第4話

人間には嘘をつく瞬間が必ずあると思う。嘘というか、存在が二重になる時のことだ。例えば祥子だって、俺のことが好きな時はあったはずだ。しかしいつの間にかそれは先輩に置き換わり、移っていった。その狭間の中で、俺のことが好きな祥子と、先輩のことが好きな祥子が二重になる瞬間があったに違いない。その時、一体どっちの祥子が本物になるだろうか。それはどちらでもないんじゃないかと思う。どちらでもあり、どちらでもない。まるでシュレディンガーの猫みたいだ。蓋をあけるまでは分からない。しかし祥子の心の中なんて蓋を開けようがない。その時祥子がどっちを好きなのか分かりようがないのだ。もしかしたら祥子自身も分かっていないのかもしれない。そしたら俺はどうすればいいんだ。何を信じればいい?人の心という分からないものを見ようとして、凝り固まった視界が濁っていく。

例えばこの女性が今何を考えているのかだってわかりやしないのだ。


悠人は電車の中、目の前に座る女性をじっと見つめた。茶髪のロングの女性だ。目元が女優の如月ナツメに似ていなくもない。今のご時世、スマホをいじっていない人の方が少ない中、珍しくスマホをいじらずじっと前を見ているのが不思議だ。スマホの充電でも切れたのだろうか。


ふと女性と目が合った。ずっと考えていたせいで目線を逸らすのが遅れてしまう。


ーじろじろ見ないでよ!


「すみません」


思わず謝ってしまう。おずおずと女性を見やると、彼女は不思議そうに首を傾げていた。怒ったのはそっちなのに何故そんな不思議そうなのか。悠人は目線をスマホに移し、気まずい空間をなんとか凌ぐことにした。



悠人が学校に着いたのは昼前だった。適当にコンビニでおにぎりを買い早めに教室に着くのがいつもの流れだった。


「おう森岡!」


森岡は先に来ていたらしい。教室ですぐに彼の姿を認め、彼の隣へ座る。


「坂下か」


森岡も俺と同じ早めに来て昼食を取る派で、手にはメロンパンを持っていた。案外可愛いものを食べるんだな、と心の中でほっこりするのを感じた。

教室にはまだ時間もはやいこともあって、まばらに生徒がいるだけであまり多くはない。俺たちはいつも通り左奥の後ろの方を陣取って座っていた。授業中に携帯をするのにはもってこいの布陣だ。

僅かな話し声がさらさらと耳元をくすぐる。おにぎりやパンの匂いが鼻腔を刺激して、ぐぅとお腹が鳴った。鳴り止む前におにぎりを口に頬張る。蛍光灯で白く照らされた教室は無機質ながら、使い込まれた机が人の気配を醸し出している。創立100年を超える歴史がある学校らしさを見せていた。


「俺、今日サークル行くわ」


悠人はおにぎりをお茶とともにごくりと飲み下して言った。それは勇気ある決断だった。


「お前、もう祥子ちゃんのことは大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃないけど、さすがにそろそろ行かないと練習がね」


悠人は苦笑いをする。そんな悠人を森岡は眼鏡の奥でじっと見つめていた。


ーお前がそれで傷つかないといいが…。


「大丈夫!俺メンタルは割と強いほうだし、繕うのとか得意だからなんとかなるって」

「そうだけど、あんま無理すんなよ?」


森岡が肩をぽんと叩く。何かあるといつも森岡はこうして励ましてくれた。とても頼り甲斐のあるいい男だと思う。彼に欠点があるとすれば少し背が低いことくらいだろう。


「なぁ、祥子ってほんとに俺のことが好きだったのかなぁ」

昼間考えていた疑問を口に出してみる。こんな女々しいことを言えるのも森岡だけだ。


「それはそうなんじゃないか?お前と祥子ちゃんは見ていて楽しそうだったし、本当に仲が良かった。だからびっくりだよ、祥子ちゃんがお前をフるなんて」

「そうだよなぁ〜仲良かったよなぁ俺たち。なんでなんだろう。」


悠人は頭を抱えた。未だに心の分別はついていない。今すぐに祥子が現れて、ドッキリでした!びっくりした?と言い出してこないかと期待したくらいだ。

俺はそんなに魅力がなくなったのだろうか。男として?人間として?


「なぁ森岡、お前は俺のこと好きか?」


聞いてから、なんて馬鹿な質問をしているんだと気付いた。こんな小っ恥ずかしい質問なんでしたんだろう。


ーそれは好きだけど、今ここで好きって口に出して言ったらなんか変な感じにならないか?


「そうだよなぁ?変な感じになるよな」

「は?」

「は?って何?」

「いや、俺まだ何も言ってないぞ?」

「え?」


だったら今のは何だったんだ?確かに森岡が言っていたのが聞こえた。言っていた?

しかし悠人は思い出せなかった。森岡が口を開いた記憶が無いのだ。

無言だったはずなのに、何故か森岡が言った台詞が聞こえた。聞こえたというより知覚したという方が正しいかもしれない。音で耳から聞こえたのではなく脳に直接語りかけるような。こんな体験をすぐ最近にしたような気がする。


そこで悠人は思い出した。あの夢だ。今朝の夢もそうだった。夢はなんて言ってたっけ。確か、願いを叶えるって。願い?何の願いだろうか。

考えてすぐにピンと来た。しかしそれは事実として認めるには乱暴すぎる結論だ。


もしかして、と思って悠人は確かめる。


「ちょっと心の中でなんでもいいからフルーツを思い浮かべてくれ」

「なんだ?急に心理テストか?」


いいからいいから。と悠人は笑ってごまかす。

森岡は怪訝な顔をしながらも付き合ってくれる。目をつぶって心の中で唱えたようだった。


ーじゃあリンゴ。


「リンゴだろ?」

「すごいなお前!どうやったんだ?」


森岡が目を見開いて体を前のめりにしてくる。


「マインドコントロールってやつか?すごいぞ!まぐれじゃないよな?」


なに、ちょっとしたトリックだよ、と笑いながら誤魔化した。しかし内心ではどうしようもなく興奮していた。


分かる。分かるんだ、心の中が。


心臓がばくばくと強く鼓動を打つのが分かる。背中から血液がせり上がってくる感じがした。

世紀の大発見だ。悠人は思った。

人の心の中が読める。そうに違いない。それは確信に近かった。

神社で願った、人の心を知りたいという願い、そして願いを叶えたという謎の声。なにも言ってないのに聞こえる心の声。全ての符号がマッチしていた。

信じがたいことだが、信じられずにはいられない。人の心を読める能力を手に入れたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る