賽の目 3
「真備さん。僕です、王維です。開けていただけませんか?」
真備が高楼に帰ってきて今日で二日。太陽が空高く昇りきった頃、扉の向こうから柔らかな声がした。 真備はそれに気がつくと、飛びつくように鍵を解く。
そこには何やら大きな荷物を持った王維と儲光羲がいた。麻袋に入った荷物はやたらと重そうで、二人とも軽く息を切らしている。どうやらそれを抱えてわざわざ高楼の上までのぼってきたようだ。真備はそのことに気づいて慌てたように頭を下げた。
「申し訳ありません。わざわざこちらまで運んで頂いて······」
「いやいや、大丈夫だよ。ハシゴのとこは上から引っ張りあげたからね」
王維は麻袋につけていた一本の縄を解き、くるくると巻きながら手繰り寄せる。するとあっという間に縄は彼の細くしなやかな手に収まった。どうやら荷物に括りつけて高楼の上から引っ張り上げたらしい。
真備が申し訳なさそうに二人を中に招き入れると、彼らは一瞬顔を見合わせたあと微笑みあって扉をくぐった。
高楼の中は柔らかな白い光に包まれていた。開け放った扉から涼しげな風が舞い込んでくる。こんな陽の光に照らされていると、まるであの夜の闇など夢のようだ。
王維と儲光羲が重そうな麻袋を二人で床に置くと、真備は彼らと向かい合って座った。床には一枚の布が敷かれており、その下にある床板は見えない。二人は不思議そうな顔をしていたが、何かを察したのか特に追及してくることはなかった。きっと深入りしないつもりなのだろう。それが今の真備にとってはありがたい限りだった。
「······で、頼まれてたやつなんだけどこれでいいかな?」
三人が腰を下ろすと王維が麻袋に手をかけた。そこから取り出したのは古めかしい一つの筒だ。王維の手にぴったりと収まるほどの大きさで、片方の端が穴になっている。それは今でいう飲食店のグラスのような形だ。王維は儲光羲に手助けを頼むと、まだ何やら膨らんでいる麻袋に再び手を入れた。
二人がかりでようやく取り出したそれこそが、麻袋の重みの原因であり、今回の作戦の目玉である。真備は取り出されたそれを見るとやや目を丸くした。そして、思わず感嘆の息をもらす。
「凄い······」
その一言に感動の全てが含まれていたのだろう。王維は得意げに笑うと、真備の前にその代物を差し出した。
「百年以上前に作られた賽盤だよ。楓で作られた一級品だね」
王維の言葉通り、その賽盤は堂々とした光沢と風格を持ち合わせていた。古さゆえの奥深い色合いに、べっこう飴のようなつやめき。その風貌や重さからも分かるように、これはかなりの代物である。
「こんな立派な賽盤、一体どうやって手に入れたのですか?」
真備が要求してからたったの一日。その短い時間でこれだけのものを用意出来るなど、相当の交友関係がなければ無理な話である。真備は王維や儲光羲が朝廷に仕えていることは知っていたが、そこまで力が強いとは考えていなかった。
しかし、王維の答えは真備の予想に沿ってはいなかった。それは意外なところから出てきたのだ。
「別に僕らが権力に物を言わせたわけじゃないよ。というか、まだ僕らなんてそこまで顔広くないからね。この賽盤が手に入ったのは貴方のおかげだよ、真備さん」
王維は細い瞳をますます細めてにこやかに笑う。しかし真備にはなんの身に覚えもない。そんなことが出来る知り合いなど居ただろうか。
「かなり感銘を受けたみたいだったぞ。貴方の囲碁の腕前に」
首を捻る真備に気がついたのか、儲光羲がポツリと呟いた。その呟きは雲を吹き飛ばす一陣の風のように真備の頭を駆けてゆき、思わず「あっ」と口を開ける。
「まさかあの囲碁の······」
二人は満足そうに頷いた。賽盤のことを考えた時に、ふと思い出したのが彼······あの囲碁の名人であったらしい。長安の中でも有名な人物であったので、王維たちも彼の家は知っていた。自宅を訪ねて事情を話したところ、快く協力してくれたそうなのだ。
「彼、囲碁だけじゃなくて
そういう王維は、賽盤の上に筒をのせる。
「これも彼が貸してくれたんだよ。これは
王維が賽盤の上で筒を振れば、カラカラと乾いた音がした。持ち上げられた筒の中に、バランスよく縦に積み重なった二つの
「でもさ、何しようとしてるの? こんな物集めて」
儲光羲もうんうんと頷く。二人は真備に従って道具を集めてきたものの、何を企んでいるのかはまだ分からないようであった。真備は「ああそれは······」と言って身を乗り出すが、そこでピタリと動きを止める。
「いや、やっぱり秘密にしておきます」
曖昧に呟かれた言葉と共に、真備は持ち上げかけた腰をおろした。王維と儲光羲は互いに顔を見合わせる。しかし当の真備は至って冷静だった。
「まぁ何はともあれ、わざわざ力を貸して頂きありがとうございました。お二人がいなかったらどうなっていたことか。あの囲碁の御方にも後々ご挨拶にあがらねば」
そんな真備の言葉を最後に、王維と儲光羲は高楼をあとにすることになってしまった。真備が何をしようとしているのかは気になるが、朝廷に仕える二人がこうしてここに長居するのもまずい。そう考えて大人しく立ち上がった二人であったが、対する真備は何やらじっと目の前の賽盤を見つめていた。そしてしばしの間考え込んだ後、ゆっくりと顔を上げる。
「しかし、そうですね。お二人にはこれだけお伝えしておきましょう」
高楼の扉をくぐろうとしていた二人が振り返った。そこには静かに立ち上がって二人を見据える真備がいる。朝の爽やかな風を
すると真備は口を開く。瞳に光を留めたまま。強い決意を秘めたまま。
「この朝日が沈み切ったその時から、この長安の街を天変地異が襲うでしょう。しかし、決して街を破壊したりは致しませぬ。静かに舞い降りる脅威でございます。恐らく期間は数日間。いつでも解決できる問題です。ただ······」
そこで真備は言葉を切った。そして瞳をキュッと細めてみせる。その不思議な圧を前にして、王維と儲光羲は彼から目を離せなくなった。静かな朝に耳鳴りがして、二人は思わず息をのむ。
すると、真備はこう続けた。まるで忠告でもするかのように。遠く霞む長安の街に、凛とした警鐘を鳴らすかのように。
「ただ、朝廷の反応が悪ければ、ずっと、ずっと抜け出せぬ。そんな術でございます」
その響きを背負い込んで、二人は高楼を後にした。清々しいほどの黎明の光は、何も変わらずに降り注ぐ。それはいつもと同じ朝の風景。
しかし、誰も予想し得なかっただろう。そんな朗らかな朝の景色が、ガラリと消えることになろうとは。
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