第二章「囲碁」

囲碁 1


「囲碁?」

「はい」

 翌日の真昼間、戸が開け放たれた高楼の中で仲麻呂が頷いた。真面目な様子の赤鬼の面に、真備は怪訝な様子で再び尋ねる。

「囲碁ってあの囲碁だよな?」

「ええ、貴方がどの囲碁のことを言っているのかは分かりませんが、恐らくその囲碁で合ってます」

「······」

 その言葉に真備はさらに眉を寄せた。仲麻呂は一言も発さぬ真備を訝しんだらしい。「真備さん?」と一声かけてみるが、次に返ってきたのは後悔の色を含む突然の叫びであった。

「ああ! 親父に習っときゃ良かった!」

 仲麻呂は思わず肩を震わせる。それと同時に肘が机にぶつかったのか、硯の上に置いてあった一本の筆がカラリと落ちた。

「え、えっと······真備さん?」

 頭に手を当てて項垂れる真備を見つめると、仲麻呂は恐る恐る問いかける。対して返ってきたのはたった一つのため息だった。

「はぁ、囲碁かぁ」

「何か囲碁に関する嫌な思い出でも?」

「いや、そういうことじゃないんだが······」

 真備はやっと顔を上げると、高楼の外に目を向ける。そこには高日に煌めく緑があった。それを遠い故郷の山並みに重ねると、「俺の親父な、囲碁の名人なんだよ」と在りし日の思い出を振り返る。仲麻呂は案の定「凄いじゃないですか !」と目を丸くした。

「まぁな。でも俺は全く出来ない。そもそもやり方も知らない。こんなことになるなら素直に習っときゃ良かったなぁ。昔から勉強一筋だったから囲碁なんて関係ないと思ってた。やっぱり芸能も大事だよなぁ」

 大袈裟なほどに肩を落とす真備を見て、仲麻呂はどう声をかけたらよいかが分からず、暫くの間口を開きかけたままオロオロしていた。しかし、ふと何かを考え込むかのように口元に手を当てると、真備に向かって小さな声をかける。

「囲碁のやり方だけでも教えてもらいましょうか」

「え?」

 その言葉に真備は目を丸くしながら顔を上げた。

「教えてもらうって、誰にだ?」

「あ、いえ。今の事情を知っている友人が二人ほどいるのですが、彼らなら囲碁のやり方くらい知っていそうだなと」

「へぇ!それは助かる······ってちょっと待てよ?」

「何でしょう?」

 仲麻呂の提案に食いついた真備であったが、突然眉を寄せて首をひねった。その瞬間訪れた静寂に、仲麻呂は思わず姿勢を正す。

「お前やたら情報掴むのはやいと思ったらちゃんとツテがあったのか」

 その言葉に一瞬またたきをすると、仲麻呂はどこか可笑しそうに笑いだした。

「ええ、まあ。さすがに今の私一人だけであれだけの情報を掴むことは出来ません。この場合、情報をいち早く掴むには朝廷にいることが何より大切ですから」

「じゃあその二人も朝廷にいるのか」

「ええ、お二人とも詩に優れた文官です」

 嬉しそうに友を語る仲麻呂に、真備はフッと微笑ましそうな顔をした。しかしほんの少しの寂しさが、薄布のように色を落としている。

「やっぱり違うな。皇帝陛下に目をとめられたやつの交友関係は」

 遠い師を仰ぐような、囁かな羨望がそこにはあった。仲麻呂はふわりと目を伏せると、謙遜にも似た表情で苦笑いをする。

「彼らが優しいのですよ。こんな異国人にも親しげに声をかけてくださったのですから」

 仲麻呂の言葉に誘われたように、高楼の入り口から爽やかな真昼の風が舞い込んだ。草木の薫りに口元を緩めると、真備は眩しそうに眦を下げる。

「良い友人に出会えたんだな。お前もまた優しいからだろう」

「ふふ、そうでしょうか。鬼のことが優しく見えるのも、貴方がお優しいからかもしれませんよ?」

 擽ったそうに視線を逸らすと、仲麻呂が不意に立ち上がる。異国の色を含んだ彼の衣が、ふわりと青い風を孕んだ。

「でも、嬉しいです。貴方にそう言って頂けて」

 釣られて見上げた鬼の顔は、恐ろしくないと言えば嘘になる。しかしその恐ろしさを上回るような柔らかな笑みが、日に日に強くなっている気がしてならなかった。少なくとも、真備にはそう見えたのだ。物の怪の奥に眠るの柔らかさが。

「なあ仲麻呂。人間に戻れたらさ、その友達に合わせてくれないか? 俺も会ってみたい」

 突然そう切り出した真備に、仲麻呂は不意をつかれたような顔をした。しかし一拍おくと、彼は嬉しそうにはにかんでみせる。

「もちろん。実はこの間、あちらからも貴方に会ってみたいと言われたんですよ」

「ほんとか? それは嬉しい」

「ふふ、ではいつか皆でお話でもしましょう。とりあえず、私は囲碁の基本を教わってきますので、真備さんはここに残っていてください。あの儒学者達がいつやって来るか分かりませんから」

「ああ、分かった。気をつけてな」

 仲麻呂はゆっくりと頷いてから高楼の扉を閉める。それと同時に明るい陽の光が闇に消えた。しんとした暗がりに残ったのは、微かな草花の香りだけ。

 真備はそっと蝋燭に火を灯すと、ごろりと仰向けに寝転がる。そして朧気な記憶だけを頼りに、父が持っていた囲碁の道具を思い出してみた。

 白と黒の碁石に、あと盤があったと思う。長安や平城京の道のように縦と横に沢山の線が走っていて······。

 そこまで考えたところで、ふと見上げていた天井に目がいった。そこには正方形をした天井板がきっちりと並んでいる。そうだ。確かこの天井板の継ぎ目のように、十字に交わる線が沢山あった。

「······あ」

 そこで小さな声をあげる。続けて天井を眺めたあと、少し時が経ってから一人ぽつりと呟いた。

「この天井······仮想演習に使えそうだな」





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