第11話 捕り物

 早瀬は苛立たしげに親指の爪をかじった。子供の時分からこの癖が抜けない。だから、親指の爪は変形し、とても短い。

 長崎藩江戸詰め屋敷の家臣になって十年。ほぼこの屋敷を取り仕切る位置まで来た。江戸にあるこの屋敷は自分がいなければ回らない。それが、たまに来て威張る長崎藩の連中にどうにもこうにも言えないものを抱えていた。

 そして先日は、馬鹿にもほどがある。一人、二人ずつを運べばバレないものを、大勢の女を運ぼうとするから、さすがに目を付けられ捕まった。―本当に要領が悪い馬鹿どもめだ―自分ならもっとうまくやる。自信があった。

 そんな時に、役人一掃して新しく江戸詰め家老となった長嶋 直忠が、エスパニア人のハビエルを連れてきた。

 病的に青白い肌をしていて、黄金色の髪、黄金色に光る歯を持っていた。青い蘭服からは何かを引きちぎった跡が見られた。それは、金でできていた服の装飾を長嶋が引きちぎった後だという。

 ハビエルは、自分の体は金でできているといった。殺してすぐに解体すれば金は取り出せるが少しでも遅れると金は消えるという。こんな珍しい体は将軍に献上する価値はある。と言って長嶋を丸め込み、長崎から大江戸までやってきたのだ。

 ハビエルの目的がなんであるかなど解らないが、うまくやったものだと感心した。長嶋はハビエルが時々手渡す怪しいものに酔っていて、もうすでに廃人のようにそこら辺に転がっている。早瀬はその匂いがどうにも我慢できずにその部屋には近づかない。

 そんな怪しい部屋にバカは近づきたがる。

 出入りを許している小越屋の知り合いで、蘭学者だが、いがいにもエスパニア語が少し理解できる近江という男の、表向き塾生徒に剣道の練習場の開放。という名目で出入りさせている。その塾生数名が、部屋に入った。

 まるで、「附子ぶす」だ。禁ずれば禁ずるほど人は欲が出る。

 小僧どものたちの悪さは、そのあとだった。急に吐き出したり、目を回して倒れたり、暴れたりする。死体は面倒なのでそこら辺に捨てたら、先ほどの役人、岡 征十郎に目をつけられた。あの男の従兄は、を寝取った男だ。侮ってはいけない。

 早瀬は出入りの自由にしている―一応中に居ろと言っているが鍵はかけていない―牢座敷へと行った。

 近江がそこに居て、格子に掴みかかっている。その頭にハビエルが手を置き何かを言っている。まったく理解できないエスパニア語だ。

 早瀬が来て、近江が立ち上がる。

「熱心は良いが、同心がうろついているぞ」

「同心?」

「岡 征十郎という同心だ」

「……そうですか。彼もなかなかやりますね」

「知り合いなのか? 気をつけろよ。お前の処のガキどもが勝手に死んで迷惑しているんだぞ、それに、変に頭の回る女がいる」

 近江が早瀬を睨んだ。

「随分勘のいい女だ。邪魔したら殺さなきゃならないな」

 早瀬はそう言って隣の座敷牢を覗く。ぐったりしている長嶋 直忠。それに河内屋の宗次郎。旗本筒井の年寄り辻本の女中お滝。三人はうつろな目をしてそれぞれにぐったりとなっていた。

「しばらくは動かない方がいいな、」

 と言って立ち去った。

「彼は、これまでですね」

 近江がハビエルを見た。ハビエルは全く日本語が話せないと思っていた。だが、

「ここに居てずっと聞いていれば、解る。馬鹿どもの言葉はすごく簡単だからね」とほくそ笑み、「さて、優秀なるサタニズムの使者よ。我々は我々の国を作るために行動せねばならない」といった。

 その笑み、その声は氷室の下を流れる水のように薄暗く冷たかった。


 翠は恭之介と一緒に岡家を訪ねていた。征十郎は帰ってきたばかりで着替えもせずに向かい合った。

「お休み前にごめんなさいね」

 征十郎は「大丈夫ですよ」といった。

「私ね考えがあるの」

 恭之介の嫌そうな顔を見て、突拍子のないことを考えてそれを言おうとしているのだと解った。

「私、明日にでも、早瀬さんの居る長崎藩江戸詰め屋敷へ行こうと思うの」

「は? はぁ? 何を言ってるんですか! およしなさい、なぜそういう話しになったのか解らないが、……詩乃が何か言いましたか?」

「言わないわ」

 翠の顔は変わらなかった。

 恭之介が顔を撫で、

「今日、詩乃さんと一緒に居たら、早瀬が近づいてきたらしいな、お前が逃がしてくれたので、無理やり連れていかれることはなかったと聞いて、安堵したら、」

「だって、詩乃さんが不憫で」

 翠が口をはさむ。

「不憫?」

 岡 征十郎が反応する。

「だってそうでしょ? 知り合いが居るかもしれないのに、早瀬さんは返事をしなかった。居るなら会わせてくれてもいいじゃないですか。居ないなら、居ないと言えばいいだけなのに、不親切だわ」

「そういうから、早瀬について調べていたら、助川さんが説明してくれた。それですぐに説得したが、長崎藩邸に入って捜査できる術があるのかと言われ、」

 恭之介は説得に失敗したことを言い、翠は微笑んで座っている。

「……ありがとうございます。翠さん。私たちが不甲斐ないばかりに心配をおかけして。ですが、もし、あなたを送り込んだなら、私はこの従兄にどんな目に遭うかしれない。いや、詩乃にだって何を言われるか。それはできれば避けたい。確かに、あの屋敷に入るすべがなく、調べることが出来ずにいるのですが、そこを何とかするのが、この町を守る同心の務めだと思っています。あなたの好意と勇気には本当に感謝しかないが、どうか、そのことはすっかり忘れてください」

 岡 征十郎の言葉に翠は肩を少し落とし、

「いい案だと思ったけれど。そうね、私も、あなたが、恭之介さんや、詩乃さんに怒られる姿は見たくないわ。いいわ。忘れます。忘れました。さっぱりと」

 と微笑んだ。

「でも、現実問題どうやって侵入しますの?」

 岡 征十郎は腕を組んで唸った。

 翠と恭之介は顔を見合わせ、その場を帰った。


 岡 征十郎は寝っ転がり、肌寒くなってきた秋の夜空を見上げた。すっきり晴れた空に少し欠けた月が見える。あれは、十六夜か? 十三夜か? そんな風情すら忘れている。


 恭之介は翠を送り届け屋敷に帰ろうとしていた。

「橘 恭之介」

 呼び止められ振り返ろうとすると、いきなり銀の線がひらめき、とっさに恭之介も刀を抜いて横に引いた。

 鈍い感触があった。相手は思わず反撃され、しかも自身の刃よりも先に当たったことに狼狽え、後退りをして走り去った。

 追いかけようとしたが、相手に叩きつけられた提灯が無く闇を走ることに抵抗を感じた。それに相手は、

「早瀬」

 だった。


 恭之介は岡 征十郎の処へ行き、そのあとで助川の屋敷に出向いた。助川の下男の号令で、助川班の五人が集められる。

「では、その者は手負いなのですな?」

 恭之介は頷いた。

「これで調べられるというわけですね。橘様に切りつけるなど、愚かだな」

「そうだな、昨今の剣術大会で優勝をした方なのに」

 そう言われて恭之介は口の端を少し上げた。

 早瀬を取り押さえに行く。長崎藩江戸屋敷の捜索に向かう準備を慌ただしくする同僚たちを横目に、岡 征十郎は恭之介の側に行った。

「浮かぬ顔ですね?」

「……ああいう男だったかと思い出していた」

「どんな男だったんですか?」

「早瀬とは手習いの時から一緒だった。何かと、誰かと競い合い、相手を負かすことが好きな奴で、しかも、相手が立ち直れないほどの負かしようなのでいつも一人だった」

「立ち直れないほどって、」

「計算の速さを競った時などは、大差なくとも、その遅さでは役人にはなれないとか、とにかく嫌なことを言うやつだったよ。でもね、それは奴が貧しい下役人の倅で、そんな生活から抜け出すには人一倍の努力をし頑張ったからなんだ。その頑張りを知っているから私は早瀬の実力を買っていた。長崎藩に勤めると聞いた時には本当にうれしかったが、早瀬は私に祝われることを望んでいないようだったね、負け惜しみを言うなと言われたよ。そのあと、あいつは長崎へ行ったと聞いていた。大江戸にいるとは思わなかった」

「恭之介さん?」

「いや、心配はない。感傷に浸るのは過去の残像だ。今の早瀬は私を切りつけようとした男だ。捕まえてくれ」

 岡 征十郎は頷いた。


 用意が整い、助川班の同心と、捕り物係の総勢二十数名は夜の街を長崎藩江戸屋敷に向けて駆け出した。


 詩乃は南側の小窓の格子を透かした。もうすっかり秋で、虫がよく鳴いていて、時々入ってくる風が寒い。でも、こういうすんっとする空気が好きだった。

 いつだったか、秋の、そのすんっとする空気を楽しんでいた時、

「楽しそうですね」

 と笑って話しかけてきたのは近江 辰五だった。詩乃は両手を振り回しながら秋の風の説明をしたが、いつまで経っても近江には解ってもらえなかった。

「私には、そのすんっとする感じは解らないが、詩乃が楽しそうなのは解るよ」

 といった近江の目は、再会したあの日も変わってはいなかった。だけど、別れ際わざわざオランダ語で「さようなら、お元気で」というから、エスパニア語で同じ言葉を繰り返したら、舌打ちをした時の目は、詩乃の知っている目ではなかった。

 不意に、胸の底にざらっとしたものが走った。いやな予感というやつだ。

 詩乃は部屋の中を見渡す。見渡して何か解るわけではないが、何となく見渡す。その時、畳んでいる着物の上に置いた帯の上の根付が目に入った。

「いやな感じがするよ、」

 詩乃は素早く着物を着た。根付を帯びに止めさし、外に出た。

 どっちだか、どこだかまるで見当はつかない。胸騒ぎが大きくなる方角を探すために通りで回ってみた。だがそんなことをして解る能力など持ち合わせてない。辺りをきょろきょろとしていると、六丁目長屋のあたりの空が明るい気がする。それに合わせてそちら側から人が起きだしているような気配もする。

 詩乃はそちらに向けて走り出した。


 長崎藩江戸詰め屋敷に着いたのは、すっかり夜も暮れ、丑三つ時を目の前にしたころだった。

「勘定奉行評定組橘 恭之介さまを襲ったものが逃げ込んだとの報告があり、屋敷を捜索したい」

 という旨を言うが、門は開きそうもなかった。何度目かにそう伝えた後、下手人をかくまっていると判断し、門を壊すと宣言したのち打ち入る。

 驚いたのは、そこに居るはずの役人たちが誰もいなかったのだ。必要であろう警護人も、いろいろな雑務をするはずの役人も、世話役の女たちですらいないのだ。

 居たのは、座敷牢でうつろな眼で倒れていた長嶋 直忠と、河内屋の宗次郎と、女中のお滝だけだった。

「こちらの座敷牢も使われていた形跡はあるが、」

 方々を探し回ったが誰もいない。早瀬すらいない。

 昏睡状態の三人を小早川療養所に運び、再度探すがやはり痕跡がない。

「どこへ行った?」

 誰となく焦りを感じる。

「おーい、血だ」

 そう叫んだのは、細川の川原のほうに抜ける裏戸のほうを探していたものだった。

 裏戸の木枠に血の手形がついていた。ここから出たのだろうことが解る。

「どこへ行く?」

「……あ、近江の塾。多分、小越屋のほうへ行こうとするが、向こうには数名を向かわせておきましたので、」

 助川が頷き、数名は残って屋敷内の捜索。残りは茅原の掘立小屋へと向かった。

 六丁目長屋の通りに来た時、詩乃は町はずれへ行こうとする岡 征十郎たちの一団を見つけた。まだ一軒遠く、声を出すには、走ってきたせいで出ない。

 やっと六丁目の通りに出た時には、岡 征十郎たちはすでに町境の橋を渡り切っていた。


 掘っ立て小屋が見えた。踏み込もうとお互いが頷きあった時、中から早瀬が飛び出てきた。そのあとから、近江が刀を持って出てきて、大きく振りかぶった。

「やめろ」

 だが、声は近江に届かず、足がもつれて転げた早瀬の背中に近江は刀を突きさした。どれほどの強さでそんなことが出来たのか、信じがたい強さで、近江は早瀬の背中から刀を貫き、胸に出た切っ先から血が落ちる。

「辰にぃ」

 岡 征十郎も振り返った。

 詩乃が、何とか追いつき、役人を割って岡 征十郎の側に立った。呼吸が乱れ、汗が額に浮いている。

「辰兄ちゃん」

「詩乃、」

 同心が近江に一歩近づく。

 近江が早瀬から刃を抜き、切っ先を向ける。

「近づくな」

 近江は後ろ向きに掘っ立て小屋に入る。

「辰兄ちゃん、」

「詩乃、やはりお前をあの時殺しておくべきだった。お前の、その姿を、見たくなかった」

 戸を閉めた途端、掘っ建て小屋は炎を巻き上げた。乾燥した掘立小屋に火の手が回るのは早かった。

 詩乃がふらりと近づこうとしたのを、岡 征十郎はその体を抱きしめて引き留めていた。

 近江が見たくなかった姿。それは、詩乃が誰かとともにある姿だった。


 掘っ立て小屋からは近江の焼死体しか見つからなかった。割腹した跡があり、自決後焼かれたのだろう。火の回りを速めるためなのか、敷いていた筵や畳がまとめられており、さらにその上に布―たぶん、着物―などが置かれていた。初めから燃やすつもりだったようだ。

 長崎藩江戸詰め屋敷から、小越屋と早瀬の大麻と南蛮品の物流を示すものが出てきたおかげで、小越屋にも手入れが入った。

 いよいよこれをもって将軍直々に命令をし、長崎藩は大いなる役人人事異動が行われた。

 座敷牢で見つかった三人は一命をとりとめたものの、長嶋 直忠は記憶障害という重い後遺症のため長崎の実家で隠居することに。お滝は数日は何とか持ちこたえたが、朝になって心臓が止まっているのを発見された。

 宗次郎は、竹久がつきっきりの看病を行い、時々言葉が出にくいとか、物を持つ手に力が入らないとかそういうことがあるが、何とか無事に暮らせそうだ。

 その宗次郎の証言で、あの座敷牢のもう一つにはエスパニア人のハビエル・ヒメネスという男がつながれていたという。だが、そのハビエルは忽然と行方をくらました。

 宗次郎が言うには、ハビエルは饒舌に日本語を使って大麻を勧めてきたという。そのほとんどが、自分たちに罪悪感を植え付けないような言い方だった。隠している方が悪い。というような気がしたほどだといった。

 父親の河内屋徳兵衛を蘇生目的であったのに死なせてしまい、どうしていいか解らなくなって外に飛び出た時、近江先生が長崎藩江戸屋敷に入っていくのが見えた。相談したくて追いかけた。その時も、ハビエルは、

「お前は何も悪くないじゃないか、勝手に死んだ父親が悪い。お前に蘇生術を見せたその女が悪い。ほら、これを吸えば、すっかり夢だと思う」

 といった。宗次郎は逃げたくて、そしてそれを手にした。そこからは記憶があいまいすぎて、覚えていない。ということだった。


 ざらざらとして草履の底に当たる焼け跡に岡 征十郎は眉を顰める。

 近江の焼死体はすでに回収された。随分と派手に焼けたような畳の重なっているあとには、近江がここを燃やすために片付けた後が見られて胸が苦しくなった。

「近江は、この手段しか道はなかったのだろうか?」

 岡 征十郎はつぶやき、そしてそこを出た。

 出た瞬間、いよいよ本格的な冬がきそうな風が吹いてきた。それでも暖かな日差しが上にあるので、その混ざった空気の中に詩乃が立っていた。

「詩乃、」

「おや、お暇なお上」

 岡 征十郎は視線を伏せた。詩乃はそんな岡 征十郎に近づき、手紙を差し出した。

「近江?」

「今日届いた……読んでいいよ。別に隠しておくことなんかないから」

 岡 征十郎は静かに手紙を開けた。

 さすが塾を開くだけあってきれいな字が、流れるように書かれていた。


「迷惑をかけた。私はいったい何がしたかったのだろう? はじめは立派な医師になりたくて上京した。蘭学を学んでいたら、私など足元にも及ばない娘と出会った。その子はいとも簡単にすべてを覚え、答え、そして笑った。私は医者ではなく、その子のために生きたくなった。

 だが、その子は私など必要としていなかった。一人で生きていくためのすべを身につけるために蘭学を学び、医術を学んでいた。私は自分の愚かさを痛感した。それでも、まだ、その子の側に居れるならそれでよかったのだが、詩乃は長崎に行き留学するという話が出た。

 結局はそういうことをしそうだといううわさ話を私だけが鵜呑みにした結果なのだが、詩乃がいなくなるのならば私など存在する意味はない。居無くなる前に私のものにしたかった。だがそれは叶わなかった。小早川に、お幼い子供に手を上げるなど。と言われ気づいた。

 詩乃はまだ十を少し回ったほんの子供だった。私はすでに二十を半分過ぎていた。私の中に幼女嗜好と言うものがあるのか悩んだ。だがそれは相手が詩乃に限ったことであって、他のものなど全く必要ではなかった。

 私は詩乃が手に入らないのならば、そこに居られないと旅に出た。死に場所を探す旅だ。だが、私には学があった。学は私を無条件に助け続けた。無報酬で文字を教えたものから食料が手に入ったし、それを聞きつけた商家が私に職を世話した。

 そして小越屋と知り合い、小越屋から、長崎藩江戸詰め勤務となった長嶋と知り合った。

 その長嶋がある日、上機嫌にハビエルを紹介した。ハビエルはエスパニア人だ。そして偽の宣教師だ。あいつの姿は宣教師のそれだが、それは相手を油断させるためのものだ。あいつは相手の心をうまく誘導し、そして惑わすだ。

 リンゴは非常に甘く、そして止めることなどできない。禁断の果実は私の教え子さえも毒牙に掛けた。

 それでも私は息をしていること、生きていることを忘れていた。教え子に対して無条件な慈悲の心を持っていなかった。先生と慕ってくれていたのに。目の前で死んだ子を捨てることにも心は痛まなかった。

 それなのに、若い熱心な同心の言葉に私は自分が息をしていること、生きていることに気づいた。

 その同心は、私の行方を捜していた塾生に向かって、「仲間が死に、もう一人は生死をさまよっている。それを見捨てられるのか? あなたが学んだことは人を助けるためのものではないのか?」と言った。

 私は思い出した。詩乃に聞いたことがあった。何のために蘭学を学んでいる? と。すると詩乃は両手を広げ、

「あたしがそれを知っていることで、医術を必要としなくなればいいじゃないか。医術なんてものが大流行りする世の中は、大変な世だよ。だって大流行りしている世の中ってのは、飢饉だの、ピロリだのが大騒ぎしている。もしそれらを沈めたら、医者なんてものがいなくなれば、世の中は平和だと言えないかい?」

 と言った。私はその世界を作りたかった。詩乃と一緒に。そのために勉学に励んでいたんだ。

 私は息をしていること、生きていることを思い出し、そして、詩乃に再会したことも思い出し、そして、再会した詩乃が今の私を見て不甲斐ないと思っているだろうと思うと、恥ずかしくなった。私はいつまでもあいつの理想とする兄で居なくてはいけなかったのだ。

 私の罪は、私自らが罰する。これ以上、生き恥をさらしたくはない。

 ああ、詩乃よ。やはりお前は私の指針だ」


岡 征十郎は読み終えるとすぐに手紙を畳んで、包んだ。その音に詩乃が振り返ってみている。

「ありがとうね、止めてくれて」

 岡 征十郎が詩乃を見る。その後ろには崩れた小屋が見える。

「引き留めてくれた時、あんたの心臓の音が聞こえた。近江 辰五のもとへ行こうとしたあたしを止めたのは、あんたの生きている音だった」

 詩乃はそう言って微笑んだ。

「生きているものをみすみす死なすようなことは、お上にはできないんでね」

 詩乃はくすくすと笑い、「あんたらしい」と言った。

「でも、引き込まれそうだったのは事実だよ。行って一緒に焼かれる気はないから、引きずり出そうと思ったのかもしれないけど、そうなのかしら? 引きずり出して、お白州を受けさせてさらし者になるくらいならって思っていたかもしれない。解らないわ。でも、行きそうになってたし、行ってもよかった気もした。だからかねぇ、あんたの側に行ったの。ほかに、助川様や、杉崎の旦那だって、知った人は居たけれど、あんたほどあたしを止めるとは思わなかったから、」

「行くことはねぇよ。あんな奴のとこなんぞ」

「そうかね?」

「本当に大事で、好いているなら、側に居るだけで十分なはずだ。あれは、独りよがりだ。それじゃぁ、おめぇ、幸せにゃぁなれないさ」

 詩乃は片方の眉を上げ首を傾げる。

「なんだってそんな口調? まともには恥ずかしくて言えない?」

 岡 征十郎が鼻を鳴らす。

 詩乃はふふふと笑いながら近づき、「でも、本当にありがとう」と言った。

 秋の風に詩乃が髪を抑える。

「あ――――、男と女が逢引きしてるぅ」

 声のほうを見れば悪ガキどもらしい子供がわらわらと集まってきて、「逢引き、逢引き」とはやし立て始めた。

「バカを言うな、私は同心だぞ」

 岡 征十郎の言葉に蜘蛛の子を散らして走り去っていく。

「いいじゃないのさ、大人の男と女だもの、逢引きの一つや二つ」

「なんで私がお前なんぞと、」

「あら、随分ねぇ」

 岡 征十郎は顔を赤くして町へと戻っていく。それを詩乃が追いかけながら、「あたしじゃご不満かい?」と聞いて歩く。岡 征十郎は「知らぬ」と足を速める。

 さぁっと風が過ぎて詩乃が立ち止まる。

「どうした?」

 先へ行った岡 征十郎が立ち止まる。

「冬が近いこのすんって空気が好きなんだ」

 岡 征十郎は大きく鼻で吸い込んだ。

「なるほど、すんとした澄んだ空気だ」

 詩乃は微笑み、岡 征十郎の腕に絡みついた。

「や、辞めんかっ。離せ」

 詩乃を振り切り、岡 征十郎は今度は止まらぬ。と言いながら早歩きで行く。詩乃は声を出してそのあとに続く。


 ―そうだよ、辰にぃちゃん。こういうことなんだよ。すんって匂いは。冬の澄んだ匂いが少しだけ早く来る時に感じる、少し冷たくて澄んだ空気。辰にぃちゃんはそれをあたしと共有できなかったけれど、岡 征十郎は共有できた。ただ、それだけだよ―


 空気が澄んできて、空が高く、だが、ずっと北の方には、重い灰色の雲の気配がしてきたころ。茅畑の茅もすっかり刈り時と見える。そのうち、この道のわきに刈った茅を立て並べ乾燥する茅道ができるのだろう。とうとう冬が来るようだ。


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