006  不協和音②Ⅲ

「すみません。これ以上は弾きたくありません」

「そうか……。まあ、でも、これだけ弾ければまたコンクールに……」

「無理です!」

 優翔ゆうとは、思わず叫んでしまった。

「す、すみません。思わず声を上げて」

「いや、気にしなくていい。それよりもあそこのベンチに行こう」

 颯介そうすけに連れられて、さっき座っていたベンチに戻る。

「優翔、音楽は旅をしているだろ?」

「旅ですか?」

「そう、どんな音楽にも表現があり、場所によれば嵐が来て、太陽が照り、そして、夜へと変わる。だから、旅をするんだよ」

「颯さんは、なんでそんなかっこいいこと言えるんですか? いつもはだらしなく、どうしようもない人間なのに……」

「それは言い過ぎだ。俺だってやる時はやる男だよ。俺のゴールデンボールだってやる時はやるぜ」

「遠回しに下ネタ発言するのをやめてください」

「颯ちゃん、また、ふらりとキャバでも行ったアルか!」

 と、颯介の後頭部に思いっきり小さな少女が跳び膝蹴りをしてきた。

「いってぇえええええええええええ‼」

 颯介は後頭部を押さえながら、地面に転がった。

 そこには買い物を終えた山本鈴やまもとりん宮川雅みやがわみやびの姿があった。雅の両肩には大きな紙袋が掛けられていた。

みやび先輩、その大きな紙袋は何ですか? また、服でも買ったんじゃないんでしょうね?」

「いいでしょ別に……。私のお金なんだし。それよりもなんでこの男がいるわけ?」

「ま、いいじゃないですか。拷問ごうもんは帰ってからにしてください」

 優翔は、雅の怒りを静めるように作り笑いをして言った。

 そんな風に言い争っている中、一人の少女が中央のピアノの方へと歩いて行った。

 白いワンピース姿で腰まで伸びた髪。細い腕に長めの指には小さな肉刺ができている。そう、中央に一輪の花が今、咲き誇る。

 その目は一途に何かを思っており、口からはリズムを弾ませる音を出す。まだ十代の少女に見えるはずなのにどこか大人びている。

 少し日焼けした白い肌は、綺麗で日本人で言うと新潟美人にいがたびじん秋田美人あきたびじんに近い。

 その姿は、やがて中央にやってくると、椅子に座り、ふっ、と微笑みながらピアノを弾き始めた。ピアノから段々フォルテシモへと音を自由自在に変化させていく。その圧倒的な弾き方に誰もが虜になっていた。

 中庭の雰囲気が静まり返り、彼女の独奏どくそうだけが響き渡る。

「ねぇ、あの子うまくない? 何者なの?」

「いや、知らねぇ……。でも、颯介さんよりかは遥かに上しか言えない」

「優翔、それは俺に対するぶ、侮辱ぶじょく……」

 颯介が、頭の痛みを堪えながら、ベンチに座り直した。

 彼女が一曲目を弾き終えると、拍手が上がり、すぐに二曲目に入る。これは完璧な演奏家えんそうか。二十一世紀の奇跡といえようか。百年に一度の天才だろう。目をつぶっていて、鍵盤など見ていない。

 彼女が弾いた曲はたったの二曲限りだった。

 優翔たちは、その少女の姿に見とれていた。

 その独特的な弾き方に優翔は息を呑んだ。言葉にならなかった。

「おいおい、これは俺でも勝てねぇかもな。いや、『かも』ではなく、絶対に無理だ」

「…………」

「それって、颯介があの子と勝負をしてみたら確実に敗北するって事でしょ。日本では百戦錬磨ひゃくせんれんまのあなたが」

「なんだか、俺がヨーロッパでは評価されない言い方だな。でも、意味的にはまちがってもいないか」

「颯ちゃんの場合、いつもサボっているからそうなるネ。ちゃんとすればいいアル」

「どこかで……」

 優翔だけが、黙って何かを考えていた。

「颯介、何を考えているんだ? 彼女に見とれているのか?」

「な、そんなわけないでしょ!」

「いや、その顔はどう見ても恋した顔だ。あの可憐な少女の美貌に見とれてしまうことは分からんでもないよ。でも、お前のルックスでは……」

「ルックスは関係ないでしょ! あんたに言われたくないよ! このニートソリストが‼」

 頬を赤らめながら、しどろもどろに優翔は颯介に言う。

「ニートじゃないもんね。言うなら、遊び人と呼ぶ」

「その意味、同じだと思うんですが……」

「颯介、あの子こっちに来るわよ」

「こっちって、ただどこかに行くんじゃないのか?」

 優翔は、思わず立ち上がった。

「ど、どうした? 優翔」

「あ、あの!」

 目の前にゆっくりと歩いてくる少女に優翔は声をかける。

「すみません。そ、その……。さっきの演奏とてもよかったです」

 照れ隠ししながらさっきの演奏を誉めた。

 彼女は立ち止まって、優翔の方も見つめた。顔色を一つも変えずにまっすぐに見つめる。

 目をそらさない彼女と目を合わせる。だが、何かを見透かしているように感じ、優翔の心臓の鼓動が高まる。

「そう。それで……?」

 興味ない様子で、訊き返す。

「いや、それ以外は何も……」

「そ、じゃあ一言だけ言わせて?」

「はい?」

「さっきのあなたの演奏、今の演奏は私嫌いよ」

「嫌い?」

「ええ、面白くない。何か、音楽に対して恨みを持っているかのように思える」

「恨みなんて持ってないけど」

「いいえ、持っているわよ。音楽が悲しんでいる」

「くっ……」

「それじゃあ、私は行くわ。これから用事があるし」

 少女は名前も告げるに過ぎ去っていった。

「ま、まあ。早期を落ち込むなって。一回フラれたくらいでそんなに落ち込むなよ。あ、そうだ。よし、今日は飲みに行こう。どこがいい?」

「颯介。そ、そんなに言ったらダメよ……。もう、お腹を押さえているのにわ、笑いが出そうで……。ふっははは」

 大学生の二人はデリカシーの欠片もなくフラれたところを間近で見て、笑っていた。

 だが、彼女と再会するのはこれから約一時間後になるとは誰もが思ってもいなかった。

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