011  不協和音④Ⅱ

「うーん。一応、扉はノックしたアルけど、返事なかったヨ」

「そうか。じゃあ、後で起こしにでも行ってやるといい……」

「分かったアルヨ。なんなら、自分で起こしに行けばいいアルのに」

 それぞれ手を合わせて、朝食を食べ始める。しばらくすると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。

「この曲はバッハだな」

「それも『G線上のアリア』とは、珍しい曲ですね。そうさんは、弾いたことがあるんですか?」

「いや、弾いたことはないが聴いたことならある。誰がこんな朝早く弾いているんだ?」

優翔ゆうと、あんたが彼女をここに連れてきなさい。それと、りん、あんたもよ」

 姫花ひめかが、目玉焼きの黄身に醬油しょうゆを三、四滴程落とした。

「なんで俺が? ここはどう見ても女子の鈴ちゃんじゃないんですか?」

「いやアルヨ! 一緒に来るネ。優翔、これは先輩である私からの命令ネ。いいアルか?」

「はい、分かりましたよ」

 ここで反論でもしたら何かされるかと思って、素直に鈴に対して対応した。

 朝食を食べ終えた後、まだ、彼女の部屋ではピアノが鳴り響いていた。

 さっさと制服に着替えて、洗面所で歯を磨き、顔を洗い終えると、いつも通り、目の前に置いてある時計は、六時五十分になっていた。

「さて、鈴ちゃん。行きますかって、あれ? いない……」

「鈴ならさっき外に出ていくのを見たぞ」

 颯介そうすけが、周りをキョロキョロとしている優翔にそう言った。

「あの野郎、俺に面倒ごとを押し付けやがったな。後で絶対にしばく!」

 イラっとしながら、奥の部屋へと進んでいく。明日奏あすかが未だにピアノを弾き続けて、どういう気持ちなのか全く分からないが、時間は推している。

 女子の部屋には嫌というほど入ったことがあり、特に鈴の部屋は少し散らかっていて、片づけをしたことがあった。

 もし、彼女と同じように散らかっていたら自分はいったいどういう印象を持つだろうか。初めて会ったときは、きれいで美しい可愛い女の子。そして、嫌みを言った女の子。そんな印象だった。

「本当に面倒くさいな。結局は、俺がこの荘の中で身分が一番下じゃないのか?」

 扉の前に立つと、深呼吸をしてからノックする。

「明日奏。今日から高校の方は、始まるんだが準備しなくてもいいのか?」

 だが、部屋の奥からは返事がなく、音楽だけが流れている。

 そして、何度も扉を叩いても返事を返してくれない。

「これだけ読んでもピアノを弾いているってどういう集中力を持ったやつなんだよ。ヴィヴァルディの四季協奏曲第1番ホ長調、『春』。今の季節にはふさわしい曲だな」

 優翔は、感心しながら彼女の演奏を聴いていた。

 協奏曲第1番ホ長調PV269『春』は、アレグロ・ラルゴ・アレグロの三楽章からできている。この作品の題名は『和声と創意への試み』作品8、モルツィン伯爵ヴェンツェスラウに献呈され出版された十二曲のうちの第1から第4曲の『春・夏・秋・冬』のタイトルであり、ヴィヴァルディはこの4曲のことを四季と思ったことはないらしい。

「でも、この曲はオーケストラでもオルガンで弾くと思うんだが、アレンジでもしているのか?」

 と、優翔は疑問に感じた。

 第一楽章・アレグロは、春がやってきた。小鳥は喜び祝っている。小川のせせらぎ、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立てて黒い雲が空を覆う。嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。

 第二楽章・ラルゴは、牧草地ぼくそうちに花は咲き乱れ、空に伸びた枝の茂った葉はガサガサ音を立てる。羊飼は眠り、忠実な猟犬はそばにいる。

 第三楽章・アレグロは、陽気なバグパイプにニンフと羊飼いが明るい春の空の下で踊る。

「これ以上、聴いていたら俺まで初日から遅刻してしまうじゃないか!」

 最初の目的を忘れていた自分に戻り、お構いなしにドアノブを回して、勢いよく扉を開けた。

 すると、廊下で聴いているよりかも物凄い音が部屋中に響き渡った。

「おいおい、これは……」

 部屋の中へ入っていくと、中央には昨日運んできたグランドピアノあり、そこで彼女は楽しそうに弾いていた。譜面ふめん通りの弾き方で、正確に音を出している。

 壁際にはベットがおいてあり、床はいろいろと散乱していた。

 壁には、音楽に関するポスターや譜面が貼ってあり、一瞬、異空間にでも入ったのかと思った。

 天才は、いつも散らかった部屋にでもいるのだろうか。りん、颯介、慎一しんいちの部屋と同じようなものだ。

「マジかよ……」

 自分の幻想が一瞬にして、崩れ落ちた。

 こんなに素晴らしい曲を弾くのだから、きれいな部屋に住んでいるんだと思っていた。

「明日奏、弾くのをやめろ。今日は学校初日だぞ!」

 優翔はそっと彼女の肩に手を置いた。

 彼女は、肩をビック、とさせて演奏をやめた。

 後ろを振り返ると、そこには優翔がいた。

 壁に取り付けていた時計に目をやると、短い針は七を指し、長い針は十二を少し過ぎていた。

 びっくりした目をして、時計を指さす。優翔は何も言わずに首を縦に振った。すると、ため息をついて、頭を抱えた。

 しばらく、状況を整理して、考え込んだ。

「ねぇ、もしかして今日から高校は学校なの?」

「あ、ああ。日本の学校は大体この日ぐらいから学校だよ……」

 優翔は、明日奏の質問に答えた。やはり、海外生活が長いほど、時差ボケや日本の暮らしについてくるのに苦しいのだろう。

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