賽の目 2


 都の外れにある人気ひとけのない高楼の前。真備は空を見上げて小さく息をついた。しんと静まり返った夜ももう明ける。次第に白んでゆく空が柔らかな色合いで頭上に広がっていた。

 真備はそっと辺りを見渡してみる。しかし、案の定人影はない。まぁそれもそのはず。いくら都である長安チョーアンとはいえ、当時は夜間の外出に関して厳しい掟があったのだ。


 そもそも長安は、大通りに区切られた坊という空間の集合体であり、その一つ一つが門と塀で区切られている。これは学校という建物の中に教室という区切りがあるようなものだ。

 そして長安では夜と朝にそれぞれ太鼓が鳴らされる。夜の太鼓が鳴ってから朝の太鼓が鳴るまでは坊の外に出ることは禁じられており、坊外でうろちょろしていれば笞打の刑が課せられることになっている。

 先程の学校の例で考えれば、授業開始のチャイムが鳴ってから終了のチャイムが鳴るまでの間はどこかしらの教室に居なければならず、廊下に出ていれば先生に怒られる、といった具合である。

 夜の太鼓は、真備が王維の屋敷に着いた頃に鳴っていた。そのため本来ならば王維の屋敷がある坊内から出ることは出来ないのだが、真備には隠身の封という隠れ身の術と、仲麻呂から教えて貰った鍵開けの術がある。王維達との会話を終えた後、真備はそれらの術を駆使することでこっそりと長安の街を歩いてきた。


 あの高楼の中には彼がいるのだろうか。真備は高楼を見上げて拳を握りしめた。

 あの暗闇に散った赤い雫を思い出すとどうしても足がすくんでしまう。心臓を握りしめられるかのような罪悪感と、錆び付いた血の匂いからくる吐き気。それらが心に蘇って無意識にも真備の足を止めてしまうのだ。


 しばらくの間、眉を寄せながら高楼を見上げ続ける。すると差し込み始めた朝日に誘われたのか、小さな雀が欄干へと降り立った。小さな命は鈴のように澄んだ声で鳴きながら、立ちすくむ真備を不思議そうに見つめて首を傾げる。なぜか、その小さな瞳が何かを訴えかけているかのように思えてきた。


 何故そこで立ち止まっているのか。

 友を助けるのではなかったか。


 そう首を傾げては真備を見つめる。そんな雀に見下ろされ、やっとのことで覚悟を決めた。真剣な面持ちではしごの袂まで歩みを進めると、そっと綱に手をかける。はしごの先にある淡い朝空を見上げながら、一歩一歩踏みしめながらのぼりはじめた。


 高楼の上に立つと幾分か空が近づいたような心地がする。次第に淡く霞んでゆく朝空は、まるで柔らかな羽衣を何枚も重ねたかのようだ。真備は高楼の扉に術をかけて鍵を開けた。 ギィッという軋んだ音が響いて、古めかしい扉が開いた。


 薄く伸びた光の筋が、零れた清水のように高楼の闇に注がれる。流れる先に目を向ければ、そこにあるのは血に染った古めかしい床板。すでに赤いシミは黒々と染まり、斑の模様を成していた。

 真備は思わず顔を顰めた。こびり付いた血が心にまとわりつく。昨夜ほどではないものの、錆びた鉄の匂いが鼻をついた。


 真備はどこか光のない目で高楼の扉を開け放つ。煌めく朝日が、やっと血に染まる亡骸を包みこんだ。腹と胸のあたりが破れた衣。血に染まる身体。固く閉ざされたその瞼。真備は静かに横たわる彼を見つめて、思わず目を逸らして俯いてしまう。

 すると、自分のくつの下から何かが顔を覗かせているのに気がついた。しゃがんで拾い上げてみると、そこにあったのは一枚の紙。真備は血で汚れた紙を見つめると、くしゃりとそれを片手で潰した。

 そこにはあの文選もんぜんの内容がしたためられていた。あの日、仲麻呂と共に筆を走らせたあの紙だ。真備はどうしようもなくやるせない気持ちになって高楼の中を見渡す。

 そこにある全てが自分から遠いもののように感じた。それらは確かに、真備と仲麻呂のすぐ側にあったのに。確かに、自分達が生きた証であったのに。


 真備は扉の方へと振り返ると、ゆっくりゆっくりと差し込む朝日を閉ざしていく。その間、顔をあげまいと必死に下を向いていた。輝かしい朝日を見ると、美しい長安の街並みを見ると、どうしても心が握りつぶされるような気がしたのだ。自分が孤独であるかのように感じてしまうと思ったのだ。


 しかし、そんな真備の願いも虚しく散る。扉を閉める寸前、ひゅっと鋭い風が吹いて、日の出を知らせる太鼓の音が聞こえてきた。

 世界最大の都、長安の目覚めである。その太鼓の音に意識を呼び起こされ、真備は思わず顔を上げてしまった。扉の隙間に光る美しい都が目に入る。絵の具をいくつも重ねたかのような七色の空に、眩い光が差し込んでいる。それはまるで、美しい幻を見ているかのような景色であった。


 ──ああ、俺はもうあの空を飛べない。


 真備はあの日見た長安の夜景を思い出した。仲麻呂と共に空を飛んだ夜の記憶だ。あの日の神秘的な月を思い出して、真備は思わず眉を寄せる。

 翼をもがれた鳥というのはこのような気持ちなのか。真備はもう二度と飛ぶことはないであろう空を見上げてそう思った。

 目指すべき月のない暗闇を飛ぶなんて、今の真備には到底無理であった。いや、例え月があったとしても翼がなければどうにもならない。あの日の真備にとって、仲麻呂は自分を導く月だったのだ。自分を動かす翼だったのだ。


 真備はそう思いながら、ずっと扉を閉められずにいた。遠く霞んだ朝焼けは、真備の心など露知らず、ただただ都を覆うように輝かしく照るばかり。山にも街にも平等にその光は舞い降りる。

 すると、欄干にいた雀が一羽、その光の源に向かって羽を広げた。そして憎い程に愛らしい翼で薄衣の空を駆けてゆく。真備は手に力を込めた。海も越えられぬ鳥などに負けてはいられない。今の自分には空を飛ぶ翼はないが、地を駆ける足がある。友を救う頭がある。真備は瞳に鋭い光を宿すと、空を覆う輝きを睨んで力強くこう言った。

「いつでも朝日が昇ると思うなよ」

 真備は高楼の扉をかたく閉ざした。そして背後に広がる闇を振り返ると、足元に横たわる赤鬼の屍を見下ろす。その時の真備は何かが吹っ切れたかのような表情をしていた。光とは切り離された暗闇の中でじっと何かを見据えている。

 そしてしばらくすると、燃えるような光を瞳に宿したまま呟くように言葉を吐いた。

日出処ひ いずるところが闇なれば、二度と朝日は昇らぬぞ。日ノ本を解放せぬ限り」




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