第10話 そら豆饅頭

 岡 征十郎は朝早くに奉行所に向かった。助川に昨日詩乃と話した内容を報告しようと思ったのだ。だが、助川は出勤時間を過ぎても来なかった。


 助川は奉行所同心詰めに行く前に、勘定奉行である自室に来ている報告書に目を通し、定評同心に仕事を振り分けていた。そしてそれが済むと、同心詰め所に行くのだが、その廊下で、同じく勘定奉行職に就き、勝手方奉行―財政、民政を取り仕切り、助川たちの公事方勘定奉行(訴訟関連)を取り仕切るところとは全く異なる―の相田 助信が助川を呼び止めた。歳が近く、同時期に勘定奉行支配奉行職に入ったので別職とはいえ顔見知りではあった。

「相田殿? 久しぶりですな。こちらのほうに何か御用でも?」

「久しぶりだね。実はね少し、なんというかね、相談があってね。少し用立ててほしくてね」

 相田の言葉に、助川は先ほど出たばかりの自室に相田を入れ、

「人の多い廊下で用立ててとは、」

 と言いながら障子を閉めた。昔から明け透けにものを言うところはあったが、いくらなんでも、奉行職について同僚に金の無心に来るなど。助川は苦々しい顔をして、部屋を物珍しく見て歩く相田を見た。

「それで?」

 助川が極力小声で聞くと、相田は平気なほど大声で、

「実は女が絡んでいてね」

「お前は馬鹿か」

 助川が大声を出す。廊下では聞き耳を立てていたであろう連中がくすくす笑いながら通り過ぎて行った。始業を知らせる鐘が鳴り、足早に遠のいていくのが解った。

 相田が障子を開け、走っていく者たちに「ご苦労さん」と手を振る。それを引き入れ、助川はため息をつく。

「いったい、何をしたいんだ?」

 相田は高らかに笑った後、助川の方へ踵を返し、できる限り―あまり近いと相手は男なので寒気がするので―できる限り近づき、

「調べてほしい」

 と言った。

 その声に尋常でないものを感じ助川の顔つきも変わった。

「女をかどわかし外国に売ろうとして捕まった長崎藩開港掛与力の筒井から、お目付け役賀内に金が渡った。それを差し押さえ、長崎藩の罰金として回収したが、調べると、それ以上の金が流れていることが解った」

「長崎藩がどこかに横流していると?」

「貸し付けているんだろう」

「どこに?」

「戦争好きな連中だろう」

「戦を始めるのか?」

「混乱させ、幕府を転覆、日本を支配下に置きたい連中がいるようだ」

「外国?」

「エスパニアだと思うね」

「エスパニア?」

「ああ、今、長崎藩江戸屋敷に、オランダ商船に乗り込んでいたエスパニア宣教師という男が幽閉されているともっぱらの噂だ」

「なんだ、その詳細な噂は?」

「幽閉されている。ってところが噂なのかな? 自由に動き回っている。かもしれないな」

 相田はそう言って、自分の発想が面白いと笑った。

 助川が咳ばらいをすると、相田は首をすくめ、

「とにかく、このエスパニア人というのがあまりいい評判がない」

「宣教師でしょ? 評判て、」

「先の一件で問題になった大麻? だったか? あれの出所じゃないかということだ」

「どういうことだ?」

「オランダ商人はもちろん大麻の存在は知っている。だが、そんなものこの国に持ってきても無意味だと思っている。まぁ、オランダはずっと貿易してきたんでそんなものを使わずともいいからだろうが、英国は清をアヘンで腑抜けにし支配した。エスパニアは、いや、その宣教師は大麻を使って同じことをしようとしてるんじゃないかってな」

「たった一人の宣教師がか?」

「やつを乗せていたオランダ商船の船員の話しでは、別にどこの国でもいいそうだ。自分の理想郷を作ることがやつの夢だという」

「そのオランダ人は、」

「あぁ、信じるに値する連中だ。多分。……まぁ、自分たちが怪しくてそいつを縛っていたのに、そいつが身に着けていた金の装飾に目がくらんだ、今長崎藩江戸屋敷を取り仕切っている長嶋 直忠が、大江戸城への土産にと連れてきているという話だ」

「そんな怪しいやつを殿への土産に?」

「だから言ってるだろ、金の装飾だって。何でも、そいつ、歯も金でできているんだそうだ。そして、自分を殺してすぐでないと、体中にある金は取り出せないと言っているらしい」

「はぁ?」

「将軍様の前で人間の解体を披露するのさ。そうすればその場でわんさか自分の体から金が出てくると言っているらしい。だが、少しでも遅いと金は消えるという。だから、将軍の目の前でなければならない。だが、今将軍様はまつりごとでお忙しい」

「確かに」

「そのうえ、先の一件で将軍様の長崎藩への扱いが後回しになっている。それで、奴は生きながらえている」

「生きているなら捕まえるか? いや、幽閉されているのならば、あえて捕まえるまでもないか」

「いや、生きているなら殺してしまわねばならない」

「金が出てくるとでも?」

 助川が鼻で笑うと、

「いいや、危ないからだ」

 相田は神妙な顔にさらに神妙さを加えた。

「長崎藩江戸詰めの家臣が、いくら金の装飾に目がくらんだとしても、人を殺して金が出てくると信じれるか? 奴はそういった類のことを人に本気だと思わせる話術を持っているようだ。そして服の間に挟み込んでいた大麻を取り出し、見事に手懐けている。長嶋 直忠はここ数日顔を見せていない。江戸詰めの仕事は家臣の早瀬 保という男が行っている」

「では長嶋殿も大麻に?」

「そうだと思われる。小早川医師の話しでは、急激な中毒性がないが、中毒になるとなかなか大変だと聞く。もしそうであるならば助けださなければならぬし、大麻をすべて没収し、人を話術で操るその男をどうにかして取り押さえねばならない。捕まえていても、牢番、役人と奴に操られたら意味はない」

「確かに」

「いくら私が勘定奉行と言っても、勝手方、屋敷に捜査潜入などできぬ」

「だが、いくらの我々も何の怪しい出来事もなく藩邸には行かれぬ」

「そうだよなぁ」

 相田が声を上げた。

「そこなんだよ、問題は」

 相田はそう言って障子を開け放した。数名の役人たちが急に障子が開いてぎょっとしながら普段通り行き来をしていく。

「どうにかならんかねぇ?」

「どうにかと言っても」

「私は歯がゆいよ。こう、あと、少し、っていう感じがね」

 と空に手を伸ばし空を握って振り返り、満面の笑みで、

「とりあえず、何とかしてみてくれ。よろしく頼む」

 と頭を下げて去った。

 助川は深いため息をこぼす。

 同心詰め所の下男が不安そうな顔で向こうに立っていた。

「どうかされましたか? お奉行様でも、お金にお困りで?」

 というので、相田の最初の芝居もなかなか効果があるものだと思った。多分、相いれないものが来ると言えば誰でも気にはなる。何を話しているか、前を通っているだけだと言いながら聞き耳は立てて通っていただろう。だが、最初に、女のために金が要ると言えば、その相談なのだろうとみな思ったのだろう。そんな汚名を着ながらでも、不明金に対して正そうとするのならばそれに応えたいが、そうそう出入りが許される場所ではない。ましてや、噂でエスパニア人がいると聞きましたが、本当ですか? なんてことで立ち入れない。

 助川はため息をこぼしながら同心詰め所に入った。

 いろんな報告を受ける。岡 征十郎は最後にしたいので、と同僚を先によこすのをおかしいと思いながら、他の報告を受ける。

 岡 征十郎の番となり、岡 征十郎は懐から何やら書いた紙を取り出し、床に一枚一枚広げていった。

「最初は、あの、御荷堂おにどう寺裏で死んでいたゐち屋の店主です」

 岡 征十郎は昨日詩乃と話した通りの順で、説明を少し加え、昨日は気づかなかったことを微調整しながら話した。そのつど紙を床に落とし、それを十手で指しながら、その行為は助川班すべての者の注目を浴び、結局は皆でそれを取り囲むように立っていた。

 その中、半紙の上を岡 征十郎は行き来しながら説明を続けた。

「旗本筒井家年寄り辻本様の奥方の女中お滝、錺職人の寛太。近江塾に通っていた少年たちには大麻。この寛太の妻おみよは姉の紹介で小越屋と知合い、」

 と行ったり来たりし、説明が終わるころには助川は一点を見つめていた。

 「長崎藩江戸屋敷家臣早瀬」の文字。

「これは、こじつけですが、長崎藩江戸屋敷にはエスパニア人が幽閉されているようで、そのエスパニア人と、近江はつながっているのじゃないかと、」

 岡 征十郎はそう言って助川を見た。先ほどから、同僚たちは関心や納得の相槌を打っていたが、助川は無反応だったのだ。やはり、この推理は穴があるのだろうか? と思っていると、

「この、長崎藩江戸屋敷を探ってみる価値はあるな」

「ですが、屋敷の中はそうそう出入りはできませんよ」

 同心の一人が言う。全員が頷く。

「何とかして探るんだ。エスパニア人がいるか、長崎詰め家老長嶋 直忠がどこにいるか。その屋敷に大麻があるか」

 助川の言葉に緊張が走る。

「できればこの班だけの極秘だ。先の一件で長崎藩はあちこちから目をつけられている。そうそう動きはしないはずだし、動かないはずだ。探っていると解ればなおのことだ。もし、仮に、屋敷に大麻の被害者がいたりしたら助け出せない。とりあえず、手分けして、長崎藩江戸屋敷と、それから、宗次郎の居場所。あとは、この塾生たちが通っていた道場がどこかを調べてくれ」

 全員が頷きあい、それからは素早く行動に出た。五人の仲間は、二人が江戸屋敷の見張り、二人が宗次郎の行方を捜し、岡 征十郎一人が道場を探すことになった。死んだ家族と面識があるから名乗りを上げたのだ。


 岡 征十郎は数日ぶりにあの少年の板長屋に来た。相変わらず辛気臭いところだった。どぶ板が外れそこから下水が染み出ているから、そのあたり水たまりが出来ていてどうにも歩きにくい。

「ごめん」

 そう言って戸を開ける。線香の匂いが途端に押し寄せてきた。

 戸の側のところで母親が繕い物をしていたようで驚いた顔を上げた。

「あ、あぁ。いつぞやの、えっと、そう、岡様ですね?」

 母親はそう言って針を布に刺してわきに寄せた。明かりの節約で戸の側に座って繕っていたのだろう。部屋の中は非常に暗く、じめっとしていた。遺体はすでになかったので埋葬したのだろう。

「今日はどのような? 主人は職を探しに行っておりまして、」

 と恥ずかしい話です。と俯いた。

「すまないね。まだ下手人は捕まえられていないんだ。そこで尋ねるが、剣道場へ行った後塾へ行くと言っていたんだね?」

「ええそうです。毎日そうです。みんな」

「みんな? 塾の生徒はみな同じ剣道場へ行くんだね?」

「そうです。塾の先生が連れて行ってくれるのだとか、」

「その場所は?」

「……分かりません。立派な蘭学の先生だったもので、大人が辺りをうろつくと、これ以上生徒が増えると困るのでと言われて、そうなのだろうと聞きませんで。本当に、不甲斐ない親で、」

 母親が両手で顔を隠した。

 岡 征十郎は母親を慰めそこを出た。

 療養所の子供に会いに行ったが、尋ねた途端に罵詈雑言、暴れまわり医師たちが今日は引き取ってくれと言われた。

 岡 征十郎は近江塾へと向かった。初めから行けばいいのだろうが、できれば会いたくなかった。近江の詩乃を見る目と、小早川から聞いた話で、どうしても近江の「詩乃を食べてまでも知識を得たい」ということが納得できず、そして嫌悪でしかなかったからだ。

 小さな橋を渡ると急に田畑が広がり、人気がまばらになる。途端にさみしいと感じるそこに、薫子が向こうから歩いてきた。かなり怖い顔をしている。

「薫子、殿?」

 薫子は岡 征十郎を見て睨みつけ、

「あなた方が近江先生を悪者扱いするから、塾生は辞めるし、先生はどこかへ行ってしまったのよ」

 と言った。

「近江が逃げた?」

「逃げたのじゃなくて、あなたたちがひどいことをしたのよ!」

 岡 征十郎は眉をひそめた。近江が行きそうな場所を薫子が知っているとは思えない。もし知っていれば、こうして自分に突っかかっては来ないだろう。

「近江が子供たちを連れて行っていた道場はどこだか知ってますか?」

「知らないわ。知っていても言うものですか、先生を悪者呼ばわりするような人、」

「あなたと同じ塾の生徒が死に、一人は今まさにそのために療養中だというのに、そのほうは心配じゃないのですか!」

 薫子はぐっと息を詰まらせた。

「で、でも知らないもの、私は、剣術をしないから」

 薫子が急に泣きそうな顔になった。

 薫子に在ったものは、年の割にある知恵という誇りで、だがそれは近江が与えてくれたもので、理解しているかと言えば理解できていない。それを隠すために虚勢を張っていただけだ。岡 征十郎の大声と、人が死んだ事実と、死にそうな知り合いが居る事実に、あっという間にその虚勢心が崩れたのだ。

「名前だけでも、何か知らないか?」

「わからない。知らない……でも一度お武家様が来たわ。早瀬という人だった。狐みたいな顔をした人よ」

「早瀬……」

 岡 征十郎は天を仰いだ。近江は長崎藩江戸屋敷とつながっていたのだ。エスパニア人の宣教師と遭っていた可能性だってある。そうすると、宗次郎は、あの屋敷にいるのではないだろうか?

 岡 征十郎は薫子のほうを見て、

「あなたにはあなたに合った勉学があると思いますよ。蘭学は素晴らしいがすべてではないし、蘭学以上の何かを習得すれば、あなたも良縁に恵まれるでしょう。他人の受け売りを披露するのではなく、心から知りたい、学びたいものを学ぶべきです。それでは」

 岡 征十郎はそう言って頭を下げて踵を返し走り出した。一刻も早く長崎江戸屋敷へ行かなければならない。行って、何とかして、屋敷の中を捜索しなければいけない。


 詩乃は肩から息をついた。

 その日、急に六薬堂に岡 征十郎の従兄いとこたちばな 恭之介きょうのすけ許嫁いいなずけであるすいが訪ねてきて、詩乃を店から連れ出したのだ。

「なんで、あたしなんです?」

「だって、わたくし詩乃さんのこと気に入ったんですもの」

 うふふ。と笑って、かわいらしい人。なんてそうそう居ないだろう。この人はその数少ない人だと思う。

「先日ご一緒できませんでしたでしょ? ですから今日は二人で行こうと思いましたの。とてもおいしいお饅頭屋さんなのよ」

 苦笑いを浮かべる。翠は詩乃の腕に絡むようにして歩いた。そこまでしなくても行きますよ。というほどで、でもそれが翠には面白いことのようで、それを楽しんでいた。

「加納 翠殿ですね?」

 狐のような顔をした武士だった。細い目を細め笑っているような感じも受けるが、詩乃にはどこか冷たく、狡猾な印象を得た。

「私、橘 恭之介君と、」

「まぁ、恭之介さまのお知り合いですの? それはそれは、許嫁の翠です」

 男の眉が素早く上がった。

「許嫁、」

「はい」

 花やかー。という表現がぴったり合う笑顔を見せた。

「あの、どちらさまでしたか?」

 詩乃が聞くと、初めて詩乃がいることに気づいたようだった。町人風の詩乃に、多分、下女だろうと思いながらも、

「失礼。私は、橘君とは違い、長崎藩江戸屋敷に勤めている早瀬というもの」

 と言った。

 翠はご丁寧にと頭を下げたが、詩乃は黙って早瀬を見た。

「それで、ここでは何ですから、わが屋敷も近いですしどうですか? 屋敷には珍しいものもありますし、あなたに似合うものもありますよ。そう、それに、橘君も呼んで、ますから」

 早瀬はずっと見ている詩乃の視線に気づいて恭之介の名前を出した。

「まぁ、でも、今日はよしておきますわ。だって、今日は詩乃さんとご一緒しますの」

「で、では、そちらも一緒に、」

「今日は、女だけなんですよ。だって、いざ結婚しますともう出歩けませんもの」

「あ、いや、珍しい南蛮の品とか南蛮人もいますし、」

「今日は遠慮いたしますわ」

 翠はそう言って頭を下げ、過ぎ去ろうとした。

 早瀬はぎりっと奥歯をかみ、翠を掴んで強引にでも連れて行こうとするような顔をして、翠のほうに振り返った先に、大きな男が立ちはだかった。

「あら、お暇なお方」

「珍しいな、お前がこのようなところにいるのは」

 岡 征十郎だった。

 翠を背後に隠し、早瀬との間に身を滑らせたのだ。

「嵐がきそうだ」

「放っておいて。別にあたしが出たわけじゃなく、翠さんに、」

 岡 征十郎は初めて気づいたように首だけ振り返り、

「おお、これはこれは翠殿。今日は恭之介さんはご一緒ではないのですか?」

「今日は詩乃さんと一緒にいますのよ」

「この女と一緒にいて楽しいですか?」

 岡 征十郎の言葉に、詩乃は早瀬の横を過ぎ、岡 征十郎の隣に立ち完全に会話から早瀬を締め出すようなに立った。

「失礼な男だね、まったく」

「それで、二人でどこへ?」

「おまんじゅうを食べに瀬戸屋って水屋に行くの」

「……それならば早くいかないと、今日の分があと少しだと言っていましたよ」「まぁ、大変。ぐずぐずしていられないわ。行きましょ、詩乃さん。それではね。征十郎さん」

 翠が詩乃の腕を引いて歩きだす。

「そうだ、早瀬様? お敷に珍しい南蛮人がいるのって、本当ですか?」

 詩乃が振り返って早瀬のほうを見る。早瀬は目の前の岡 征十郎を見て黙り、

「居ない。そんなものは居ない」

 と大声を出した。通りを行き交う人が早瀬を見る。

「あら、嘘でしたの? 結構期待しましたのに。残念ですわ」

 翠の言葉に早瀬は言葉を絞ったが、踵を返して立ち去る。

「早瀬殿? 早瀬殿の屋敷に、近江塾の生徒と、近江先生は剣術で通っておられるかな?」

 早瀬の歩みが一瞬乱れた。だがそのまま歩き去った。

「饅頭、なくなるぞ」

 岡 征十郎が振り向いて詩乃に声をかけた。


「私はやっぱり征十郎さんがいいわぁ」

 翠と水屋に入り饅頭を頼んだ。水屋のまんじゅうは売れ残るほど作られていた―とはいえ、夕方には完売するらしい―。多分、岡 征十郎が早瀬から逃がすために言った嘘だろう。

 縁台に並んで座っていると、翠が先ほどの言葉を口にしたのだ。

「何がですか?」

「だからね、もし詩乃さんが結婚するのならば、征十郎さんがいいと思ったの。そうなれば私毎日お屋敷に通うわ」

「いや、無理でしょ」

「何が? 何が無理?」

「いや……それは、」

「以外だわ。詩乃さんが身分とか気にするとは思わなかった」

 詩乃は鼻で笑い、一口の小さな饅頭を一個口に入れた。

 ここのまんじゅうは通称そら豆饅頭というらしく、そのくらいの大きさにしたものを十個でひと箱売りをしている。店先の縁台で食べるなら、せいろで蒸した温かいものが食べれるようになっていて、若い娘たちでにぎわっていた。

「近江先生という人、詩乃さんの良い人?」

「え?」

 翠の言葉に詩乃が翠を見る。早々に十個食べた翠に、詩乃は六個差し上げて、その六個を笑顔で受け取りもうあと一個しか残っていない。翠は笑顔だがそれは楽しいという笑顔ではなく、話しやすい表情の笑顔だった。

「そうでは、」

「そう? 征十郎さんも、詩乃さんも、近江先生の名前を出したとき少し、なんていうかな、征十郎さんは嫌そうな感じ。嫌そうとも違うなぁ。でも解るのは、詩乃さんの前でその名前を言いたくないって顔をしてた。詩乃さんは、その名前を聞いて胸が痛くなるような顔をしていたわよ」

 翠の言葉に、確かに、岡 征十郎に近江先生と言われると胸が痛む。なぜだかはっきりとした理由は解らないが、岡 征十郎が痛々しく言うからだと思う。

「そうですかね?」

 詩乃はそう言って空の木箱に目を落とした。

「何があるのか私には解らないけれどね、でも、私にだって解ることはあるのよ」

 と微笑んだ。それが何かは「言わない。言わない方が楽しもの」と微笑んだ。

 翠はそら豆饅頭を気に入り、

「えっと、うちの家族でしょ。それから橘の家、あと、岡のうちにも持っていきますね。だからぁ」

「そんなに買うんですか?」

「駄目?」

「駄目ではないですけど、一度に買ってしまったら、せっかく買いに来た他の方の分がなくなりますよ」

「あら、本当。気づかなかったわ」

 とコロコロと、本当にコロコロと笑った。


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