第3話 根付
詩乃が表通りに出たところで、岡 征十郎が一軒の店の前で腕組みをしていた。
「おや? お暇なお上」
詩乃の声に岡 征十郎は眉を寄せ振り向いた。
「何してやがる?」
「薬師の会合の帰りですよ」
岡 征十郎が空を見上げ、首をかしげる。
「雹か? 霰か? 雪か?」
「バカお言いでないよっ」
詩乃が岡 征十郎の背中を叩く。
「それでどなたに買うんだい?」
「母にだ」
「あ、あぁ……そう」
岡 征十郎は鼻を鳴らし、店から出た。
「あら? 買わないのかい?」
「似合いそうなものがなかった」
「そう。いい色味のものがあったけどねぇ」
そう言って岡 征十郎の後について歩く。
「ほれ」
岡 征十郎がぶっきらぼうに左手を伸ばした。握っていた左手の下に手をすけると、銀細工でできた千鳥の根付が落ちてきた。
「あらっ」
詩乃が岡 征十郎を見上げると、ぶっきらぼうに「安かった」と言って番所のほうへと歩き去っていった。
詩乃はくすくすと笑い、千鳥を目の前にぶら下げる。
「かわいい趣味だこと……宗次郎?」
銀色の千鳥がくるりと動く向こうの辻に宗次郎が立っているのが見えた。根付を帯びに刺して顔を上げたが宗次郎の姿はすでになかった。
「何してんだい? あの子は?」
首をひねったがとにかく詩乃は、荷物に腹が立つ。と店に帰っていった。途中、帯でちりんちりんと鈴が鳴るのが少しうれしくて、これをあの唐変木がどんな顔で買ったか想像すると、さらにおかしくて顔がほころんだ。
岡 征十郎はその日の務めを済ませ、家路に着いた。いつもなら六薬堂の前を通って帰るのだが、今日はすでに詩乃に会ったし、出先からの直帰のためまっすぐに家に向かった。
同心長屋―というと狭そうだが、ちゃんとした一軒家で、中には二階建ての屋敷もあるし、庭もある。岡 征十郎の家もかなり大きい家だ―の中にある「岡家」の門をくぐる。
「ただいま戻りました」
声をかけるとすぐに姉・
「おかえりなさいませ」
幸が袖で両手を隠しながら刀を受け取る。
「母上は?」
「奥でお客様の接客を」
「客ですか?」
「
「恭之介さんですか?」
岡 征十郎は声を上擦らせた。
恭之介というのは、父方の
表の間に向かうと、両親の笑い声が聞こえてきた。庭に面した縁側廊下から、開け放たれた障子のところでしゃがむ。
「ただいま戻りました」
「おお、ごくろう」
父の声の後、母親がお勤めご苦労様でしたと声をかけ、岡 征十郎は顔を上げる。
「やぁ、征十郎」
「恭之介さん。ご無沙汰しております」
一瞬臆したのは、恭之介の隣に見たことのない女性が座っていたからだ。きれいに髪を結い、モミジほど赤くはないがそれでも目に鮮やかな赤い着物を着た美人だ。
岡 征十郎は座敷に入り、父の左横の座に座る。
「恭之介が婚約をしたんだ」
「それはそれはおめでとうございます」
「ありがとう。征十郎。私の従弟で今町方同心をしている。こちらは
「加納 翠と申します」
「加納様、というと?」
「ああ、同じ評定所にお勤めの方で、私の師匠でもある人だよ」
「そうでしたか」
「恭之介はわざわざ紹介しに来てくれてな」
「お世話になりましたからね。元服間際まで手の付けられない暴れん坊の私をここに連れてきて、
「父上のしごきは厳しいですからね」
「しようがないさ、なんせ剣道場破りの鬼の
恭之介と岡 征十郎は声を上げて笑う。
その晩はいい酒宴となった。恭之介たちが帰った後、ほろ酔いで自室でくつろいでいると母親が部屋を訪ねてきた。
「征十郎、わたくしは決めました」
岡 征十郎は母のこの言葉が嫌いだった。この人は唐突に思い付きで行動するところが昔からあった。
ある日などは、思いついたように、どこかの山寺の荒行に兄弟で行かされた。もちろん、何の所縁もない場所だったし、宗派も違うのだが、とにかく、「荒行をさせねば」と思い立ったので送り込んだ。
ある時などは、強くなければならぬと思い、今を時めく横綱に弟子入りさせようとした。さすがに相撲の世界では細い体なので、息子たちが押しつぶされると思って断念したが、もし、体格がよければそのまま入れていたかもしれない。
とにかく、子供思いなのは結構なのだが、どこか違う方向に事を進めようとするので、母の思い付きにはいつも身構えてしまうのだ。
「何を思いつきましたか?」
「見合いをします」
「……誰がですか?」
「あなたに決まってます。いつまでもふらふらとしていてはいけません」
「いや、私よりも先に、姉上の方では?」
「幸? あれは……母の私が言うのもなんですが、あの気性で嫁に行けるとは思えません」
「いや、それは、姉上があまりにも、」
といったが、母は聞かず、明日にでも世話役として顔の広いどこかの奥様に頼むという。岡 征十郎が止めようと口を開いた時、
「いつまでも、変な女を追いかけているから、婚期を逃すのです」
といって部屋を出て行った。
岡 征十郎は開けたままの口を静かに閉じた。
「変な、女って……追いかけては、いませんよ、別に」
岡 征十郎は小声で言ったが、母親に言われてすぐに浮かんだのが、根付を手にして思いがけず喜んでくれた詩乃の顔だった。
岡 征十郎は頭を掻き、ため息をついた。
詩乃は頬杖をついてうんざりしていた。
薬の補充をしに店に運び屋がやってきているのだが、
「ウナギを食べたいですなぁ」
の言葉に、番頭が、「ウナギは土用でしょ」と言い、
「土用以外に食べちゃいけねぇわけじゃないじゃないか」
と二人で言い合いだしたのだ。
別にウナギを食べる食べないでけんかをしたいわけじゃないのだ。そもそも運び屋が薬師から受け取ってきたはずの薬が、薬師が書いた覚書と数が合わないことで番頭が小言を言い、細かいことにこだわる肝の小さい男だと応戦し、野暮な男のせいで暑くなった。と言い出し、暑さに負けるのはウナギを食べないからだから、言い争っているのだ。
詩乃は黙って頬杖をついている。いつもならばすぐに「うるさい黙れ、ウナギが食いたきゃ買ってこい」と金を出すだろうが、今日に限って何も言わない。そのうち、二人もさすがに怒る体力に限界が来たので詩乃のほうを見れば、キセルを玩びながらぼんやりしていた。
「詩乃さん?」
番頭が声をかける。
「あ? 決着ついたかい?」
「いや……、どうしたんですか? いつもならすぐにうるさいと怒鳴るのに、」
「ちょいとね、えすぷりまりす。を考えていたんだよ」
「は、はい? え、えぷりまり? なんですそれ?」
「さぁね。いい言葉ではないだろうねぇ」
詩乃は黙った。
運び屋と番頭は「ウナギ作戦失敗」と首をすくめ、運び屋は外へ、番頭は仕事に戻った。
その日の昼過ぎ、草餅を持った背の高い女、傀儡師の女装した姿がやってきた。番頭の顔がほころんだり、「でも、こいつ男だし」とがっかりする顔に傀儡師が笑いながら小上がりに近づく。
「どうかしたんですか? 眉間、しわ寄ってますよ?」
詩乃が眉間に指をあてがう。
「ちょいとね、難解な言葉を聞いてね」
「難解の言葉?」
「多分、外国語だろうけど、いかんせん、耳の悪いやつが聞いたんで元が解らない」
「あぁ、なるほど。そういえば、いつだったかしら、変わった言葉を聞きましたよ」
「変わった言葉?」
「ええ。えっとね、ちょっと待ってくださいよ、えーっと、ぶえんばいえん。だったと思いますけど」
「ぶえんばいえん? 無塩梅園? 塩のない梅干しのことですか?」
番頭がお茶を出しながら言う。
「そうじゃないと思う。私塾の側で、多分師匠だと思うけれど、その人が生徒を送り出している時にそう言ってましたね」
「Buen baye」
詩乃が言うと、傀儡師は手を叩いて、「それです。そんな感じでした」と声を上げた。
「……Buen baye。そう、Buen baye」
「あの、どういう意味ですか?」
「あ? ……ごきげんよう。って感じかな」
「蘭語ですか?」
「いや……エスパニア」
「……何で知ってんですか、あなたは?」
番頭と傀儡が同時に聞いたが、詩乃は腕を組み俯いて考え込んでしまった。
河内屋に行ってから二日目、庭師の親方が河内屋に行く予定の日の昼過ぎ、岡 征十郎が店にやってきた。
「六薬堂女将、詩乃、河内屋徳兵衛殺害について調書したい、同行願おう」
「何? 河内屋の旦那が死んだ?」
詩乃が思わずキセルを落としそうになって、慌てて火鉢の中にキセルを放った。
「なんで? 殺害って、殺し?」
「とにかく一緒に来い」
「番所? その前に河内屋に、」
「その河内屋だ」
岡 征十郎は有無を言わさぬ力で詩乃の腕を引っ張り、河内屋に向かった。
詩乃は、掴まれた腕の強さで岡 征十郎が怒っているのが解り、おとなしくそれに従って河内屋に出向いた。
店では従業員が詩乃を険しい顔で見ている。泣いているものもいる。
店の奥、徳兵衛が寝ていた部屋に行けば、竹久が呆然とした様子で座っている横で、女中があれやこれやと世話をしていた。
詩乃の姿を認めて竹久がはらはらと涙を落とす。
「詩乃、さん、あんた、なんてことを」
詩乃が眉をひそめ、徳兵衛の遺体を見る。一見何も変わりないように思えるが、あれから毎日腹と背中のマッサージをしたのだろう、今にも破裂しそうだった腹は少し小さくなっていた。
徳兵衛は痛さのあまり顔を苦痛にゆがめた顔のまま死んでいた。
「いったい?」
「宗次郎が、宗次郎が、あんたがそうしろって言ったって、」
竹久が突っ伏する。ますます詩乃が眉間にしわを寄せ岡 征十郎を見上げる。
「徳兵衛が大声を上げたので来てみたら、息子の宗次郎が父親に馬乗りになり、胸を圧していたそうだ。止めようとすると、六薬堂の、詩乃さんが、父親が苦しかったらこうしろと言っていた。と喚きながら押し続けたということだ」
「胸を圧し続けた? ……先に言っておくが、そんなこと絶対に言わない。素人に蘇生術を教えてもろくなことにはならないからね」
「蘇生術?」
「確かに、この胸を押す方法はある。だけどそれは事と次第による。この旦那のような人にそれをするなんて馬鹿げている。だって、旦那はただの便秘で心臓には何の問題もなかったんだから。少し触っても?」
竹久が険しい目で睨みつけたが、詩乃は気にせず胸を触る。
「……、悪意を持って胸を強打している。これはもう、蘇生じゃないよ。骨が折れているだろうね」
「宗次郎は、宗次郎は、」
「思い当たるとすれば、川開きがあってしばらくして川でおぼれた子供が居て、その子に対して蘇生術をした。まぁ、多少軽く押すと水を吐いたんで大事に至らなかったけど、それを見ていたとしたら、あたしがやっていた。ということは理解する。だけど、あたしは誰にも教えたりはしない。こうしてろっ骨を折って、それが肺を刺して肺に血がたまって今度は溺死、おぼれ死んじまうからね。ちゃんとした知識のある人間にしか教えない。ましてや子供になんぞ教えない」
詩乃ははっきり言った。その声は非常に冷たく、それ以上に怒気を含んでいた。
「詩乃?」
岡 征十郎が声をかける。
「いろんな理由で人を殺すやつはいるだろうが、理由がないうえに、医術を用いましたなんておこがましいにもほどがある。ふざけた真似をしやがって」
詩乃の怒りに竹久が冷静になっていく。
「じゃぁ、なんで、宗次郎は自分の父親を?」
「今のところ理由は解らない。もしかすると、本当は竹久さん、あんたを殺したのかもしれない。だけど、あんたは元気だ。それだから、寝ていた父親を襲った。もし、妹たちが寝ていたら、どちらかが犠牲になったかもしれない」
「おい、」
岡 征十郎が詩乃の腕を掴んで制する。
「とにかく、宗次郎を……、宗次郎は?」
岡 征十郎の言葉に全員が宗次郎を探すために辺りを見回し、屋敷中を探すが、
「いません」
「見ていなかったのか?」
「先ほどまで、ここに居て、」
と、配下の岡っ引きの失態に舌打ちをする。
「宗次郎はあなたを襲ってはこないと思う。父親を殺めた罪の意識でどうなるかしれないが……。とにかく、早く見つけなきゃ、いけないのは確かだよ」
詩乃の言葉に岡 征十郎は岡っ引きを連れて出て行った。
詩乃は徳兵衛の側に座り、再び体を触った。胸のあたりに当たるはずの肋骨の形がおかしい。ため息をつきながら腹部を触る。
「ちゃんと腹をさすっていたんだね?」
「えぇ、詩乃さんに教えてもらって、半刻してから、大きいのが出ましてね、大笑いする、ほど」
「……、旦那は、大福が好きだった?」
「え? ええ。甘いものが。特に大福は好物でしたよ」
「今日も食べてた?」
「いいえ、私は持ってきてはいませんけど、」
詩乃は部屋を見渡し、茶道具の水差し―蓋つきの木箱―の蓋を取る。詩乃は眉をひそめ、その中身をひっくり返した。
大福、金平糖、かりんとう。お菓子がごろっと出てきた。
詩乃は眉をひそめたまま、「おかみさん、旦那さんを解剖させてくれませんか?」といった。
「かい、解剖?」
「ええ、旦那の死因が、宗次郎の無理な
「でも宗次郎が馬乗りになって、」
「もし、旦那が横になったまま大福を食べていたとして、のどに詰まらせていたのをたまたま通りかかった宗次郎が見つけた。以前、あたしの蘇生術、息を詰まらせた子に対してやった方法をまねたのならば、それは殺人ではなく、助けようとしたことになる。もし、気道に何もなければ、」
「……でも、その、」
「ちゃんときれいにして返しますよ。約束します」
「……。解りました。宗次郎が咎人であればこの店はつぶれます。あたしにはこの店と、皆を守る義務がありますからね。もし、宗次郎が咎人でなく、父親を助けるためだとすれば、あの子の帰ってくる場所もありましょうし」
詩乃は頷いた。
徳兵衛の遺体は小早川療養所のほうに運ばれた。
宗次郎の行方は五日経っても解らなかった。
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