第7話 錺職人の寛太とおみよ
その日、朝から来た客がずっと居座っていた。居座ると言っても、店の真ん中に置いている陳列棚の上の白粉や香袋を手にしては置いて、などを繰り返すだけで、なんということはないのだが、それは小間物屋であれば不自然ではない行為だがここは薬屋だ。症状を言えばすぐに処方するし、番頭の前で言い難ければ詩乃に耳打ちすることも可能だ。そういう風にあちこちに貼り紙もしているのだから。だが、その人はただ同じことを繰り返し、時々ため息をついているばかりだ。番頭が声をかけようとするのを、詩乃が首を小さく振って止める。
ようやく客が動いたのはたっぷり小一時間ぐらいは過ぎていた。
「あのぉ。どういっていいのか」
客は番頭に言うべきなのか、詩乃に言うべきなのか分からず、陳列台の側で口を開いた。
客は女で、所帯持ちだろう。男物の手ぬぐい―夏に流行った青縞は男用。朱縞は女用の手ぬぐい。夫婦や妾などに送ることがちょっと流行した。安価な手ぬぐいなので、かなり売れたらしく、誰彼持っている―を持っていた。髪はしばらく結っていないらしく、崩れていたがそれでも梳いていたし、ちゃんとしたおカミさんのようだ。
「うちの大家さんに聞きましてね。ここに聞けばいい薬を安く売ってくれるって」
「ものにもよりますが、」
番頭が言うと、おカミさんは体をびくっとさせた。
番頭が素早く詩乃を見ると、詩乃は何度か頷き、
「最初からどうぞ。必要がないかもしれないところからでも。ゆっくり聞きますよ」
詩乃の言葉に、おカミさんは頷く。
番頭が小上がりに座布団を置くと、おカミさんは何度も頭を下げそれに腰かけ、番頭が持ってきた湯呑を包み込んだ。
「どうしたらいいものかと。困っていまして」
「あなたのこと?」
「いいえ、あぁ。そうですね。そう。えっと。ワタシ、おみよと言います。二番町長屋に住んでます。亭主は寛太と言って、
―浮気ですかね?―番頭がそういう顔でおみよを見る。
「このひと月ほど、仕事をしませんで。ずっとぼうっとしていて。仕事を張り切りだしたと思ったら、全くしたくないと床に伏せったり、仕事に出かけると出て言ったら、一晩、帰ってこなくて、それも、今まで何度かありましたから、錺職人ですけど、かんざしや根付と言ったものが主流ですけど、時々、長持ちに飾りをつけたいという人もいたりしましてね。そういう感じで、新しく家を建てる人が、何でも南蛮よろしくしたいのだとかで、壁に細工飾りをとか言いまして、まぁ、一日ぐらい帰ってこない日などは別に気にはしませんでしたが、つい先日、三日帰ってきませんで。昨日帰ってきたんですけど、もう、主人ではなくなっているようで。疲れているというような感じではなくて。どういったものか。そのまま倒れこんで、眠ったきりで、時々目が覚めると、寒気がするとか、喉が渇くとか、子供の声がうるさいとか言いまして」
「子供の声は煩いの?」
「いいえ、真夜中でございます。声などしません。貧乏長屋です。秋になると隙間風が入って、確かに寒かったですが、震えて眠れなくなるほどではございません。でも、今朝になって元気になったから出かけてくると言って出かけていきまして。心配で、姉に相談しましたら、
「今朝、小越屋さんに行ったんで?」
「いいえ、小越屋さんに行ったのは、三日、四日前だったかしら」
「なるほど。それで、薬を処方してもらった?」
「はい。よく眠れる薬というのを。仕事熱心な人は仕事に夢中になって、体は寝ているように見えるけど、頭は寝ていないらしく、ずっと起きているから体も休めていない。だから、頭も眠る薬だと」
「それを飲んで眠れました?」
「それが、さっきも言ったように、小越屋さんが怖い人で、信用できませんでね、飲ませてないんです」
「それなのに、うちに来たの?」
「姉に相談した時に、大家さんにも同じように相談してまして、大家さんは親も同然にワタシたちのことを知ってくれてますから、以前の寛太じゃないって心配してくれて、方々で聞いてきて、ここを紹介してくださって。大家さんの話しでは、とても親切にしてくれたし、いい薬だったというので、でも、仕事には行きましたし、仕事をしていると。思うんですけど、道具の手入れをしなくなってるので、大丈夫なのかと思ってもいたり、」
おみよは袂をいじりながらぼそぼそと話した。番頭は、詩乃を見た。詩乃の嫌いなタイプの女であるおみよを嫌そうな顔をしていたが、少し考えて、
「おかしくなったのはひと月前?」
と聞いた。
「え?」
「ひと月前に急に仕事をしなくなった?」
「え、ええ。そうですね。仕事のあるなしもありますけど、家でかんざしなど作れるわけですから、」
番頭には詩乃がイラっとしていることがよく分かったが、珍しく詩乃が息を吐いて平静を保ち話し続けているので口を出さなかった。おみよは男の声が苦手なようなので、できるだけ番頭が口を出すことはしたくなかったのだ。最初に声をかけた時にびくついたのでそれを悟ったのだ。
「じゃぁ、一月前に、家でやっていた仕事を急にしなくなった?」
「はぁ」多分、そうです。という相槌だろう。
「その日に何か変わったことはなかったかい? 例えば、外に出かけて行って、帰ってきてから仕事をしなくなったとか?」
「さぁ?」覚えてない。
「よく思い出してね。亭主は出て行って、元気に帰ってきたけれど、家に居るにしたがってイライラしたり、すぐにまた出かけようとしたりしなかったかい?」
「そうなんですよ。昨日の夜も、夜中だっていうのに出て行こうとするし、今朝はもう一番鶏より早く出かけていくし」
「仕事場は、どこだって?」
「え? さぁ。いろいろありますから」
詩乃は嫌そうにため息を落とす。
「あ、あぁ、小越屋さんの薬ってのは持ってきてる?」
「あぁ、はい、これです」
大家に言われ飲んでいる薬を持参すると、なお相談に乗ってくれると聞いたんで。とおみよは持ってきていた。詩乃は薬を受け取り、包を解いた。
「そうね、薬の持参は、よかったですよ。……、これ、よく眠れる薬と言われたんでしたね?」
「ええ、でも、小越屋さんが、」
「怖かったから、薬に対してもいやな感じを受けた」
おみよが大きく頷いた。
「ご主人を診ていないので薬を処方できないというのが本当なんですよね。下手な薬を出しても役に立たない場合もあるし。小越屋さんが言うように頭が寝ていない状態であるならば、」
「これを飲ませばいいんですか?」
「いや、これではもう効かないかもしれませんからね。一度、そちらに行きましょうか。ご主人がここへ来ることはしないでしょうし、」
「あらぁ。でも、いいんですか?」
「えぇ。どうせ、暇ですし」
詩乃はさっと立ち上がる。おみよはそれを眺めている。
「岡 征十郎……、誰かに知らせて、二丁町長屋に、」
番頭に告げると、おみよを立たせて長屋に向かった。
番頭は見送りに外に出てすぐ、近くで遊んでいた子供に、短文の文を番所の御用聞きの寅親分に渡してくれと頼んだ。
二丁目長屋は表長屋が呉服問屋で、そこで働いている人がいるところのようだった。
井戸端に数名奥さん連中が居て、帰ってきたおみよを見つけて、
「ちょいと、おみよっちゃん、寛太帰ってきたようだけど、なんか具合悪そうだよ」
と家のほうを指さす。
おみよは後ろをついてきていた詩乃のほうを見る。詩乃は頷き、おみよが戸を開けるのを待って、中に一歩入って、続いて入ろうとするおみよに、
「入らないように、どなたか、おみよさんを見ててもらえますか? それから、すぐに小早川療養所のほうに連絡入れて、すぐに荷車を回すようにと伝えてくださいな。症状は、緊急だと」
詩乃はそう言うと戸を開け放したままで中に入る。棟割長屋なので、入り口しか開放部がなく、じめじめしたうえに、寛太がまとっている甘いにおいが充満している。
詩乃は咳き込みながら外に出て、近所の人を遠ざけ、近所の人に借りた団扇で中を仰ぐ。
しばらく扇いでいたら、小早川療養所から若い医師、進藤先生が荷車を下男に引かせてやってきた。
「これは、なんと、」
「急ぎです。棟割だから、よく調べていないけれど、息はしているようです」
いびきの音がするので、詩乃と進藤先生は嫌そうに笑いながら頷き、進藤先生と下男は家の中に入った。入って寛太を肩に担ぎ、二人とも咳き込みながら外に出てきて、何とか寛太を荷車に載せた。
「調べてみないと解らないが、隔離が一番だと思う」
進藤先生の言葉に詩乃は頷き、荷車を見送った。
詩乃は近所の人に支えられているおみよの側に行き、
「ご主人が戻ってくるかどうかは、ご主人次第だ。暫くは隔離して様子を診ることになる」
「寛太は何なんです?」
茫然としているおみよに変わって近所の主婦が詩乃に聞く、
「まだ解らないけれど、あまりよくない状態ではあります。この家に匂いがこもっているんで、しばらくおみよさんを預かってもらえますか?」
「え? あぁ。そりゃいいけど、この、なんだか甘いようなにおいがよくないのかい?」
「ええ。気分の悪くなる煙です。寛太さん? が、通っていた仕事場ってわかりますか?」
「仕事場? そんなとこないよ」
近所の言葉におみよがようやく、「でも、仕事しに行ってくるって、いいところが見つかったって、小越屋さんの紹介で、長崎藩の江戸屋敷だって言ってたもの」と言った。
―聞いてるんじゃん―詩乃は苦い顔をしたが、ふと、おみよの顔を見て、長屋を見た。
そうだ、棟割長屋だ。窓がない、においのこもる場所。寛太の着物に着いた残留を吸い込んでいる可能性だってある。このうだつの上がらないようなしゃべり方も、ぼうっとした様子も症状だ。詩乃はおみよの両肩に手を置き、頭を下げた。
「あんたもだ……、ごめん、気づかなかった」
おみよは首を傾げていく。
そこへ岡 征十郎が走りこんできた。詩乃の胸が少し熱くなったが、
「においが消えたら中を捜索して、話は、小早川療養所へ、おみよさんは、あたしたちが連れて行くんで。二、三日は誰も中に入れないように」
詩乃がそういうと、寅は、へいっと返事をして長屋の人々を取り仕切り始めた。詩乃と、岡 征十郎はおみよをはさむようにして小早川療養所のほうに向かった。
おみよは症状は軽いが知らず知らずに大麻の受動吸引で情緒不安定や集中力の低下などが見られたが、すぐに回復するだろうという見込みだった。
亭主の寛太のほうは何とか持ち直しても、大麻による後遺症に悩まされるだろうということだった。
小早川療養所の庭。きれいに洗浄消毒された包帯や、布が干されている。
「それで? あいつらは?」
岡 征十郎の顔が少し赤いのが気になるが、詩乃は今朝おみよが来たところから話した。
「どうにもこうにもはっきりしないんでイライラしていたんだけど、それも影響下ならしようがなかったんだ。見抜けなかったよ」
「まぁ、お前が言うようによく在るものではないからな。気づかなかったんだろう」
納得いかないという顔をして腕を組む。
「あぁ、そうだ、忘れるところだった。寛太は長崎藩江戸屋敷に出入りしていたらしい……あぁ、もう!」
詩乃は頭をガシガシを掻いた後、岡 征十郎の右肩に手を置き、それを引き寄せ、額同士をくっつけた。
「やっぱりまだ熱があるじゃないか、あんたがそんなんだから、気が気じゃないよ」
岡 征十郎は突然のことに、目を丸くして、目の前の詩乃の顔を見る。
「仲がいいな、」
岡 征十郎はものすごい勢いで姿勢を正す。その時詩乃の手を叩いたので、詩乃が顔をしかめる。
小早川療養所の小早川先生だ。詩乃の医術の兄弟子ということと以外関係は解らない。
「仲がいいのはいいことだぞ」
岡 征十郎は咳ばらいをして顔をそむけた。
「どう?」
詩乃の言葉に小早川先生は縁側に座る。
「秋の風は良いな」と言って空を仰ぐ「なぁ、詩乃。私はああいうのは好きではないねぇ」
詩乃も同意して頷く。
「ああいうものが何で存在しちまうのかねぇ」
「いろんなものを見つける輩はいるからね」
「えすぺます。お前たちは悪魔だ。だそうだ」
「……またそれ、」
「どこの言葉だ?」
「エスパニアだと思う」
「……、噂では、長崎藩江戸屋敷にエスパニアの宣教師が幽閉されているらしい。オランダ商船に乗り込んで入ってきたのを長崎藩が捕まえ、事情を聴くために江戸に連れてきているという話だ」
「幽閉されているエスパニア人が、大麻を流すことはできない。では、長崎藩江戸勤めのものが?」
「それは知らぬ。無関係かもしれん。だが、……先日、少年が運ばれてきた。急に家で暴れはじめ、えすぺますを連呼していた。親が驚いて連れてきた。ものすごい力で暴れるんで隔離している」
「少年が?」
「あぁ、私塾から帰ってきた途端だったそうだ」
「私塾って、どこの、誰が開いている塾か解りますか?」
「さぁ。聞いてみるか?」
岡 征十郎は頷き、小早川先生と一緒に隔離している少年のもとへ向かった。
隔離とは言いようで、明るく清潔感あふれる牢屋だった。少年はその、二畳ほどの個室の隅に膝を抱えていた。
「聞きたいことがあるんだが、お前の塾の先生の名前を、」
「黙れ、悪魔!」
岡 征十郎がやさしく聞いたが、少年は少年らしくない声で言い放った。岡 征十郎がひるみ、身を仰け反らすほどの声だった。
「えすぺます、えすぺます」
少年が唱える。
詩乃がわざとらしく声を上げて笑う。少年もだが、岡 征十郎も、小早川先生も、そこに居た他の医師たちも皆が詩乃を見る。
「ちゃんと言わないと、ご利益ないよ」
「ちゃんと言っている。えすぺります、えすぺります」
少年の声が震えている。言えてないという自覚はあるようだ。
詩乃はマス目の格子に手をつき、
「そんな中途半端じゃぁ、意味がないよ。Espiritus malignos。ほら、ちゃんといいな。もしくは、先生に助けを乞うんだね。自分で悪霊を払えそうもなければ、ね」
少年は詩乃の言葉に目を見開き、わなわなと震えた後で小さい声で何かを言い出した。最初は聞き取れなかったが、徐々に、
「先生、助けてください。悪魔が来ました。近江先生、助けてください。悪魔です。もう、私の呪文では悪魔を退治することはできません」
と言った。
詩乃が振り返る。
「場所までは言えないと思う」
岡 征十郎は頷いた。
やはりどうやっても薫子に近江先生とやらが開いている私塾の場所を聞き出すしかないようだ。長崎藩江戸屋敷のエスパニア人のほうは同心である岡 征十郎がどうにかできるわけではないので、奉行所に行き、上司である助川に頼るしかない。
南町奉行所。同心詰め所。に助川はいた。先日の少年の事件を、何らかのものが喉を塞いだことによる窒息死。という報告を受けていたところだった。
「いいでしょうか?」
「岡、お前病み上がりで随分と元気そうだな」
苦笑いを浮かべながら、先ほどの寛太のことを話した。
「つまり、その錺職人は、長崎藩の江戸屋敷に出入りをしていて、大麻を吸って危うく死ぬ寸前だった。それで事情を聴きに行ってくれというんだな? それと、エスパニア人を幽閉しているかどうか?」
「そうです。出入りしていた時に吸ったのか、はたまた出入りはしていたが、最近は来ていないか、どう答えるか解りませんが、」
岡 征十郎が言葉を切る。
「なんだ?」
「先日死んだあの少年、あの子が死んでいた場所が長崎藩江戸屋敷の上の細川の川原だったもので、……早瀬、……早瀬という江戸屋敷詰めの家臣が、少年は殺されたのかどうかを聞きに来ました」
「……だがな、それだけのことで長崎藩の江戸屋敷を調べることはできん。先の一件以降、新装された役人で、ちゃんとしたものがついたと申されていたからな」
そうだった。まだ三月も経たない夏に女の誘拐事件を起こしたのも長崎藩の家臣だった。それを大事と思った藩主は江戸住まいの期間でないのに大江戸に上京し、家臣を一掃したのだった。
「その寛太が御用聞きとして出入りしていたかもしれぬが、それだけでそこにまだ大麻があるとは思えんがな」
あの一件で屋敷は捜索され、床板をはがし、天井裏さえも探し、少しの大麻のかすを発見しただけだった。どれほどのものがそこにあったのか知るすべはないが、カスといえどもそれをすっかり取り除いたのは、岡 征十郎たち、助川班の同心だ。自分たちの仕事には責任を持っている。
「そうだ、お前が休んでいた間に、その川原で死んでいた一件は杉崎に頼み、何らかのものによる窒息死にした。まだ、他殺とも事故ともケリはついていない」
「それも……、その少年たちは近江という男の私塾に通っていたようなのですが、親たちにすらその場所を言っていないのです」
「なぜだ?」
「貧しいものも受け入れる善良な私塾のようですが、人が多く集まると大変だからという理由のようです。親たちは、子供たちの勉学が上がるので場所ぐらい知らなくても構わない。と言っていました」
「誰も知らないのか?」
「……、一人心当たりがあるのですが、」
「では聞いて来い、」
「それが、門前払いを受けてまして、」
岡 征十郎が首後ろに手をやる。
助川が眉を上げ、「お前を振った見合い相手か、……振っておきながら、なぜか激怒している?」
岡 征十郎は首をすくめ頷く。
杉崎が笑いながら一緒に行って説得することを承諾してくれた。
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