詩仏 2

「晁衡、皇帝陛下のことは聞いた?」

 仲麻呂は一瞬身体を強ばらせると、長いまつ毛を軽く伏せた。それは「はい」を意味しているのだろう。

「大丈夫。主上は君のことを憎んでいるわけじゃない。そもそも真備さんの側にいることを知らないからね。主上は嘘を吹き込まれたんだ、あいつらに」

「嘘?」

「うん。真備さんがこの国に悪いことしようとしてるってね」

 男の言葉に、仲麻呂は「そういうことでしたか」と口をゆるめる。しかしそうは言ったものの、彼の瞳は寂しげに揺らいでいた。彼も皇帝の敵にはまわりたくないのだろう。

「主上はずっと君のこと探してるよ。あの日以来、君は行方不明扱いだからね。たまにぽつりと嘆かれるんだ。朝衡は私を嫌ってしまったのだろうかと」

 その言葉を聞いた瞬間、仲麻呂がガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。盃の酒にうつった月が波のようにゆらゆらと揺らめく。

「そんなこと! 私は今すぐにでもあの方のもとに戻りたいのです。異国人である私をも信頼して下さった優しいお方ですから」

 仲麻呂はつい声を上げてしまったことを恥じたのか、「すみません、大声出してしまって」と言って気まずそうに腰を下ろす。その気持ちは痛いほどに分かる。男は優しく眉を寄せながら、「気にしないで。君の主上に対する尊敬の意はよく分かってる」と笑う。しかし、直ぐに真剣な表情をして声をひそめた。

「でも、気をつけた方がいいよ。あいつらまた真備さんに嫌がらせしようとしてる。この間宮中で聞いたんだ」

「やはり······次はどんなことを? 」

 男はそんな仲麻呂をじっと見つめると、負けず劣らずな美しい顔をきゅっと歪めた。

「囲碁だって」

「囲碁?」

「うん」

 男はそっと仲麻呂から顔を離すと、困ったように腕を組む。

「何かねぇ。学はあっても芸能があるとは限らないだろう、ってことみたいだよ。ほんと次から次へとめんどくさい奴らだね。対戦相手は長安一の囲碁の名人だってさ。真備さんは囲碁は出来るの? 」

「いや、それは私にも······」

「そうだよね。うーん、次はどう切り抜けるか。とりあえず、何か情報が入ったらまた木簡とか使って連絡するよ」

 礼を言う仲麻呂に頷くと、男は再び月へと目を向けた。懸念するかのように眉を寄せると、「でも、忘れないようにね」と息をつく。

 突然の言葉に仲麻呂は首を捻った。男はどこか心配そうな目をすると、酒を一口こくりと飲み下す。

「明後日が満月だ。君が気兼ねなく真備さんの側に居られるのもそこまでだよ。満月を過ぎたら用心だね。前みたいなことが起こらないように」

 仲麻呂は俯くと、拳をキュッと握って瞼を閉じた。「そうですね。私も、真備さんには絶対にあんなこと······」と答えた彼の声は、どこか震えているようだった。

 眉間を狭めてしまった仲麻呂の背に、男はそっと手をのせる。どこか子供をあやすかのようにトントンと軽くさすってやった。

「大丈夫、何も完全に奪われるわけじゃないよ。新月の時以外はまだ······ね。僕も調べてみるから、そこんところも」

 男は優しく微笑んだ。淡い月明かりが彼の端正な顔に美しい陰影をつける。仲麻呂はその微笑みをしっかりと受け取ると、まだ少し悲しそうな色を残しながらも柔らかく目を細めた。

「そうですね、本当に助かります。いつもありがとうございますね、王維おういさん」

 仲麻呂がふふっと笑うと、王維と呼ばれた男はニコッと笑って酒瓶を持った。

「ま、とりあえず今は飲もうよ! 李白がいないうちに美味しいお酒は飲んでおかなきゃ! じゃないとまーたあの酒オバケにうちのお酒全部飲まれちゃうからね!」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る