第3話

その日、不思議な夢を見た。森岡と京都旅行へ行った後の夜、旅を終えて家に帰った悠人を襲ったのは猛烈な眠気だった。

深い湖に足を吸い込まれていくような睡魔に誘われ、なすがままにベッドへ倒れ込んだ悠人が眠りに着くのに数分もかからなかった。



ざわざわと囁くような声が耳朶を震わせる。ゆっくりと目を開くと、そこには夜の闇に波が白立っていた。ざあざあと砂と摩擦を起こす定期的な寄せては返す音色が足元から這い寄って来る。どこまでも遠く続く闇は海なのか空なのか区別のつかない黒を滲ませていた。ここはどこなのか。真っ暗で朧げな星明かりしかない空間は、まるで宇宙にぽかんと浮かんだようにも感じられた。ざく、と砂浜を一歩踏み出してみると奇妙な体験をした。

それは海の奥から聞こえてくる風の唸りのようで、木の葉の囁きのようでもあった。波の音とは別の確かな声、深い海の底で聞こえる声のような濁った雑音は確かな意味を持った言語として語りかけてきた。


ー面白い


日本語でも英語でもないその音はたしかにそう聞こえた。


ーその願い、叶えてやろう



見えない水平線の奥、深淵の底から鳴り響くざわめきが脳に口付ける。理解の範疇を超える音に、僅かに恐怖を覚えた。肌寒い潮風が髪を触って消えていく、その感覚が生温い。誰かの体温を含んだ風のように近くに存在感を示す息遣いが今にも聞こえるようだった。


誰かそこにいるのか!


声が喉を通る前に波の音に掻き消えていく。答えはない。ただ何か強大なものが側にいる存在感だけを感じた。びりびりと伝わってくる感覚。確かに何かがそこにいるのに分からない状況に畏怖を刻まれる。不安、恐怖。身を震わせる感覚に肺の奥から冷たい潮にさらされる錯覚を覚える。だんだんと重くなっていく体に、抗えない強い力を感じながら、その夢は目覚めていった。



ちち、と小鳥の声がする。瞼の上からも眩しい光を感じ、悠人は目を覚ました。

頭が重い。酷く疲れた感じがする。

倦怠感を纏いながらゆっくりと体を起こすと、9時半をさす時計が目に入った。大学生の身分ではそんなに遅くない時間だ。起きながら、今朝見た夢を思い出していた。

あの夢はなんだったのだろう。妙にリアルな質感の感じられる夢だった。まるで本当に海に呼び出されたかのようだった。あの肌寒さ、呻る波の音、沈む砂浜。そして何よりも海の奥から流れてきた言葉のような形容し難い音をはっきりと思い出した。とても不気味な体験だった。悠人は少し身震いをして、ベッドから立ち上がる。

カーテンの隙間から射す朝日が眩しい。少し暑い空気はじっとりと肌に染み込んで初夏の匂いを漂わせていた。


今日は学校は昼からだっけ。まだ時間に余裕があるな。

悠人は着替えながら今日のスケジュールを確認する。昼から授業があって、そのあとはバイトがあったはずだ。

あぁ学校か。と悠人は思う。そういえば、祥子と別れてから一度もサークルに顔を出していなかった。周りには森岡に頼んで適当に誤魔化して貰っているけれど、そろそろそれも無理が出てきている。祥子と先輩のことを見るのは辛いけれど、流石にこのままずっと出ないわけにもいかない。

今日はサークルに出てみよう。そう決めて重い腰を上げると、悠人は出掛ける準備を始めた。頭にはまだあの夢の記憶がしこりのように残っている。感情が取り残されたように夢に引きずられているのだ。なんども怖さを感じた夢の情景を思い返しては不思議さに首をかしげるほど印象の強い夢だった。


悠人が明らかな違和感を感じたのはその日の昼過ぎのことだった。

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