあった。しかし、そんな彼が何も言わずにいきなり朝廷から姿を消したものだから、官僚達も怒るに怒れずこそこそと噂話ばかりしていた。
──彼は悪党か何かに攫われたのではないか。
──実は彼は日本からの
などなど、失踪当時は様々な憶測が飛び交っていたがそれも次第におさまっていった。というのも、李隆基があまり騒ぎ立てなかったのである。
当時、いや今現在もであるが、政治の中心に立っているのは李林甫率いる門閥系。二ヶ月とはいわずここ一年ほどは科挙系の役人達が表へ出てくることはまずなかった。そのためとりあえずはバタバタと朝衡の行方を探さずとも政治はまわる。むしろ李林甫が甘やかしてくれる今は、玄宗にとって自分を咎めかねない科挙系の人間が減ることは苦痛ではなかった。そのためか、朝衡が消えてからも数週間は玄宗は全く動かなかった。
だが······。
──朝衡は
ある時、李隆基はぽつりとそんな事を零した。それは、たまたま王維を含め科挙系の人間しか周りにいなかった時のことである。
ちょうど朝衡失踪事件の衝撃が和らぎ始めた頃であったので、唐突な呟きにその場にいた全員が驚いて手を止めた。しかしそれに気づいていたのか否か、彼はどこか遠い目で王維達を見つめると再び呟いた。
「今更なのは分かっておる。しかし、汝らでどうか朝衡を探してきてはくれまいか?」
王維達は戸惑って顔を見合わせた記憶がある。今まで気にする素振りも見せなかった彼が突然晁衡の捜索を命じてきたからだ。
やはり何だかんだで、晁衡は主上に愛されていて、一目置かれていたのではないか。
王維はその日のことを思い出してふとそう思った。確かに李隆基が朝衡に位を与えた当初は、彼もさほど興味はなかったのだろう。
たまたま科挙に合格した日本人がいた。そして彼を朝廷に取り入れれば、異国人をも優遇する懐の深い皇帝、心の広い国だということを周囲の国々に示すことが出来る。その時の李隆基にとって、朝衡の朝廷入りはそれが目的であり、彼は利用できる駒にしかすぎなかったのだろう。
しかし、朝衡が与えられた仕事をこなせばこなすほど、彼と関われば関わるほど、李隆基の朝衡に対する視線は変わってきたように思えた。
朝衡にはどこか人を惹きつける魅力がある。頭脳明晰で機転が利き、美麗で冷静で争いを好まぬ異国人。そんな不思議な魅力が官僚達に限らず皇帝である李隆基をも次第に惹き付けていったのだろう。異国人にしてはかなり早い出世であった。
確かに最近は李林甫の影響で政治に飽き始めたからなのか、李隆基は以前ほど朝衡に重きを置いていなかった。しかし一度知った彼の魅力はなかなか抜けなかったのだろう。さすがにひと月も姿を見せなかったので、李隆基もどこか漠然とした寂しさを感じ始めていたようであった。だからあの時、王維達科挙系の人間に対して朝衡の捜索願いを出したのだろうか。
王維がそんな事を考えていると、ふと李隆基が視線をこちらに向ける気配がした。それに王維が気がつくやいなや、彼は王維の名を呼んだ。今までこんなにピンポイントで名を呼ばれたことがなかったので、王維は思わず背筋を伸ばす。そしてその呼びかけに返事をすると、李隆基はあの時のようにぽつりと呟いた。
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