囲碁 2
「まぁ、囲碁のやり方は大体こんなもんだ。基本的なことしか教えられなかったが、戦略次第ではどうにかなるだろう」
「わざわざありがとうございます。助かりました」
目立たない屋敷の北隅······太陽が高く輝いているにも関わらずどこか薄暗い部屋の中で、仲麻呂ととある一人の男が碁盤を挟んで向かい合っていた。
男は名を
彼は赤鬼と化した友人を見やるとにこりと笑った。彼もまた、仲麻呂の現状を理解している数少ない人物であった。
「それにしても、お前その顔似合わないなぁ。お前は鬼というよりは月の天人って感じがする」
そんな儲光羲の呟きを聞くと仲麻呂は可笑しそうに肩を揺らした。
「私はそんな大層な人物ではないですよ。でも鬼の面が似合わないのは認めます」
「ははは、まぁ頼もしさでいえばある意味鬼とも言えるがな」
そう笑った儲光羲ではあったが、ふと表情を和らげる。その瞳はどこか同情の色を含んでいた。
「しかしまぁ······あいつらの文人嫌いの矛先が日本人のお前や真備殿に向いてしまったのはなんだか申し訳ないな。唐の人間としては」
声の響きが変化したことに気がついたのか、仲麻呂は姿勢を正すと「いいえ」と首を振ってみせる。
「貴方が謝ることではありませんよ。異国人だからこそなのです。彼らのような門閥系の政治家にとっては、貴族外······ましてや異国人など以ての外なのでしょう」
儲光羲は「うーん」と唸って頬杖をついた。
当時の唐の官僚達の間には、家柄の良さで出世したいわゆる「門閥系」と言われる政治家達と、科挙などによって学才を認められた「科挙系」と言われる政治家達の密かな対立があった。
王維や仲麻呂、儲光羲などはもちろん科挙に及第した科挙系の官僚である。しかし彼らが表に出てきて都合が悪くなるのが、大貴族の家に生まれた門閥系の者達であった。
生まれながらに権力を約束されていたと言っても過言ではない彼らは権力を横取りされるのが癪なのだ。官僚詩人などの頭の良さで成り上がってきた文官達を疎むものも少なくない。
「お前を閉じ込めたのは
「······はい」
その名前を聞いて、仲麻呂は躊躇いながらも頷いた。
李林甫。彼は今絶大な権力を握る官僚の一人である。元々貴族の生まれである彼は、今や門閥系の筆頭だ。科挙系の筆頭である
「まあ、ああいう悪賢さは必要なんだろうけどな。立場が違えば彼を尊敬も出来ただろうが、排除される側としてはたまったもんじゃない」
そう呟くと、儲光羲は苦笑しながら仲麻呂を見つめた。
「お前が李白なみの肝の蔵を持っていたら、まだ監禁はされなかったかもな」
「そんなにお酒に強いのですか? 李白というお方は」
からかいを含んだ言葉に仲麻呂は笑みを漏らす。
「ああ、とんでもなく強いぞ。あれはもはや化けもんだ」
後に親しい友となる仲麻呂と李白であるが、この当時はまだ出会っていない。しかし詩人達の間で、詩才はさることながら、「変人」としても有名な李白の噂は仲麻呂の耳にもよく入ってくる。特に王維とは顔見知りらしく、彼との会話には李白の名がよく上がった。
しかしながら、儲光羲が彼の酒の強さを話に上げたのにはきちんとした理由があった。仲麻呂はそれを身にしみて分かっているからこそ、赤黒い大きな手に視線を落とす。
「まだまだ甘かったですね、私も」
仲麻呂の方を一瞥すると、儲光羲も同じように視線を落とした。恐らく二人が思い浮かべているのは同じ夜。二ヶ月前、仲麻呂が忽然と姿を消すことになったあの夜であろう。
しばらくの間、穏やかな沈黙が流れた。
「······まぁ人間に戻れるまでは、暫くこうして真備さんの手助けをしていたいと思います」
沈黙を破ったのは仲麻呂であった。彼は穏やかに微笑むと儲光羲へと視線を向ける。しかしその笑みは決して悲観的なものではない。
それが彼の強さであった。どんな状況に落ちいろうとも、彼はどこか楽しそうにしている。というのも、彼はどんな小さなことにでも心の支えを持つことが出来るという強みをもっていたのだ。
彼は探究心が強い。まだまだ学びたいことや知りたいことが沢山あるのだろう。彼はこれだけ大人びているのに、それと同時に少年のような心をもっていた。
今日の夕日を見て夢を想い、明日の朝日を見て命に感謝する。そんな彼だからこそ······夢のために海を渡り、化け物になろうとも自分を信じることができた。
儲光羲には、そんな彼の生き様が微笑みに現れているように思えてならなかった。寂しそうな色の中にも、しっかりと生きがいを抱いている。そんな彼の強い意志が、失いかけた彼の命を繋げたのではないかと。
儲光羲はそう考えて笑みを漏らすと、そっと頬から手を離した。そしてどこか得意げな瞳を仲麻呂に向ける。
「そんなお前に朗報があるんだが聞くか?」
「朗報?」
「ああ、いい知らせだ」
儲光羲はニヤリと笑って、耳を寄せるよう合図をする。まるで秘密基地でも見つけた子供のような笑みだった。
仲麻呂が大きく尖った耳を傾けると、儲光羲は秘密を教えるかのように楽しげな声音でこう言った。
「まだ完全ではないが······お前を人間に戻す手がかりを見つけたかもしれない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます