第8話 近江私塾
岡 征十郎と同僚の同心杉崎が薫子の屋敷へ行こうと奉行所を出たところに薫子が不承不承とした顔で立っていた。
「か、薫子殿?」
「同心が近江先生を探していると、近江先生がお聞きになって、協力しなくてはいけないからお連れするようにと」
心から同心に協力的でない態度に苦笑いを浮かべながら、岡 征十郎と杉崎は薫子の案内を受けた。
そこは、まっすぐ抜ければ鎌倉河岸へ行く六丁目長屋のある道だった。そして、その東側二つ向こうには細川が並行して流れている場所でもあった。
「おお、六薬堂の?」
杉崎がふと声を出した。岡 征十郎が慌ててそちらを向いた時、薫子がぎりっと歯を食いしばった顔を見た。
「あら、旦那方、ご苦労さんです」
「お前さんも、さっきはご苦労」
「いえ、まぁ、うちに来たお客でしたからね」
「それで、店に帰るところか?」
「ええ、おカミさんのほうの容態は安定したし、両親が健在でしてね、母親のほうが付き添ってくれるというのでね」
「そうか、おみよは大丈夫か、」
岡 征十郎がぼそっと言うと、詩乃は微笑んで頷いた。
「そうだお前、奇妙な言葉が解るんだったよな?」
杉崎が言うと、詩乃が眉をひそめて、やっと、薫子が居ることに気づく。―この娘はなりは派手だけど存在が薄いねぇ。自分の意志というものを持ってないせいかねぇ―と思いながら、
「多少の心得は、」
「今から、近江という男の開いている私塾へ行くんだ。それが例の解らない言葉かどうか判断してくれないか? どうも俺はそれを忘れちまったな」
詩乃は杉崎、薫子、岡 征十郎と見て、「よぅござんすよ」と言った。
それから三人は薫子の後について歩く。
「なんで断らない?」
岡 征十郎が小声で効く。
「会ってみたいじゃないか。このご時世にエスパニア語を話せるやつを、」
―それに、あたしが居ることで不機嫌なこのお嬢ちゃんが面白いし、それに動揺する岡 征十郎も面白いから―とは言わず、詩乃は歩いた。
六丁目を抜けると、田んぼがあり、細川とぶつかる土手に茅の畑が広がっていて、その横に掘っ立て小屋よりは立派だが、十分掘っ立て小屋と呼べる小屋に案内された。
ここが私塾の場所か? と思ったが、それを察した薫子が、
「ここだから、塾料を支払わずに勉学ができるのですよ。どこかで開けば賃代がいるでしょう?」
そんなことも解らないのか? と言わんばかりだが、私塾を開いている武士のほとんどが自宅開放だ。場所を借りて開くほうが珍しい。とは言わなかった。薫子が非常に機嫌悪いのが解ったからだ。
「ただいま戻りました。同心をお連れしました。あと、余計なものも」
最後のは詩乃のことだろう。詩乃は苦笑いをし、杉崎は小さく笑った。ささやかな抵抗と言ったところだろう。
「ご苦労、ご苦労」
そう言って奥から学者風貌の男が出てきた。総髪頭はぼさぼさで、着ている着物も流行とはかけ離れた古い柄だった。
「ここの責任者をしている近江です」
男は頭を下げた。なかなかの大男だった。岡 征十郎も大きいがそれに負けていなかった。
「辰兄ちゃん?」
詩乃が思わず声を上擦らせる。
「……って、し、詩乃? あの詩乃か?」
近江は裸足で詩乃に近づき、その肩に手を置いた。
「おお、詩乃だ。変わらないなぁ」
「辰兄ちゃんは変わってしまったようだね、何だい、この腹」
そう言って詩乃は近江の腹を小突く。近江は笑って後ずさりをし、
「いやぁ、驚いた。何だ、詩乃は同心の方たちと知り合いなのか?」
と大声で笑った。
近江塾内。生徒が数人が書道をしていた。部屋の隅の近江専用の机の側にまとめて座る。
「詩乃とは蘭学医術の時に一緒に学んだ仲なんですよ。そう、小早川も。詩乃は私よりも十も下の癖に私よりも頭が切れ、あっという間に吸収してしまう。まさに神童でしたよ。今は何をしている? 小早川のところで女医をしているのか?」
「いいや、六薬堂って薬屋をしている」
「へぇ……まぁ、そうだな、女医なんぞしたら、すぐに割腹して患者と大喧嘩がオチだな。……この子はね、西洋の進んだ医術を学びたいと、西洋へ行く船に入り込んだりしたことだってあるんですよ。すぐに見つかってつまみ出されて、私が何度も迎えに行ったんですから。お前は、医術を知っていれば、医術を必要としない世が作れる。と言っていたな。医者が忙しいなんて世の中は不幸だと」
近江は懐かしそうな目で詩乃を見つめた。
詩乃もそれを見返していたが、「Bueno」とつぶやくと、近江は視線をそらし、
「そういえば、何かお聞きになりたいことがあったようですが? なんでも、私が塾生に悪いことをしているとか、怪しいことを教えているとか? どうぞ探していただいて結構ですよ。ですが、見ての通りの掘立小屋、何もないですよ」
近江はすっと立ち上がり、両手を広げて見せた。
確かに、掘っ建て小屋にボロボロの畳―と言っていいかどうかすら怪しい―を四枚敷いている場所に生徒が、近江の机の下に一枚、あとは筵を敷いただけのそんな場所だった。探す場所すら無いような場所に岡 征十郎と杉崎は顔を見合わせる。
とりあえず形だけの捜索をしたのち帰ることになった。
「お役に立てることが何もなく残念です。亡くなった生徒たちがどこで何をしていたのか私もできる限り探ってみたいとは思いますが、いかんせん、私はここで仙人のような生活をしていましてね」
「塾生からお金を取らないと聞いたが?」
「ええ、皆貧しいですからね。ですが、貧しさを理由に勉学を取り上げるのはおかしい。学びは武器であり財産です。誰にも奪われることのない財産ですからね」
近江はそう言って微笑んだ。立派な意見だと感心したが、岡 征十郎は隣にいる詩乃との関係で複雑だった。
「とはいえ、運営費や、お前も生きていかなくてはいけないだろう?」
「それは、」
薫子が胸を張って、
「先生は、小越屋さんの依頼で、蘭文で書かれている薬を訳したりしておいでですもの。無償でいいというのを、小越屋さんがたくさんあるからって、」
「薫子さん、」
近江が薫子を睨む。
薫子はなぜ止められたのか解らなかった。近江の善良と素晴らしい仕事ぶりを知らしめたいだけだったからだ。
「薬屋の小越屋さん?」
杉崎の言葉に近江は笑顔で頷いたが、あまりいい笑顔ではなかった。
「そうですか。……いや、また何かあれば聞きに来ても?」
「え? ええ。私で何とかできるなら。ですが、薬などのことなら詩乃のほうが得意ですよ?」
「そうでしょうが、塾生のことはあなたに聞くほうがいいでしょう?」
「あぁ。そうですね。もちろんです」
「では、お邪魔しました」
杉崎はそう言って歩き出し、岡 征十郎は頭を下げ歩き出す。詩乃は最後に近江のほうを見て頷き、踵を返そうとした瞬間、
「Tot ziens. Wees voorzichtig.」
近江が言う。
詩乃は少し間を開けて、「Adiós. Cuídate」と言った。
近江が、舌打ちをした。
詩乃はずっと黙ったままだった。岡 征十郎と杉崎はその流れで六薬堂のほうに一緒に付いて行った。
「気に入らない」
詩乃はそう言って小上がりに上がると、キセルを火箱に打ち付けた。
「まぁ、若い娘のほうがそりゃ、」
「それじゃないよ……、そうかぁ、近江っていうんだ知らなかったよ。さっきも話してたけど、十違うと、あだ名や下の名前しか覚えられないんだ。辰五。辰年、辰日の宵五つに生まれたんで辰五。って聞いた覚えはあったなぁ」
詩乃はキセルにたばこを詰める。詰めながら、番頭にもう店を閉めてと合図を送る。
「気に入らないのはね、辰兄ちゃん……近江 辰五のあの姿だよ」
たばこは詰めたが詩乃は火をつけずその先で灰をかき回す。
「近江 辰五はそうねぇ、いなせな人だったんだよ。医学堂にいたころには、どちらかというと小早川先生のほうがぼさっとしていたねぇ。今も変わらないところもあるけど。近江 辰五は女の患者さんにもモテてたよ。火事があってけが人を大量に収容した時には、重症者だけっていうのに軽傷でもやって来てたぐらいだし、女どもが治療してほしくって取り合いになって、たいしたことなかった怪我が大ごとになったりして、お前は医者には向かないとか言われてた。それがどうだい? あんな熊か、ぼろ雑巾かのような姿、」
詩乃は口惜しそうに吐き出した。
「あの男は何かやってそうか?」
杉崎が聞いた。詩乃がゆっくりと杉崎のほうを見上げる。
「大麻を広めているか? ということについてはしていないと思う。だけど、広がっているということを知っていると思う」
「黙認しているか。生徒が死んだことは?」
「そうだろうと解ってる。そう。解ってるよ。だから同心を連れてこいと言ったんだろうね。自分は無実だろうと安心したかったんだろう。自分はやっていないんだから」
詩乃の言葉に杉崎は頷き、「あの姉ちゃんは? えっと、薫だっけ?」
「薫子さん? あれは……夢に夢見るお年頃ってやつだね。あの頃の年の子には多いもんだよ。正義だの、改革、革命、そういったものに憧れている時にそれらしく云う人に師事している自分に酔っている。自分は他とは違うってね」
「まぁ、そういう感じだな。よかったじゃないか。岡、あの子にフラれて」
杉崎はそう言って大笑いをして岡 征十郎の肩を叩き、
「お前、まだ顔色が悪いから今日はこれで帰れ。報告は私がしておく」
と帰っていった。
番頭が戸を閉め首をすくめる。
「風邪薬、調合してやろうか?」
詩乃の言葉に岡 征十郎は小上がりに座りながら、「要らぬ」と言った。
杉崎の手前我慢していたが、実はかなり前から目の前が揺れていたのだ。杉崎がいなくなるとどっと疲れてそのまま座り込んでしまった。
魚の匂いだ。焼き魚だ。さんまの匂いだ。
岡 征十郎が目を覚ました。六薬堂に居たはずが自分の部屋に寝ている。庭でさんまを焼いている匂いが漂ってきていたようだ。這い上がって障子を開けると庭で姉の幸と、二人の妹、孝子と洸が一緒になってさんまを焼いていた。
「あら、征十郎さん、気づいた?」
「母上、兄上が起きましたよぉ」
妹たちがにぎやかに奥へと走っていく。その声に岡 征十郎が顔をしかめる。そういえば、薫子は孝子とそう違わないはずだが、孝子はまだまだ幼く、身内びいきに見ても世間ずれをしてない無垢そのものだ。あと数年で薫子か詩乃のようになるかと思うとぞっとするが。
「私は?」
岡 征十郎は何とか縁側に胡坐をかくと、幸はため息をつき、
「六薬堂の方がね、店で具合が悪くなられたようだって、駕籠をよこしてくださったのよ」
「……、番頭ですか?」
「……そうじゃないかしら? 詩乃さんじゃなかったわよ」
岡 征十郎が「ぐっ」というのを幸はくすりと笑い、
「余計なお世話だと思いますが、岡様は熱が高いようですので解熱作用のあるお薬をお持ちしましたって。店の主が調合しましたって。そう言っていたわよ」
そう言って枕もとを見る。岡 征十郎も枕もとを見て、「風邪薬。熱。鼻水。鼻詰まり。一日三回、一回一包。食後に水または白湯で飲むこと」と書かれた紙袋があった。
「とてもきれいな字ね。読みやすいし、解り易く書かれているわ」
「…そうですね」
「私はね、いいと思うのよ。別に」
「何がですか」
「さんまがいい具合に焼けたわ。あなた食欲ある? おかゆにしてもらいましょうか?」
そう言って丸々とした、いい色に焼けたさんまを目の前に翳した。
夕餉のさんまは大変美味しかった。やはり、秋にはさんまを食べるべきだ。
岡 征十郎は天井を見上げてそう思った。
布団の中が少し熱くなってきたが、寝る前に母から、
「なんでもね、汗をかいて熱を追いやる方がいいのですって。小早川先生にわざわざ聞いてきてくだすったそうでね、汗をかいたら着替えてを繰り返すといいらしいの。ですから、ここに着替えをたくさん置いておきますから、少し熱いくらい我慢して汗を出しなさいね」
と言われたので、「汗、汗、我慢、我慢」と唱えながらじっとしていた。だが、暑さを気にすると、ずっと暑く、汗が出る前に布団を蹴りたくなる。このままではいけないと、暑さを忘れるため別のことを考えようと思う。
「つまりだ」
岡 征十郎はつぶやいた。いつだったが、以前、何かの事件の時に眉間にしわを寄せていたら、
「そうすることで他人の意見として脳が整理を始める。しかも、できる限り物事を知らぬ相手に説明するようにすると、難しい話をより単純化して理解できる」
と言っていた。ばかばかしいと思いながらも、暑さを忘れるために声に出す。
「死んだあの子と、小早川療養所に隔離されていた子は同じ近江塾の生徒だ。待て、まず。近江塾は蘭学塾だ。そこに通っている生徒の一人は死亡し、一人が具合が悪い。一人は薫子殿。近江塾の運営はオランダの薬の翻訳で稼いでいる。確か、小越屋。越中の薬問屋だったな。でっぷりと腹の出た男が店主だった。最近はやりのオランダ薬の輸入で成功している問屋だ。これはオランダ。だが、隔離されているあの少年はエスパニア語を話していた。エスパニア。そう、錺職人の寛太もそうだ。あと、エスパニアは? そう、長崎藩江戸屋敷に幽閉されているかもしれないエスパニア人。長崎藩江戸屋敷……早瀬という家臣。いやな感じを受けたな。いやな感じ……」
岡 征十郎はそう言ってため息をついた。
近江が詩乃を懐かしい相手を見る以上のもので見ていた目。詩乃も近江に対してそれに似たものを抱いて見ていた。ばかばかしい。嫉妬など。と思っても、どうにもこうにも居場所がない。
近江に対して、詩乃のこと抜きで観察できなかった。すぐにでもその視線の前に立ち塞がろうかと何度したことか。
「ばかばかしい」
岡 征十郎は起き上がる。首筋からぼたぼたっと汗が流れ落ち、太ももに垂れた。ため息をついて着物を着換える。脱いだ瞬間、恐ろしく寒気を感じ、慌てて着込んで布団にもぐる。少し湿った布団がすぐに熱を出してくる。また汗を感じ着替え、それを三回目繰り返したころには、汗の量も減り、随分と気分が楽になった。
「熱が下がったのだろう」
枕元の詩乃が書いたらしい文字が目に入る。そしてすぐに近江と向かい合っていたあの詩乃の顔を思い出し、深くため息をつく。
―全く不甲斐ない。女一人に―
それは突然だった。まだ夜の明け切らない早朝、詩乃は戸を激しく叩かれて飛び起きた。叩いていたのは空蝉だった。
「どうしたの? こんな朝に?」
「辻本の奥様が大変です」
すっかり忘れていた。と思わずつぶやき、とにかく着替えを済ませ、往診用の箱を掴んで用意されていた駕籠に乗った。
門の前では女中が待っていた。大急ぎで部屋に駆け込むと、侍女頭の松野が蒼白した顔で、泣くのを我慢した顔で待っていた。
「朝早くに申し訳ございません」
「そんなことは良いよ。それよりどうしたのさ?」
「それが、昨日の、昨日まで奥様は食べることを我慢されてました。好きだったお琴を始めたり、昨日まではお詩乃さんの言うように何とか我慢できていましたのに、」
松野が言葉を詰まらせ、何とか涙をのみこみ、
「その、侍女が隠し持っていた饅頭を見つけられたとかで、」
「饅頭?」
「はい。それはもう美味しそうに食べようとしているのを見て、どうにも我慢できなくなり、取り上げ、その場で一口で食べたようです。その途端、噴水のように吐き出し、」
吐いたもののほとんどは片づけたらしいが、この部屋で吐いたものはすぐそばの桶にあった。ちらりと見て眉をひそめ、
「おおよそでいいけど、食べた饅頭はすべて吐いたと思うかい?」
「そうですね、残っていたものはこれですが、大体これくらいは、」
そう言って握りしめて変形した饅頭を差し出した。詩乃はそれを手にし、匂いを嗅いだ。
「これを隠し持っていた女中は?」
「あ、これ、これを持っていたものは? 呼んでまいれ」
松野の号令で女中がパタパタと動いたが、「それが、どこにもおりませぬ」と報告を受ける。松野が顔を赤くして「よく探すのです。人がいなくなるわけないでしょうが」と甲高く言う。
「……、その女中の身元は、解りますか?」
「え?」
「どなたかの紹介とか?」
「大事ですか?」
「探す手引きにはなりますでしょう?」
詩乃に言われ松野は退席し女中のことを探しに行った。
「奥様? 六薬堂の詩乃です。いかがですか? あたしの声、聞こえますか?」
辻本家の奥方わかは唸った。
「詩乃か、とても、苦しい」
「一応意識はあるから、このまま小早川先生のところへ行きます。ここではどうしようもできませんから」
「任せる」
そういうと、再びこみあげてくる嘔吐に逆らわなかった。
わかを小早川療養所にゆっくり、しかし素早く運ぶ。あの食べなかった饅頭も一緒に。
小早川療養所に着くと、わかは胃の洗浄を受ける。
治療室の外にいると、慌ただしく進藤先生たちが出入りする。
施術のめどがついたらしい小早川先生が出てきた。詩乃を見て頷きながら、
「だいぶ吐き出していたようだ。一度で済むし、少し大事をとって昼には帰れると思う。あと、饅頭だがね、想像通りだったよ。餡の代わりに入っていた。奥様は拒否反応で一気に吐き出したから助かったようなもんだね」
「まったく、よくあんなものを考え付く」
「本当に。そういえば、近江 辰五に会ったて? あぁ、夕方に杉崎さんが来てね、岡さんは大変だったようじゃないか」
「岡 征十郎はその後が大変だったんだよ。熱が出て店で倒れるし、」
「ほお。看病したのか? 店で留守番か?」
「家に届けたよ」
「そうか、つまらん」
「何が?」
詩乃が怪訝そうに小早川を睨む。
「それより、近江 辰五はエスパニアに興味があったのだろうか?」
「エスパニア? あぁ、そうだね、エスパニアというか、蘭学だけの知識ではだめだとは言っていたな」
「いつ?」
「……まぁ、お前も大人になったのだから、あの時のことを話しても大丈夫だろう。近江 辰五はお前を殺そうとしたんだよ」
詩乃は目を見開いた。
「お前の才能を妬んで。お前はあの当時、蘭学書をあっという間に覚えきった。私たちが五年、十年かけて覚えたことを、たった数日で。まだ子供だったから手術を手掛けさせることはできなかったが、手術を行う我々の前にお前はさらりとその術の説明をした。しかも完璧に。辰五はお前を殺そうという気はなかったのかもしれない。ただ、お前を取り込めばその知恵が手に入るとでも思ったのかもしれない」
小早川先生は首をすくめ、嫌そうに笑い、
「寝ているお前の首を絞めようとしたのを見つけ、皆で止めた。理由を聞いたら、仮死状態のままで食べれば知識が入ると思う。と言った。我々としては辰五を除名するしかなかったし、あのまま置いておけばお前が狙われると思ってお前はそのまま別の蘭学塾へと連れて行った。まぁ、お前はそこで習える最上限度の知識を得て皆の反感を買うわけだが、とにかく、我々はその時思った。辰五の精神が異常であると。辰五はすぐに我に返って、その時何かをつぶやいてそのまま出て行った。あとで奴の部屋を片付けた時、おぞましい絵を見た。黒い牛のような、でも角の生えている牛だ。赤い目をしていて、その瞳孔は縦に細かった。気味が悪かったので、全てまとめて焼いた。辰五とはそれきり会っていないのだが、」
小早川の言葉に詩乃は衝撃を受け暫くは身動きが取れなかった。
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