第四章「疑惑」

疑惑 1


「······真成まなり?」

 翌日の黄昏時。

 ずっと意識を失っていた真成のまぶたがあがった。彼はしばしの間ぼーっと医務室の天井を見上げていたが、隣にいる真備に気がついてそちらに目を向ける。

「······ま、きび?」

 絞り出したかのような声に、真備は大きく頷くと「そうだ、真備だ!」と泣きそうな顔で笑う。出血が多かったが、どうにか一命は取り留めたらしい。体力はまだ見えないものの気力は戻っている。それを確認した後、真備はやっと肩を下ろした。


 彼──白猪真成しらいのまなりも真備と同じ船で唐にやって来た第九次遣唐留学生である。唐では井真成せいしんせいと名乗り、真備と同じ四文学に学んだ。二人とも同じ趙玄黙ちょうげんもくの指導を受けていたので、いつの間にか良い学友となっていたのだ。確か、出会う前の仲麻呂が科挙に合格したことを教えてくれたのも、彼だった気がする。


 仲麻呂。その名前に真備は顔を顰めた。昨日も今日も高楼に戻っていないので、彼は今どこで何をしているのか······そんなの知る由もなかった。

 しかし、あの赤鬼は本当に阿倍仲麻呂なのだろうか。真備はそこが気になっていた。李林甫の話を信じるとすると、あの赤鬼は仲麻呂の皮をかぶっただけの日本水軍の亡霊ということになる。それも、都の人々に害をなす悪霊。もしその話が本当なのであれば、一刻も早くあの赤鬼を退治すべきではないか。それこそ、真成のような犠牲者が増える前に。


 真備はそっと真成の方を向いた。彼はまだ虚ろな目をしていたが、意識は着々と戻ってきているようで瞳には生気が宿っている。それを見て、真備は思い切って話しかけた。

「真成」

「······ん?」

 ぼんやりとした顔が真備に視線を投げる。少しだけ、頬の赤みが戻ってきているような気がした。

「目が覚めたばっかでこんなこと聞くのもあれだけど······」

「いいよ、言えよ」

 話しかけたはいいものの、まだ言葉が喉につっかえた。そうやって口を閉じていた真備に、真成はにこやかな顔で頷いてみせる。まるで「なんでも言え」と言いたげな笑みだった。真成のおおらかさが目に見えた気がして、真備はやっと口を開いた。

「お前、誰に襲われたか覚えてるか?」

「誰に······?」

 真成は曖昧な記憶を辿るように天井を見上げた。しかし次の瞬間、「ああ」と言って顔をこわばらせる。

「鬼······」

「鬼?」

「そう······そう。鬼が近づいてきて······」

 顔を青くした真成の声は震えていた。その顔は恐怖に歪んでいた。まるで今、目の前にもその鬼がいるかのように。


「帰ろうとしてたんだ」


 真成はそう続ける。


「そしたら、道にでかい、赤い鬼がいて······俺、逃げようとして、でも出来なくて······追いつかれた、追いつかれて、大きな尖った爪があって、それで、肩······」


 そこで真備は真成の手を握った。もう聞いているのも辛かった。

「ごめん。もう大丈夫だ。もう十分だから······聞いた俺が悪かった。もう思い出さなくていい。ごめんな」

 真成の手は震えていた。陽気だったいつもの彼からは想像も出来ないほどに。それは真備の手が重なって、やっとおさまった。

 真成は静かに息を吐いてゆっくりと目を閉じる。真備がいることに安心したのだろう。しかし、真備の不安はおさまらなかった。それどころかどんどん膨らんでいった。


 やはり、あの赤鬼は仲麻呂ではないのだろうか。そう思った方が自然な気もしてきた。もしあれが仲麻呂でなかったならば、真備は本物の仲麻呂の人となりを全く知らないことになる。それでも······。


 真備の脳裏に仲麻呂の笑顔が浮かび上がった。たとえあれがただの亡霊で、真備が本物の仲麻呂に出会ったことがなかったとしても、本当の彼のことを何も知らなかったとしても、あんなに優しい目をした青年が人を襲うなど考えられなかった。とすると、やはり本物の仲麻呂は既に死んでいて、あれはただの悪霊にすぎなかったのか。


 真成に声をかけると、立ち上がって外に出た。そして周りに家も人影もない寂れた都の外れへと向かう。人気ひとけのない道には冷たい夜風だけが吹き荒れていた。

 今日は新月だ。夜になったばかりなので今はまだ明るいが、今夜は月のない暗い夜になるのだろう。真備は気持ちを鎮めるかのように、ふっと息を吐いて目を閉じる。

 その時真備の脳内には、あの赤鬼の言葉が浮かんでいた。


 ──必要な時はいつでも私の名をお呼びください。さすれば私は、直ぐにでも貴方の元へと参りましょう。


 真備はそっと目を開く。その言葉が嘘でなかったのならば、あれが本当に阿倍仲麻呂だったのであれば、きっと来てくれる。いや、来てくれなければならない。


 通りを走り抜けるかのように吹いていた夜風がやんだ。木々のざわめきがすっとおさまる。辺りが静寂に包まれた今、今なら声が届くと思った。彼が自分の声を聞いてくれると思った。真備は軽く息を吸い込むと低く澄んだ声でその名を呼ぶ。もうすっかり呼びなれてしまった彼の名を。


「仲麻呂」


 その声は黒く染まりゆく月のない夜空に吸い込まれてゆく。しかし、しばらく経っても何も起こらない。ただ、星だけがちらほらと輝きはじめた。

「仲麻呂! 来てくれ!」

 真備はもう一度彼の名を呼んだ。先ほどより上ずった声であった。風もない、音もない夜空に声だけがのぼってゆく。

 しかしやはり何も起こらなかった。誰も来ない。何も聞こえない。まるで世界から突き放されたかのような心地になって、切羽詰まったような声を上げる。


「仲麻呂! 聞こえてんだろっ!? なんで来ないんだよ! やっぱりお前は阿倍仲麻呂でもなんでもないただの鬼なのか? ただただ人を傷つけることしかできない化け物なのか!? そうじゃないなら来いよ! 今すぐにでも飛んでこいよ!! お前、言ったじゃないか、すぐにでも駆けつけるって! あれは嘘だったのか? 何もかもデタラメか? 俺のことずっと騙してたのかよ!!」


 もう自分が何を言っているのかさえ分からなかった。彼の名を呼ぶたびに、ぎゅっと握られたような痛みが心に走る。初めは信じていなかった。いや、信じたくなかった。彼が鬼であるなどと、彼が嘘つきだったなどと。

 しかし、それはいつの間にか変わっていた。叫ぶうちに、いつの間にか彼が本当に鬼であるような気がしてきたのだ。何度呼んでもいくら待っても彼は来ない。もう既に数十分は経った。それでも彼は来なかった。これまでは、呼べばすぐに飛んできたくせに。


 どこか裏切られたような気持ちになり、それが真備の心を変えた。彼を信じたいという切実な気持ちが、裏切られた悲しみへと変わった。それがさらに怒りになった。

 あの赤鬼は大切なものを傷つけた。生きていれば親友になったであろう本物の仲麻呂を殺し、心の通った学友である真成に怪我をさせたのだ。その悪霊が本当に日本水軍の霊ならば、真備は決して許せなかった。日本のために戦死したはずの彼が、何故同じ日本人を傷つけるのか。何故悪くもない人間を殺すのか。真面目で誠実な真備には、一寸も理解など出来なかった。


 真備は泣くように彼の名を呼び続けた。いつもは感情などしまい込んでいるのに、切羽詰まったように言葉を吐いた。いつの間にか泣いていた。もう自分で感情を抑止出来なかった。信じたくないのに信じなければならないというこの現状に、涙が溢れて止まらなかった。

 何も無い道にはただただ空だけが広がっていた。しかしそこに月はない。周りに家の光はなく、どこを向いても黄昏のとろりとした空気ばかりだ。真備は改めて孤独を感じて、一人その場に立ち尽くした。


 遠目に明るい市場の光が見える。真備はその光をひどく懐かしく思った。彼と空を飛んだのはいつだっただろう。あの時の真備は、彼を唯一無二の友、阿倍仲麻呂だと信じて疑わなかった。駱駝らくだを見て無邪気に笑っていた彼の顔が浮かぶ。

 しかしあれもただの皮だったのだ。あれはただの死人の皮で、中身は悪しき魍魎もうりょうだったのだ。そう思うと再び真備の頬を涙が伝った。しかしそれはただの悲しみの涙でも、怒りの涙でもない。その涙には真備の決意が含まれていた。


 もう忘れよう。真備は心の中で呟いた。あの笑顔も思い出も、全てが嘘であったなら、もう改めて思い起こす必要はない。自分が友だと思っていた阿倍仲麻呂はとっくの昔に死んでいたのだ。巡り会う前から死んでいた。自分は彼のことを何も知らない。ならば、仲麻呂ではないあの亡霊と別れることなど何も悲しくはない。


 真備は空を見上げて言葉をこぼす。その声は涙のように澄んでいて、遠い彼方の星のような、一粒の寂しさを含んでいた。


「分かった。赤鬼······聞いてるか? お前は赤鬼なんだろう? 日本の水兵の亡霊なんだろう? 俺が友だと思っていた仲麻呂はそもそもはじめからいなかったのだろう。ならば何も惜しくない。俺は俺の道を進もう。ただ、ただ一つだけ言わせてくれ。たとえお前が鬼だったとしても、俺は楽しかったぞ。良き友が出来たようで嬉しかったぞ。それは事実だ。だからそれだけは感謝したい。ありがとう、もう人間を襲ったりするなよ。お前が愛する日本のために」


 その声は四方に広がる藍に溶けた。応える声は聞こえない。赤鬼の姿も見えなかった。でも真備には、その声がきちんとあの赤鬼に届いている気がした。

 涙で濡れた目を拭くと、ふっと息を吐いて長安の灯りを見つめる。しばらく静寂が訪れたが、そのうち決意に満ちた表情で歩き出した。

 目指すは都の中枢部。貴人の屋敷が立ち並ぶ場所。その中でも一際大きく豪華な屋敷が目的地だ。


 真備は歩いた。次第に涙も乾いていった。進むにつれてどんどん増してゆく街の賑わいにも一切目をくれなかった。

 そして街の華やかさがピークを迎える頃、目的地が目の前に迫った。立派な門が正面に現れる。真備はそれにもひるまず、門番に屋敷の主人への面会を求めた。


 今の唐の最大の権力者、李林甫への面会を。








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