第9話 岡 征十郎、真相を整理する
岡 征十郎は眉をひそめた。
六薬堂は閉められており、「瀕死のものに限る」という文字が貼ってあった。いったい何事だ? と思っていたら、戸が開き中から番頭が出てきた。
「ああ、岡様。ご苦労様です」
「いったいどうした?」
「あ、あぁ……少しいいですか?」
番頭は中をちらっと見てから歩き出した。岡 征十郎はそれについていく。番頭は辻向こうの茶屋まで行き、そこの縁台に腰を掛けた。岡 征十郎も隣に座る。
「昨日何があったんです? 今朝来たら、詩乃さん、居なくて。昼過ぎに帰ってきてから、機嫌が悪いというか、見たことないですよ。いったい何があったんです?」
「何、と言われても、」
岡 征十郎はずっと寝ていた。熱による三度目の着替えの後、さっぱりしてぐっすり眠れ、そして朝風呂に入って仕事に出てきたところだ。帰宅時間に日課のように六薬堂の前を通って帰っていただけだ。
番頭は眉をひそめて岡 征十郎を見るが、―この人に嘘がつけるとは思えないしね―とため息をつき、
「今朝来た時には詩乃さんいなかったんですよ。往診箱がなかったんで、てっきり岡様の処へ行ったのかと思いましたが、」
「来ていないし、来るわけないだろ。多分、薬を飲んでとにかく寝ろ。という意味であの袋に書いていたのだろう?」
「まぁ、そうですね」
「そのあとで、誰かに呼ばれて出かけたのだろうか?」
「往診箱を必要とするような、容態が急変するような患者はいませんけどね」
「昼に帰ってきたと?」
「えぇ、どちらへと聞いても何も言わず、黙ったまま怒って、いや、怒ってというか、なんというか、ただただ不機嫌で、店を閉めろ。と言い、墨をずっと擦ってます」
「少し心当たりがある」
岡 征十郎は立ち上がる。番頭も渋々立ち上がり、
「今日は、私はもう引き上げようかと思いますよ」
と言って別れた。
岡 征十郎は小早川療養所に居た。具体的なひらめきはなかったが、昨日会った近江と三人が同期として学んでいたことで、何かしら話しをしに来たかもしれないと思ったのだ。
小早川先生は本日最後の患者を診ているというので応接間に通された。暫くすると小早川先生が顔を出し、
「少々容態を診たい者がいるので、もうしばらく待ってくれ」
と声をかけて居なくなった。
立派な床の間に「山是山水是水」と掛け軸があった。見事な書体だ。思えばこの部屋に来たのは初めてだ。いつも、庭先から失礼して患者を運んだり、解剖を待っている。
「待たせてすまない」
そう言って小早川先生は入ってきて向かいに座った。
「詩乃は大丈夫だっただろうか?」
「え?」
「ん? 詩乃は君の所へ行ったから来たのだろう?」
「いえ……、私は、……六薬堂が休んでいて、番頭が言うには、昼過ぎに帰ってきてから不機嫌でものも言わず、ただ店を閉めろと言ったきりだと、番頭も居心地が悪く帰ろうと思っていたところに私が通りがかりどうしたものかと尋ねられ、ここならば何か知っているのではと思い、」
「そうなのか……、私はてっきり君の所へ行ったものと思っていたよ」
「いえ、……日中は奉行所の雑務に追われておりましたので」
「そうか……、では、君は詩乃を直接見てはいないのだな?」
「何があったんです?」
小早川先生は今朝のことを話した。旗本の奥方が大麻入りのまんじゅうを食べて、詩乃はその付き添いでやってきた。奥方の容態は大したことはなく落ち着いたので、そろそろ帰す予定だということ。大麻入りのまんじゅうを所持していた女中は小越屋の知り合いだ。何でも、その旗本では以前からそこの薬屋を懇意にしていたので、その流れで働かせるようにしたのだということだった。奥方が間違って食べた騒動の中、その女は行方をくらまし、今もまだ見つかっていないということだった。
そして、容態が安定していると話した後、詩乃から近江 辰五の名を聞き、懐かしさと、詩乃も大人だからと思って話したが、やはり衝撃が強すぎたようで、話したことを後悔している。と言った。
「……近江は詩乃をそれほどに―つまり食べて取り込みたいほどという意味で―欲していたのですか?」
小早川先生は腕を組み、「私には理解できないがな、」と前置きして、
「そういう欲求というのはあるらしい。相手を思う気持ちが大きかったり深かったりすると起こるようだ。それは詩乃も知っていた。
だが、知っている。解っているのと、自分が当事者になるのとでは大きく違う。私だって、近江が取った行動が、相手に対して自分の意思を伝えたい。相手に認めてもらいたいという衝動から来ること。というのは書物を読んで知ってはいるが、では、自分が誰かにそう想われたり、誰かをそう想ったことがあるかと言えば。一度もない。
いや、妻は居るよ。でも、妻は私の気持ちを知っているし、妻の気持ちも知っている。別に相手に過剰に認めてもらいたいとか、他人、それが子供であっても、話していることが我慢ならない。なんてことはないからね。
何が言いたいかというと、私も、詩乃も頭でっかちなんだよ。知っているし、解っている。それがどんな行動をとるかも、だけど、当事者になって初めてわかる「本当」があるんだよ。それに気づいた時、一種の不安に駆られる」
「不安? ですか?」
「自分の知識が嘘、偽り、無駄なものなんじゃないかということを感じる。
普通はね。岡君。そういう体験は医者になってすぐだったり、研修医中に起こるんだ。頭でわかっていても手が動かず、処置が遅れそうになったり、知っている知識を総動員してもどうしてもうまくいかないときとか。それを乗り越えて独り立ちするんだが、詩乃はそれすらも上手く切り抜けて今に至っているところがある。大きな壁や落とし穴に落ちたことがないんだよ。頭は良いが、それは、その知識を他人に使う時には有効というだけだ。だけど、こればかりは自分で乗り切るしかないんだが、私も、いくら詩乃が年齢的に大人だと言え、少々考えなしだったと思っていてね」
小早川先生は肩を落とした。
「……詩乃はどんな様子でした? 聞いた後、どんな様子でした?」
「驚いていたよ。そうだろうね。兄貴だと思っていたものから殺したいほど慕われていたなど気づくわけないからね」
「そのあとも、ずっと驚いて? 怒ったり、怖がったりは?」
「無かったよ。ただ茫然としていて、奥方を私に頼んで帰っていった」
「そうですか。では、帰り道で何かしらの心情の変化で機嫌が悪くなったんですね」
「あぁ。そうだね。だが、帰り道に機嫌を悪くするようなものが起こるかい?」
確かに、道を歩いているくらいで店を閉め切り、怒りをため込むようなことが起こるはずもない。
「そう、なると、」
岡 征十郎は頭を回転させた。普段以上に頭がよく動いているような気さえした。その原動力が詩乃に関わることであっても、今は、この運動が心地いいとさえ思えた。
「大麻入りのまんじゅうでしたか?」
岡 征十郎は、そう言えば。と思いだした。多分、役人としてはそちらの報告のほうが大事だと思われる。それをすっかり聞き流してしまうところだった。
「ああ。饅頭の底をくりぬいて餡を取り出し、そこに詰めていたようだ。奥方はしばらく食事制限をしていてね。
そういう病気で、詩乃の指導のもと食事制限をしていたらしい。順調にいっていたので詩乃も忘れていたほどだった。それが、女中がおいしそうにまんじゅうを食べているのを見て、」
「その女中は食べたのですか?」
「いや、そう言っていたが、」
「食べたのに、奥方のように具合が悪くなっていない?」
「……そうだね。女中はそれを吸引する。基本大麻は吸引が主流だからね」
「ですが、奥方は食べていたところを見たのですよね?」
「……。ない。とは言い切れないと思うが、いや、でもさすがに……吸引よりも、大量に口に入れれば効果は高くなる。と思ったら、食べるかなぁ?」
小早川先生は八、二の割合でないと思うがと付け加えた。
もし、そのないと思われる行為をしたとしたら? 奥方は大麻を一度も吸引したことはないし、そんなものに触れたことがないから拒否反応が強く出て、すぐに吐き出したのだ。と言った。もし、常習者で、吸引をするはずが、誰かに見つかり、慌てて食べたら?
「そうですよ、仕方なく食べるしかなかった。奥方に持っているところを見つかり、とにかく口に入れてしまおうとしたら? 取り上げられ、食べられては困ると思って、だが、それが逆に奥方にとがめられ、奥方が取り上げて食べてしまった。そうだとすると?」
「……女中はどこかで倒れている可能性があるね。あれは相当量だから」
「その女中は、小越屋の知り合いだと言いましたね?」
「そうらしい。旗本筒井家の年寄り辻本様の家の御用聞きだということだ」
「旗本の年寄り、ですか」
「あぁ。だが、事情も事情。詩乃の知り合いだと言えば話を聞かせてもらえるかもしれぬ。そう。侍女頭の松野という女は詩乃を信用していたので、その女なら事情を組んでくれると思う」
「また、詩乃、ですね」
岡 征十郎がぼそっとこぼし、気合のように膝頭を打って立ち上がろうとした。
「詩乃を支えてくれたまえ」
「……あの女に私など、何の役にも立ちませんよ」
岡 征十郎はそう言って小早川療養所を後にした。
つくづく、この身分社会が嫌になる。大名屋敷のこの通りを歩く時、旗本の家が軒を連ねるあたりを歩くたびに、その門先に立っている門番にすら「場違いな奴が来た」という目で見られる、この窮屈さ。いつだったが詩乃が、何もしてないくせに看板に守られた中身のない連中。と言ったが、そう思わないわけではないが、生まれ出る家もやはり運の良しあしなのじゃないかと思う。旗本の長男に生まれるか、浪人の家に生まれるか……。あの子は幸せだと思って死んだのだろうか? 親にすら看取られず、川原なんぞで死んで、さぞかし悔しいだろう。
旗本筒井家の門番はたびたび市井―下の世界―のものが来ることを善しとはしなかったが、話を通してくれると、辻本家の侍女頭が辻本家にすんなり入れてくれた。
人が大忙しで動いていた。
「奥様が療養所から戻りましたね、一緒に来てくださいました進藤先生が、あなたは詩乃さんの知り合いで信用なるものだから、というので、奥様も承諾してお待ちです」
岡 征十郎は恐縮して奥様が寝ていると言われた部屋に向かった。
布団の側に進藤先生が座って手首を手に取っていた。岡 征十郎の姿を見てほほ笑み、
「容態は安定しているけれど、興奮させてはいけないからね」
「少し聞きたいだけです。できれば、進藤先生も同席で、具合が悪そうならば退席します」
岡 征十郎は縁側廊下に座って頭を下げる。
「南町奉行所同心岡 征十郎と申します」
「詩乃さんには大変お世話になっていたのに。心配をおかけしてしまって」
岡 征十郎は小さく頭を下げた。
「お聞きになりたいこととは?」
侍女頭の松野が口をはさむ。松野はよく心得ているのだ。旗本の奥方には二種類あって、律して武家の妻の鏡となろうとする人と、生まれながらのお嬢様気質が抜けず何一つ自分でできないものとがいて、自分の主であるこの奥様は後者なのだということを。だから、口を出したのだ。
「居無くなりました女中の人相の詳細と、あと、小越屋からの紹介だと聞きましたが、いくら御用聞きの店とはいえ、一
「そういうことは松野に聞いて」
奥方のわかは言った。
「では、奥様。失礼ですが、あの饅頭は横取りしたくなるほどおいしそうでしたか?」
わかは真っ赤な顔をして「なんというやつ。私が卑しい行いをしたことをそのように馬鹿にして」と甲高く叫ぶ。
松野も一緒に進藤医師と落ち着かせるために抑える。
「いえそういう意味ではありません。よく思い出してほしいのです。町でそこらじゅうでものは売っています。旨そうだとは思うが、人のものを奪いほどではない。それは、それほど魅力的に見えた。ということでしょう? どのように見えたのですか? 私には普通のまんじゅうにしか見えませんでしたので、」
わかはいらいらと布団を握りしめていたが、岡 征十郎の話しを聞き、少しは落ち着きながら思い出していたようで、
「そうね、最近は匂いも、見ても、以前ほど食べたいと思わなくなっていたのに、なぜあれだけ我慢ならなかったのかしら」
「そうです。そこです。女中がおいしいと言っていたのですか?」
「いいえ、何も言わなかったわ。私が何を持っている? と尋ねたら慌てて口に放り込むものだから、」
「放り込むまで饅頭だとは思わなかった? もしくは、それを奪うまではな饅頭だとは思わなかった?」
「いいえ、随分前から饅頭を持っていると解ったわ。そう……、家の庭―西にある内庭で池があるので池の庭と呼んでいる―そこの廊下へ行ったの。何で行ったのかしら、西の棟になど用はないのに……。そう、あれよ。今度お茶会をするので茶器を出そうと思って、西の部屋に置いてあったのを出そうと思って、そしたら、女中が庭に降りて、池の側で饅頭を手にしていてね、こう、両手で持って、それを割って、それがね、とてもおいしそうな顔をしていたの」
「食べていたのですか?」
「いいえ、割って、箱に戻していたわ。そう、箱に戻していたのよ」
「食べていないのに、おいしそうな顔をしていたのですか?」岡 征十郎の言葉に、
「本当、変な話ね。でも、食べてはいなかったわよ。ええ。絶対。でも、本当においしそうな顔をして、おいしそう? おいしそうという顔ではなかったのかしら?」
わかが松野に聞く。松野は「私に聞かれましても」という顔をした。
「ですが、おいしそうな顔に近かったのですね?」
岡 征十郎の言葉にわかは暫く考え、
「そう聞かれると、似ていないのかもしれないわ。……あぁ、一度だけ見たことがあるわあの顔。吉川様の処のお嬢様が輿入れの時に、旦那様となる方を見た時の顔だわ。お二人は幼馴染で相思相愛で、今でも仲が良くてね。その時の、なんというの、そういう顔、」
「うっとりですか?」
進藤先生の言葉にわかは手を叩いて「そう、それよ」と言った。
あとで聞けば、わかは政略結婚で、子供は三人産んだが、亭主である辻本はほとんど家に寄り付かず、今も愛人宅で生活をしているという。男子を生んだので本宅に住んでいるという話で、詩乃が食事制限をしていた病、過食症の原因だといった。
部屋を侍女たちがいる台所の側の控えに移し、岡 征十郎は松野と他の侍女たちに話を聞くことにした。
「それで、居なくなった女中とは言うのは?」
「もともとは、小越屋さんで働いていたようで、仕事ぶりはよかったですよ。しっかり動きますし。人当たりもよかったですし」
「仲の良かったものは?」
「それがいないんです。人当たりはよくて、よく話をしたけれど、お滝さんと言う名前で、小越屋さんの紹介できた以外何も知らないんです。半年もいましたのに」
「半年いてそれ以外のことを知らないのですか? 外に友達がいるとか? 休みの日に何をしているかとか?」
「ええ。この娘はおせきと言いましてね、そのお滝と同室のもので、何か知っていることはない?」
「知っていることはほとんどなくて、親はすでに死んだとか、大きな飢饉の時に。困っていた時に小越屋さんが拾ってくれたと言っていました。あ、好きな人は居たようです。ただ、お武家様だからなかなか会ってくださらないとか、南蛮の珍しいものをいつかいただけるんだと言っていました」
「武家? 南蛮? そんな人と出会えるものですか?」
「ええ、長崎藩の江戸詰めの方たちの長屋がすぐそこで、その、桜並木の向こう側です。今年の春に桜をめでていた時に近づきになりましてね。そう、あの方は何と言いましたか、とても印象の良い方。あれこれと珍しいお菓子をおすそ分けしてくださいましてね、こちらは何分男ばかりで、甘いものが余ってしまって。とおっしゃっていた方、えっと、誰でしたかね、」
松野の言葉に岡 征十郎に嫌な緊張が走る。
「そう」松野は手を打ち「早瀬様と言いましたわ」と言った。
岡 征十郎は体に倦怠感を感じていた。歩くたびに肩が重くてしようがなかった。まるで、先ほどまで負ぶっていた妹が急に寝静まり、同じ体重でありながら寝た途端重くなるような、そんな重たさを持って、息を吐き出し、戸の閉まっている六薬堂の戸を叩いた。
閂を開けに来た詩乃は確かに怒っているような不快感をにじませていた。
小上がりに半紙はまだ白紙のまま重ねられ、墨の擦った匂いだけが充満していた。
「どれほど擦ったんだ?」
墨が親指ほどの長さになっている。
「知らん。それで?」
「考えをまとめに来た。まだ風邪が抜けきれないと見えて頭の整理が追い付かない。お前が墨を擦っていると聞いたのでな」
「墨ぐらい自分で擦りなよ」
詩乃の言葉のとげが少し和らいでいくようだった。
だが、岡 征十郎はとげのある詩乃の言葉を懐かしいと、出会った時を思い出していた。
「あぁ、姉上が、字がきれいだとほめていた」
「あ、……どうも」
ほめられ慣れていない詩乃はそっけなくまた墨を手にした。
「それ以上擦ったら、書けなくなるぞ」
「そういうがね、あたしも、頭の中がぐちゃぐちゃで」
「だから、二人で整理しよう」
岡 征十郎も小上がりに座った。
「まず最初は? 御荷堂寺裏の茅場で死んでいた男。だろうね」
「あれもそうなのか?」
「杉崎様に聞いたが、あの男、小間物問屋の
「ゐち屋、新宿へ抜ける道沿いの?」
「そう、あの宿場町へ行く手前に店を構え、大江戸土産やら旅道具やらを売って儲けていたところさ」
「お前、小越屋がゐち屋を殺したと?」
「それは知らない。でも、主が死んで店が傾く間もなく買い叩いたんだよ? おかしいと思うよね?」
「なるほど」
「それで、小越屋には、」
「辻本家女中のお滝」
「居なくなった女中だね?」
「ああ。両親とも飢饉で死んでいるそうだ。小越屋に拾われて、小越屋で働いていたせいか仕事ぶりはよかったそうだ。そしてこのお滝は、というか、この、辻本家の庭をはさみ、桜並木の向こうは、長崎藩江戸詰めの屋敷で、春に両家は合同で花見をしている。そこで、早瀬という家臣と知り合っている。お滝に好きな人がいて、名前も誰も知らないが、武士らしいということと、南蛮の品をいつかくれる約束をしている相手だということだ」
「長崎がまた出たねぇ」
「そうだな……、この長崎藩江戸詰めの屋敷そばには細川って川が流れていて、お前に、開かずに死因を探ってもらった子が死んでいた場所だ」
「その子は私塾近江に通っていて、今、小早川療養所で治療中の少年は大麻の常習者だ」
「大麻と言えば、このお滝が持っていた饅頭がそれで、奥様はえらい目を見た」
「欲を出すからだよ」
「うっとりしていたそうだ」
「はぁ?」
詩乃が顔を上げる。岡 征十郎が半紙に書いていく文字を見るために顔を近づけていたので、二人の顔の距離は近かった。それに気づいた岡 征十郎は座りなおし、
「おいしそうだったのではなく、うっとりとしていたのを美味しそうだと思ったのだそうだ」
「まったく違う顔じゃないか」
「あの奥方は政略結婚だ。相手を好いて、惚れて、とする前に辻本様は愛人宅へ。子供はすべて乳母に取り上げられている。そういう感情を持ったことがないから解らなかったと言っていた」
「でも、うっとりと言ったんだろ?」
「一度見たそうだ。知り合いが結婚をするとき、お互いがそういう顔をしていたと。見ていて幸せになって、あれが欲しいと思ったのではないかと、松野が言っていた」
「なるほど。……あの奥方はすごく寂しくてね、やり場のないさみしさの吐け口が食べる行為だったんだ。だけど、食べれば食べるほど罪悪感が生まれ、無理やりにでも吐き出す」
「食べて吐くのか?」
「そういう病気なのさ。無理やり食べて、無理やり吐くものだから、この胸あたりにある食道って場所は荒れているだろうし、胃だって相当参っているはずだよ。みんなおかしいと思うけど、相手が相手だからね。まぁ、更科尼ほど気の利かない相手なら、ずけずけと物は言えるだろうけど。とにかく、誰も何も言わないままだったんだよ」
岡 征十郎は、更科尼の名を聞き、それが誰で、詩乃とどういう関係なのか知りたくなったが、それは今ではないと言い聞かせて、
「療養所にいるな、もう一人、錺職人の寛太だ」
「あぁ、そう。そう……、妻のおみよの姉が紹介したのは小越屋だ」
「はぁ?」
詩乃はしばらく思い出し、頷き、
「そう言っていた。すっかり忘れてたわ。おみよは、寛太が働くなって―大麻のせいでやる気を失っていたからね―それを姉と大家に相談した。姉が小越屋に連れて行き、眠れる薬と称して、薬にも毒にもならない薬を処方した」
「なんだ、その薬は?」
「ちょいと鼻水が出て困っているんです。という程度なら、」
「あ?」
「うちの主人、ちょいと鼻が出てね、寝冷えしちまったようで。と言われたら、効能は低いが風邪の引き初めに効く薬を売ることはある。症状がはっきりしているからね。くしゃみが多いとか、咳き込むとか。でも、寛太のように、不意にぼうっとして仕事をしなくなった。だるそうだったのに、急に出かける。帰ってきて泥のように眠る。なんて、いったいどんな症状だと思う? 仕事のし過ぎで疲れているんだろう? と思うじゃないか。そういう時には、疲労回復に効くようなものを出したり、整腸の類を渡すんだよ」
「まったく関係ない薬じゃないか」
「だからいいのさ。効果が見られない。改善が見られないとなると、本人が来るからね。泥のように眠るのが本当に仕事から来る疲労なのか、寛太の場合は大麻だったけれど、それを見ることができる。本来なら、よく解らない症状の時には薬は出さない。もしくは薬にも毒にもならないものを渡す」
「じゃぁ、小越屋は正しいというのか?」
「普通ならばね。でも、これは、確かに、正常のものならば毒にも薬にもならないよ。でも、寛太のように正体があやふやなものに、粉なんて飲ませて、果たしてちゃんと飲めるかどうか。気道をふさぐ可能性があるからね」
「療養所で薬は飲んでないのか?」
「飲んでないよ。飲ませれるわけないじゃないか、よくないものが体中にあるのに。それをすっかり排出させるために、水を飲ますけどね」
「じゃぁ意図して小越屋は?」
「それはどうかな。ただ、ちゃんと症状を聞いたり、ちゃんとした医術を学んだものが売っているようには思えない」
「なるほど、そこいらはよく解らないが……。小越屋は辻本家の御用聞きだ」
「近江 辰五はその小越屋からオランダ語の翻訳を頼まれている」
詩乃の言葉に岡 征十郎は動きを止めた。
詩乃も同じく動きを止め、しばらく同じ姿勢でお互いを待った。
「何を気遣っている?」
「……考えているだけだ。ほかに、居ないか、」
「河内屋の息子の宗次郎も近江塾の塾生だ」
詩乃はそう言って紙に書く。その文字から岡 征十郎は小越屋のほうを指さし、
「河内屋も薬問屋だ」
「河内屋は、おかみの竹久さんがしっかり切り盛りしている。宗次郎が帰ってきたときのためにとね。店の者も宗次郎は勉学好きで、だが、人付き合いが苦手がゆえに不幸だったと理解して待っている。そう、宗次郎を見つけ出さないとね」
「近江塾に人の隠れそうな場所はなかった」
「小越屋に連れて行ったとか?」
「子供が何人も薬問屋に用はないだろう?」
「そうだよねぇ。……剣術を習っていなかった?」
「……あぁ、みな皆、剣術後に近江塾へ行くと、」
「どこの剣術道場?」
「いや、聞いていない。そこも親たちに内緒なんだろうか?」
岡 征十郎は腕を組む。
「つながりはないかもしれない。いや、こじつければつながるかもしれないが、」
詩乃が近江の名を丸で囲み、それを南蛮と書いたほうに線を伸ばす。
「近江 辰五は、エスパニア語を理解し、そして、悪魔崇拝者だ」
「あ? 悪魔崇拝?」
「悪魔崇拝と言い切るには少々いびつなのだけど、だけど、サタニズムの中に自己の信ずるものがすべてだと。自己中心的なものの考え方って、それ以外のモノを排除しようとする傾向がある。その時に手っ取り早く、悪霊と名付けたんじゃないかと思われる」
「ちょっと待て、それ以外のものって、それと悪霊は別のモノだろ?」
「守護してほしい気持ちもあったんじゃないかな? 悪霊とは言うけど、苦手な人、苦手な事柄、嫌な仕事、そういったものを全て片付ける言葉がなくて、ただ嫌で嫌で仕方ない。けど、生きていくために働かなくてはいけないから、そういう時のために、自分を持っていられるようにするために、悪いものをすべて排除しよう。という意味で、悪いものすべてをとりあえず悪霊と呼び、排除すると唱えることにした。そんなところだと思う。それで精神の均衡をとっていたんじゃないかな」
「とれるものか?」
「さぁ。でもまぁ、多少なりあるよ。あたしだって、今日は草団子のために頑張る。と言えば、嫌な往診も出かけようと思う」
詩乃が首をすくめて笑った。
「あ、あぁ、草団子。旨かった」
「あぁ。あれ最後だったんだよ。この前の分と合わせてよ?」
岡 征十郎は煩そうに顔をしかめる。
「それでっと、この南蛮。エスパニア。噂では、長崎藩江戸屋敷にいるらしい?」
「近江はエスパニア語が解る。もしここにいたとしたら、」
「こじつけではあるけどね」
岡は立ち上がった。小上がりいっぱいに半紙が広げられ、丸で囲んだ名前から線がいくつも伸び、あちこちと結ばれている。目につく「大麻」の文字に詩乃が嫌そうな顔をする。
「お前の不機嫌の理由はやはり大麻か?」
「この間の一件と言い、人のすべてを壊すんだよ。殺しちまったら壊すも何もないけれど、でも、生きているのに壊れてしまっているんだ。そんなものを作ってどうする気だっていうんだい?」
「確かに、そして、今度は、年端も行かぬ子供だ」
「それだよ。何で子供相手に?」
岡 征十郎はふと鼻で笑った。話している緊張からかけ離れたその笑いに詩乃が眉を顰める。
「すまん。思い出したんだ。甘い薬? だったか?」
詩乃が首を傾げる。
「水瓶に水あめを入れて隠していた和尚が、小坊主どもにこれは大人は舐めるにはいいが、子供が飲むと毒だといったが、水あめだとバレてという話さ」
「あぁ、そういう話しがあるね」
「私の手習いでもあったんだ。先生が大変な甘党で、その人は薬だとかそんなことは一切言わず、ただ、自分用に戸棚に羊羹を入れていた。掃除をするように言われたものが一人それを見つけ、みんなでかじった。先生は後でみんなで食べようと思った。と言っていたが、ご自分のために買ったものだと思う。別に隠していなくても、子供というのはそういったものを見つけるのがうまい。特に、好きなものには触手が伸びる」
「じゃぁ、近江 辰五が隠していた大麻を見つけたと?」
「饅頭の形をしていたら、食うだろう?」
「だけど、あの小屋にそんなものを隠せる場所があった?」
「そうだ、あの掘立小屋にはなかったなぁ。では、剣道場か?」
「やっぱり、剣道場がどこなのか知る必要があるね」
「そうだな、とはいえ、もう暮れ六つだな」
鐘がなり、ほとんどが「夜」。つまりもうおしまいの時間だ。
「明日にでも行ってくる」
詩乃は頷いた。
岡 征十郎は詩乃の顔から、不愉快そうな気配が消えているのを見て草履を履いた。
「これをすべて明日、助川様に見せて説明する。口で言うより解り易いからな」
「どうぞどうぞ。ごみにしかならないからね」
詩乃はそう言ってキセルに火をつける。
「俺にとっちゃぁ、それも毒だと思うがな」
岡 征十郎はそう言って出て行った。詩乃は鼻を鳴らして閂を閉めた。
草履が通りを遠ざかっていく音がして、詩乃はくすりと笑ってキセルを口から外した。
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