野馬台詩 7




 その話は本当なのか、まるで信じ難い。

 いや、しかし······から聞かされた話が真実だと証明できるのかと問われればそれも不可能だ。

 李林甫の話が本当ならあの赤鬼は一体何者になる。今まで自分は誰と話し、誰と過ごしていたことになる。


 定まらない思考に吐き気がした。冷たい汗が背中を伝う。もう自分が地面に立っているのかさえ分からなかった。何なのだ。結局彼は何を伝えたいのだ。

 真備が心を悩ます横で、李林甫はそっと目頭を袖で抑えた。

「それ以来、あの高楼に阿倍仲麻呂を名乗る鬼が出るというのです。私達はそれを確かめるために、新羅から来た優秀な僧侶を高楼に送りました。しかしその日の真夜中、彼が血に染まる腕を抑えながら怒鳴り込みにきたのです。高楼で鬼に襲われた、と」

 真備はあっと声を上げそうになった。文選を盗み聞いていた時に聞いた話と、李林甫の話が一致したからである。

「その鬼は一体何者なのですか?」

 衝撃の反動なのか否か、思わず口を開いていた。李林甫は視線を下げると、ゆっくりと息をついた。

「占い師に占わせてみたところ、その鬼こそがかねてから噂になっていた日本水軍の亡霊だと言うのです。どうやらその亡霊は高楼の傍で阿倍仲麻呂を殺し、彼の名と屍を借りることで自分を仲麻呂だと偽り、相手を油断させ、高楼の中に踏み入って人を喰らおうとしているらしいのです」

 あれが仲麻呂を騙る正真正銘の人喰い鬼であったとでも言うのか。大体その占い師の腕は確かなのか。

 あまりもの衝撃に上手く思考が定まらない。聞きたいことはたくさんあったが、真備はたったひとつだけ、疑問を口にすることにした。

「ならば······」

 李林甫がそっと視線をあげる。

「ならば、何故私を高楼に閉じ込めた」

 李林甫は再び俯いて、懺悔ざんげするかのように縮こまる。

「鬼が白村江時の日本水軍の亡霊であるならば、当時と同じように唐と敵対関係にある日本人には手を差し伸べるのではないかと考えたからです。確かに我々が優秀な貴方様を妬んでいたのも事実。貴方様が鬼に喰われるのではないかという期待もございましたが、国の官僚として先決すべきなのは私利私欲ではなく亡霊のことでございましょう。我々が貴方様に無理難題を押し付ければ、貴方様は我々、つまり唐と敵対することになります。それならば、日本のために唐と戦い死んだ亡霊は唐に妬まれた同郷の貴方に同情し、姿を現すのではないかと思いまして。貴方様を囮に使ったというのは、そういうことでございます」

「なるほどな。それは確かに賢い考えだ。しかし、ではどうしてその亡霊は仲麻呂を殺した。彼も俺と同じ日本人であろう。その亡霊が同郷の者に同情するような魂ならば仲麻呂を殺すことはないのではないか?」

 いつの間にか真備は李林甫を責め、問い詰めるような口調になっていた。真備の気が高ぶっていたからという理由もあるが、それだけではない。やけに李林甫の腰が低くなっていたのだ。真備に敬意を示し、萎縮したように顔を強ばらせる今の李林甫は、唐の高級官僚とは到底思えないような物腰をしている。これまで真備を嘲笑っていた彼とは大違いだ。李林甫は、その質問についても目線を下げながら答えた。

「それは、彼が我々に協力するために高楼へ渡ったからでございましょう。彼が日本人だったとはいえ······いや、彼が日本人だったからこそ、唐を憎む亡霊にとって、仲麻呂殿が唐側に立ったことが癪に触ったのではないかと。さらに彼が、亡霊の主君であったであろう日本水軍将軍阿倍比羅夫の孫ならば尚更」

 一理通っている。

 真備は李林甫の言葉を思わず真実だと信じてしまいそうになった。それだけ彼の口調や表情が真剣だったのである。仲麻呂······だったのかは定かでないが、今まであの赤鬼から聞いた話と照らし合わせるととても信じ難い話ではある。しかし仲麻呂の出自や新羅の僧の件など、真備が今まで耳にした真実と一致する点も多い。さらに李林甫があまりにも嘆くので、この時の真備には彼が嘘をついているとは到底思えなかった。

 衝撃から放心したかのように突っ立っていると、李林甫は顔をあげて涙ながらに真備を見つめた。

「どうかお気をつけ下さいませ。これは我々からの警告でございます。貴方様と出会ってから、奴は何も食べておりません。鬼とはいえそろそろ空腹の限界だろうと占い師は言っておりました。あの物の怪に喰われる前にお逃げください。もう、あの高楼に閉じ込めるようなことはしませんゆえ、どうか、どうかお逃げください」

 真剣な表情で頭を下げた李林甫に見送られ、真備はふらふらと足元のおぼつかない様子で宮殿を後にした。思えば、真備が食べ物を進めた時にあの赤鬼はそれを拒んだ。それは彼が人肉を好む鬼であったからではないのだろうか。

 いや、それだけではない。真備が今まで感じていた彼への疑問がこの時一気に胸に湧き上がってきた。


 なぜ彼は突然自分の元から遠ざかり始めたのだ。

 なぜその理由を曖昧な言葉で濁して話そうとしなかったのだ。

 そして、なぜ李林甫との出会いや高楼に閉じ込められた時の経緯を教えてくれなかったのだろう。


 真備は信じたくなかった。彼が阿倍仲麻呂などではない、ただの人喰い鬼であるなど考えたくもなかった。しかし、それに反して頭は次々と疑惑を並べ立てる。真備はそれを振り払うかのように走った。彼がいるであろう宮殿の裏側へ。


 きっと彼は阿倍仲麻呂だ。

 人喰い鬼などではない、正真正銘の阿倍仲麻呂だ。


 そう自分に言い聞かせ続けた。広い宮殿の裏にまわるにはここから相当の距離がある。その間、ずっとずっとそう唱え続けた。そうしていると、まるでそれが紛れもない真実であるかのように思えてきた。李林甫の言葉など、真っ赤な嘘にしか見えなくなった。

 これでいい。これでいいんだ。

 真備はそう言って自らの心を落ち着かせた。

 そもそもあの時、仲麻呂が「もし自分が人喰い鬼だったら?」と冗談めかしに聞いてきた時、自分はこう言ったではないか。「お前になら喰われてもいい」と。

 それだけ彼を信じていたのではなかったのか。

 彼は親友だ。紛れもない親友だ。

 李林甫の言葉一つで彼を化け物に仕立て上げるなど、親友としてあるまじき行為ではないのか。


 真備はもやもやとした気持ちを残しながらも、夕方に仲麻呂と別れた結界の切れ目付近まで辿り着いた。しかし裏道は明かりに乏しく、さらに月も出ていないので暗くて周りがよく見えない。

 人がいるかさえ分かなかった。


 真備が目をこらしながらやっとのことで道を歩んでいると、突然辺り一帯に生ぬるい風が吹いた。それが横を通り過ぎた時、何故か鉄臭い匂いが鼻をかすめる。この匂いはなんだ。

 風が雲を飛ばしたらしく、細い月が顔を出した。辺りがサッと明るくなる。闇が薄れて喜ぼうとしたのだが、次の瞬間、喜びどころか絶望を味わうこととなった。

 真備の目の先には赤い水溜まりが広がっていた。その中心には、肩から血を流して横たわる一つの人影。その地獄のような光景に、真備は一瞬身動き一つとれずに固まったが、横たわった人物の顔を見てハッと目を見開く。

「······真成まなり?」

 同じ趙玄黙ちょうげんもくの元で学んでいた学友······白猪真成しらいのまなりであった。しかし、陽気で明るかった面影など残っておらず、ただただ顔が青白く月明かりに照るばかり。

「真成? 真成っ!?」

 すぐさま彼に駆け寄った。血の気のない唇から、かすかに荒い息が漏れている。どうやら辛うじて生きているようだ。それが分かってひとまず安堵したが、瀕死の状態であるのには変わりがない。

 すぐに医師に見せなければ。焦って立ち上がった、その時······。


 真備の背後から草を踏むような小さな音が聞こえた。突然のことに思わず肩を震わせる。そこで初めて、自分の背後に人の気配がすることに気がついた。

 恐る恐る振り返る。そこにいた人物を見て絶句した。何もかもが全て吹き飛んで頭が真っ白になった。なぜなら、そこにいたのは······。


「なか、まろ······?」


 赤鬼は生気のない顔で目の前の血溜まりを眺めていた。しかし、服にも顔にも赤黒い液体がはねている。何より、右手全体が血で濡れ、鋭い爪からぽたりぽたりと赤黒い雫が垂れていた。


 ──どうか、どうか、お逃げください。


 真備の頭の中に、李林甫の言葉が蘇る。

 彼の不思議な色合いをした瞳が渦を巻いた。


 ──鬼とはいえそろそろ空腹の限界だろうと占い師は言っておりました。


 まさか。まさか、彼が本物の人喰い鬼だとでも言うのか。真備は最も恐れていたことが現実になり、思わず唇を震わせた。

「仲麻呂、お前」

 顔を引きつらせながら声をかけると、ハッとしたように真備を見つめる。

「まきび、さん?」

 焦点の定まらない目が真備から目の前の血溜まりへと移る。赤鬼はその光景を見て大きな身体を強ばらせると、絞り出したような小さな声でぽつりと呟いた。

「ま、なり?」

「え?」

 今、彼は真成と言ったのか?

 しかし気づいたのもつかの間、彼は二、三歩後退りをすると何も言わずに駆け出した。

「っ! おい、仲麻呂っ!」

 背中に言葉をかけるが、彼は全く振り返らない。

「仲麻呂!」

 彼の名を呼び続けた。人気ひとけのない裏道に真備の声だけが虚しく響く。

 しかし、真備がいくらその名を叫ぼうとも、彼はもう帰ってこなかった。













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