004  不協和音②Ⅰ

 午後一時前————

 三人は昼食を食べ終えると、買い物をしにショッピングセンターにみやびの軽自動車で向かった。桜の花びらが舞い散り、窓ガラスにくっつく。四月になっても未だに桜の花が咲いているのはこの地域が春の暖かい風を運んでくれているのだろう。

 ラジオから聞こえてくる声は、BGMのような感じがする。

『さて、続いてのお便りは、大分県在住の四十六歳女性からです』

 と、ラジオのDJがハガキを読み始めた。

『今年、私の娘が中学に入学しました。子供の成長というのは親にとってはうれしい事ですが、逆に言えば、少し悲しいという気持ちがあります。それは……』

 と娘の入学に泣く母親のお便りであった。この時期の話となればこればかりである。

『それではここで一曲、音楽を流しましょう。長野県の六十歳男性からのリクエスト。ショパンでロンド・ハ短調』

 献呈けんてい先はショパンが当時在学していたワルシャワ高等中学校の校長で、ポーランド語辞書編集者としても知られていたサムエル・ボグミウ・リンデの夫人ルドヴィカである。ショパンが予定して作曲した最初の曲である。

 そんなマニアックな演奏時間八分もある曲を一般人は聴いていられないだろう。いつもは三、四分の程度のJ―POPしか聴いていないのだから足の痺れを切らしてもおかしくない。

 CとGのたった2音からなる4小節の序奏じょそうに続き、活発的に軽々としたロンド主題がハ短調で現れる。ハ短調の中でいくつかの展開の後、ロンド主題と対照的で、甘美かつ穏やかなホ長調の主題にたどりついた。主題は嬰ニ短調に転調して、徐々にドラマ性を高めていく。情熱的な嬰ト短調の主題、エンハーモニックを用いた変イ長調のなれるような主題を介して、最初のロンド主題に戻る。

 先程のホ長調の主題は変ニ長調に転調し、広い音域に渡って長いスケールが現れる。そして、発展が拡大し、再び最後のロンド主題に、序奏と同じく4小節の短いコーダで締めくくられる。

 そんな幼い頃のショパンが作曲した曲を聴きながら車は春の季節の中を走り続ける。

 どんな天才でも一度や二度の失敗などではない。多くの失敗から世に自分の音楽を残し続けているのだ。

 ショッピングセンターにたどり着くと、駐車場に車を停め、車内から外に出ると外は人の声や車のエンジン音で雑音が響いていた。

 店内の中に入ると、エアコンの効いた冷却の風が体を包むように優しく語りかけてくる。

 まずは、服の店舗から順に見ていく。女子二人は楽しそうに話しながら自分の気に入った服を試着して、それは楽しそうだった。

「先輩、俺はそこら辺の中にはで休憩しているんで後で連絡してください」

 そう言い残すと、優翔ゆうとは一階の中庭に向かった。

 優翔は中庭で唯一空いていたベンチに腰掛けて辺りを見渡した。

 まだ、ラジオで聴いたショパンの曲が耳に残っている。

 やはり音楽というのはいいものだ。人の心を動かしてくれる。

 弾き手によっては、それが変幻自在へんげんじざいに変わっていく。魔法のような感じだ。

 この中庭の中央にはコンクールやコンサートで使われるピアノが一台置いてある。

 そこでは小さな子供たちがピアノを囲んで楽しそうに鍵盤を叩いている

 適当に弾いているでたらめな音が踊っている。

 そして、音の流れがいきなり変わった。それは聴き覚えのある演奏家の弾き方。忠実だが、どこか面倒な気持ちというか、邪念が入っている。

 優翔は、演奏している人物の方へと歩みよって、目の前に立った。

そうさん、ここで何をしているんですか?」

「何って、見ればわかるだろ? ピアノを弾いているんだよ」

「弾いているというよりも八つ当たりに聴こえますけど……」

 ピアノを弾きながら、律童颯介りつどうそうすけが機嫌悪そうにしていた。

 黒と茶色の二色混じった髪。身長百八十三センチの大柄な男。腕や足も細いが、見えない筋肉がある。

 顔は普段通りの腐った魚の目のような輝きを失っているが、コンクール、コンサートなどの人前で引くときの彼は、輝いて見える。

 私立奏同そうどう大学音楽科三年生であり、トワライ荘の住人でもある。

「そうか、お前には八つ当たりに聴こえるか……。ま、半分は当たっているんだけどな」

 手を止めて、鍵盤けんばんから手を離す。二十歳になっても相変わらずの大人になれないところが端緒に近いところだろう。

「そうだ、優翔。ここで一曲弾いてみろよ」

「え、いいですよ。俺、ピアノなんて柄じゃないですし……」

 首を横に振って、颯介の誘いを断ろうとする。

「いいから弾いてみろって! 曲は簡単な物でいいからさ」

「いや、そう言われても……」

「だったら『きらきら星変奏曲』を弾いてみろ。あれなら、簡単だろ? 楽しく演奏すればいい」

「モーツアルトですか……。あれって十二分もある曲ですよ」

「弾けるところまででいいからさ。さあ、座った、座った」

 颯介は立ち上がると、優翔の腕を引っ張り、ピアノの前に座らせた。しっくりと来る椅子の高さ、調律ちょうりつされたピアノ。手を伸ばせばすぐに弾くことが出来る位置。

「よし、始めよう。今日一日限り。いや、この瞬間から優翔のきらきら星変奏曲ぼしへんそうきょくのリサイタルだ!」

 颯介が強制的に大声で言いだしたのを聞いて、周りの人間から拍手が送られる。

 これは当時のフランスで流行していた恋の歌『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による変奏曲だ。旋律は後に恋の歌ではなく『きらきら星』と知られるようになった。日本は『きらきら星変奏曲』と呼んでいる。だが、『きらきら星』の歌詞が書かれたのはモーツアルトの死後といわれているのである。

 曲の構成は、主題の提示と十二の変奏からなる。曲は十二分程度。

 きらきら星変奏曲は、パリで書かれたと言われていたが、一七八一年から一七八二頃にウィーンで書かれたという定説になっている。

 こうなってしまえば後には引けない。もう、やる以外、他が無い。

 優翔は、指を鍵盤に触れさせた。

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