008  不協和音③Ⅱ

 靴を脱ぎ、台所へと進む。業者の人は、明日奏あすかが住む予定の部屋へと一つずつメモを読みながら配置していく。

立花明日奏たちばなあすか。どこかで聞いたことがある名だ。どこだったか? 最近、聞いた名前なんだよな……」

そうちゃんが調べるとしたら、エッチなビデオや音楽ぐらいじゃないアルか?」

「ちょっと待て‼ 俺は別にエッチなビデオとか見てないもんね! 思春期のガキがここに入るっていうのに、どこで見るんだよ……」

「この前、颯ちゃんのパソコン見た時、覆歴にそういったサイトに入れるのが残っていたアルヨ」

「…………」

「あっ! ごめん。これ、言っちゃいけなかったアルか?」

「いや、別に、俺はいいけど。へぇー、そうだったんだ……。俺、何も知らなかったな」

 颯介そうすけは、視線を逸らし、俯き、そして、部屋の隅で体育座りをしながらため息をついた。

「私も手伝いましょうか? 一応、暇なんで……」

「じゃあ、そこに置いてあるペットボトルの水を持ってきてくれる?」

 雅は、ドアのすぐ横に置いてある二リットルのペットボトル入りの段ボール箱を明日奏にお願いした。

 夕日の光が、この部屋に射し込む。外では、夕方五時を知らせる懐かしい音楽が流れ始めた。

「もう、五時過ぎたアルネ」

 その音楽を聴きながら鈴がそう言った。

「本当に時というのは早いわね。そして、今年から新学期か……」

 冷蔵庫の中に買ってきた食材を入れる雅は、少し寂しそうに言う。

「貴様ら、この俺を忘れてはいないか?」

 どこかしら、場の空気を読まない声が聞こえてきた。颯介は、面倒くさそうな表情で溜息をつく。そして、優翔たちも同じ気持ちだった。いつ、どこで現れるのか分からない。この声は、男性の声であり、いい奴だが、ネジが緩んでいるのである。

「また、面倒な奴がタイミングよく現れやがって……。どこだ? どこにいる?」

 関わるのも面倒だが、無視したらもっと面倒になりそうな予感がし、颯介は声の主に訊いた。

「なんでこの俺を忘れている……。いいよね、皆で買い物してきて、なんで俺も呼んでくれなかったの? 俺、部屋でずっとスタンバっていたのに……。呼びに来てくれると信じていたのに! そうですか。俺は……俺は、今ここにいるぞぉおおおおお」

「なんで、そんなところにいるんですか! それよりもよく、そんなところに隠れましたね」

 冷蔵庫と壁の間に、人の姿が半分現れた。颯介と同じくらいの身長であり、肩まで髪を伸ばし、その面とは天と地で性格は馬鹿としか言いようしかない。

工藤くどう。お前、そんなところに入っていた辛くないか?」

「工藤じゃなくて俺は江藤だ! 江藤慎一えとうしんいち!」

 半分しかない体で叫ぶ。颯介は冗談で『工藤』というのだが、それが通じずにいつも訂正して、『江藤』だとはっきりと言ってくる。このやり取りは、毎日の日常で散々聞いている。

 見ているこっちはまた始まったとしか思っていない。

「それで、そこにいる女子は一体誰だ? ここはいつからサファリパークになった?」

 隙間すきまから体を引っこ抜こうと、頑張りながら最後の足がもつれて動けない。

「あんただけサファリパークでもどこにでも行ってください」

 このボケにはもうついていけない。ここはサファリパークというよりも、ゴミ捨て場カラスと言った方がいい。

「そうだった、自己紹介をしていなかったな」

 慎一は平然としていた。

「俺の名前は、江藤慎一。私立奏同大学工学部三年。将来はビックダディーになることだ。いや、総理大臣そうりだいじん、王族でもいいな。あー、でも国際的大社長もいいな……」

 もう、自己紹介というよりも将来なりたいものを暴露しているしかみえない。その夢もほぼ百パーセント叶わないものばかりである。優翔は、話を変えようとした。

「そう言えば、颯さん。さっき、彼女について思い出したんじゃないんでしたっけ?」

「ああ、そうだった。立花明日奏、どこかで聞いた名前だと思ったら欧州ヨーロッパで活躍している日本人ピアニストだよ。九歳にして、フランスに渡り、そこで実力を認められたいわゆる天才。人々は、『神の子』と呼んでいる」

 優翔は、彼女の方を振り返った。この陽気ようきな性格に自己中心的な行動に納得できる。それにしてもまだ、幼い頃にフランスに渡ったこと自体、普通の人間にはできない事である。

欧州ヨーロッパのコンクールで鬼の様に一位を取り、オーケストラとも何度か共演したことがある。だが、ここ半年は活動をしていないと聞いたことがある」

 明日奏は何も言わなかった。そのほとんどが当たっているらしい。

 なら、なんで今更日本に戻ってきたのか分からない。

「それってほぼプロって言う意味じゃないですか」

「そうだ、プロだ。いや、もう、雲の上の存在だと言ってもいい」

「そうなると、颯さんは底辺中の底辺ですね」

 尊敬しているというよりか自慢しかしていない颯介は腕を組みながら小さく頷く。

「でも、なんで彼女がこんな所を選んだんですかね」

偶々たまたまだろ? 俺が知るかよ」

「いや、そこまで知っているなら日本に来た理由も知っていると思って……」

「そこまではウキペディアとか載っていなかったからな」

「結局はあまり信用できないサイトから引っ張ってきたんかい!」

「時間が無かったし、簡単に多くの情報が得られるとしたらこれが最適だろ?」

 勝ち誇ったように鼻で笑い、それに対して溜息をつく。そして、慎一は、ようやく最後の右足を抜いたところだった。

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